お盆期間中に書いておきたいのです。

フィナーレです。ニヤニヤ

 

■登米から繋がっていたエミシ-----------------------
 

帰ってきてから改めて『かたづの』を読んでみると、
清心尼たち村人が八戸から遠野へ移住する時に、

ある峠で幻覚をみるシーンがあります。

峠では猛吹雪にあい、遭難しかけて危険な状態。
すると、清心尼の隣に、

いつの間にか亡霊のように一緒に歩いている
男性が現れる。

それが「伊加古(いかこ)」だったのですね。
漫画ではありますけどね。

伊加古とは、その都母にいたというサパネク。
ツモ・にさ体にいたエミシです。
だから「ねぶた祭り」の由来の人物。

5月に参拝していた登米の遠流別神社が繋がっていました。

 



遠流志別石神社とは、「おるしわけじんじゃ」で、
アイヌ説があります。


邑良志別君(おらしべ)は、奈良時代の東北蝦夷(陸奥国の蝦夷)。
第三等(朝廷が蝦夷に与えた爵位第三位)。


後世では東北地方の各神社で祀られており、蝦夷の人物神とされ、
「オラシ」の名称に関してもアイヌ人の信仰と関連するものとされる。

 

 

伊加古より前の715年の事です。

邑良志別君は、『続日本紀』に、

邑良志別君宇蘇弥奈(おらしべきみうそみな)という人が、

北方の狄(えぞ)の侵入に苦しみ悩まされている」

香河村(現胆沢町と水沢市の一部)に新しい役所を置き、
そこに村を作りたいと朝廷に願い出ます。

そのため、朝廷は、宇蘇弥奈を戸籍に登録させた。

 



朝廷の支配下になったとすれば、
蝦夷=熟(にぎ)蝦夷になったと思います。

そんな歴史がある登米の遠流別神社に
参拝していました。

それが都母に繋がっていたのです。

そのおよそ、100年後、
811年頃、にねぶた祭の由来として「邑良志別君」が登場。

天間林村に記録されることでは、

邑良志別村の都留伎(つるぎ)」が、
にさたい村の伊加古が宿営する都母村を襲撃します。


その時、踊りながら(都留伎が)入っていき、
踊り比べをしたのが、ねぶた祭りの発祥と言われる。


「ネプタ」と声を出しながら踊りをするような
風習があったのか、そのような話は二戸の歴史にもあります。

この都留伎が伊加古を説得し、
投降という形で綿麻呂のもとへ連れて行った
という話しがある。

もしかしたら、「蝦夷を以て蝦夷を制す」
朝廷のやり方だったかもしれないが。

登米にも同じ邑良志別君という役職をもったものがおり、
にさたい村にも、邑良志別君がいた事に。

同じ一族が、登米から胆沢に移住し、
朝廷側についたという事のなのか?

『天間村史』を参考に、

荒蝦夷=伊佐古(いかこ)と、なる。

→山地に住む山夷、馬産・畑作、軍事力、経済力が有。


熟蝦夷=都留伎(つるぎ)と、なる。

→北秋田の俘囚。
半独立性、出羽の支配下には収まっていなかった。


と、互いに蝦夷同志の派閥があった模様ですが、
熟蝦夷というのは、軍事力がもともとなく、
アイヌ人などの先住民がいたかもしれない。

 

朝廷が出羽から軍を派遣したのは、

都留伎の力添えもあったと思います。

しかし、力があったように見えるのは、伊加古の方にみえる。

エミシはとても強かったそうです。

伊佐古が強い軍事力をもっていた事を考えれば、
古くから、伊佐古は山夷の首長でした。=タタラ民

それらの北方と思われる山夷に悩んでいた
都留伎がいたことから、

まだ支配下になかった都留伎は
朝廷側につき、熟蝦夷という形になったのかもしれません。

詳しいところまでわかりませんが、
都母のあたりは、エミシの居住地でした。

それを治める(蝦夷同志の和解)のために、
坂上田村麻呂は最後の仕事として考えていたけど、

これには物部氏の計画もあったと思います。
金がたくさんとれる所の拠点でしたから。

(登米は大武丸がいた所)

阿部氏、海部氏、尾張氏もいたかもしれず。
秋田物部氏がいたように、
鳥取部などもその一人であり、

 

余談ですが、日本一の砂丘は、鳥取ではなく青森だよ。

鳥取部が残した「猿ヶ森砂丘」・・・

 

 

しかし、防衛装備庁?の弾道試験場であり、一般は立ち入り禁止。

青森は、いろいろありますね。チーン 

文室綿麻呂が和解を目指したらしいが
あまり積極的ではなかったようです。

「3月20日 2万6千人の兵を
陸奥、出羽から都母へ。(それでも1万人減らした)」

「賊の不意を襲い、
雷を侵して・・・60余人を殺略」

しかし、
激しい争いはなかったと考えられる意見も多い。

朝廷に反抗する人への殺害はあったかもしれないが、
多くは自由に選択させたという。

38年戦争が終わった直後でもあり、
長い戦争から綿麻呂は、朝廷にエミシへの配慮のため、
出羽に3年、陸奥に4年の租税の免税を願い出て、
許可されていることから、


綿麻呂も田村麻呂の偉業を受け継いだ人だったでしょう。

ですから、互いの主張があるため、
このへん、違う解釈があるのですね。

分断していくやり方を朝廷はしていますが、

互いに被害者であり、
加害者でもあるのです。

 

 

大武丸がいた登米の石越には、オナカマサマの石碑も多く、

口寄せが集まっていた場所です。

この2人のエミシの歴史があって
今のねぶた祭りがあったのですね。

青森の各地区によってねぶたの由来は、

異なるかもしれないです。

歴史も地区によって違うかもしれませんが、
都母の場合は、そうみたいです。

『かたづの』の漫画ですけど、
伊加古のセリフが、

「我が一族は、味方を装った敵にだまされて
この地で戦って果てた

我らの何倍もの勢力が我らを滅ぼした。

我らの怨念は風になり雨になり雲になって
今のこの地に漂い続けている。

我らを滅ぼした者の末裔達にはこの地を通らせない」


ということで、

これは、九戸政実の思いが重なっていると思います。

 

■栗原で散った九戸政実-----------------

 

それで、繋がってきたのが「九戸政実」でした。

 

まだあったのだね~。

九戸政実の気の毒な話しは前回かきましたが、
処刑された場所が、栗原の三迫だったんですよね。。。

しかも、この話し、昨年だったか、
鹿角出身のNさんからチラっと聞いた話しだったのです。

もしかしてーと思って確かめたら、そうだった。

あの時、私は栗原のコレハリ一族が埋葬されている
鳥矢ヶ崎遺跡に行っていた・・・

九戸政実の客将大里修理親基は、
武蔵七党の丹党安保実光の子孫と言われている。


鹿角安保氏の惣領です。
 

武蔵七党とは、秩父だ!

こちらのサイトが詳しいです。

 

 

※客将・・・客分ともいい九戸政実の
身内や家臣とは違い、外部からやってきて待遇を受けて仕えていた。

 

その大里とは、鹿角。

そして、九戸政実と共に、大里の人々も首謀者と集められ、
栗原で処刑されたと。


私の故郷である秩父横瀬町には鎌倉時代、
安保氏が住んでおり、丹党安保氏→丹党横瀬氏となった。


『安保文書』に「横瀬郷」が書かれている。

 



実家の横瀬は、昔、丹党安保氏の領土だったのです。
その安保氏が、鹿角にいったからです。

 


後に、その一族が九戸政実と関わっていたことがあったとは!

 

 

棚田がある所です。

 


武甲山


実家の横瀬町と鹿角の大里村が、
遠い親戚にあたるのかもしれません・・・。

安保氏系譜の中に「横瀬氏」の名があるとも。

そういうことで、
先祖供養は、ここまで繋がっていたということに驚きなのです。真顔

こちらのサイトが良いです。
ぜひ、読んでみてください。

 

 
現在も岩手県と宮城県の方々は年1回
お互い政実公のお墓参りをしているそうです。


そーだったのね~。泣


遠い地元のご先祖様の話しになりますが、
こんなに深いところに繋がるとは。

 

九戸氏に仕えていた大里の祖、安保実光(1142年)は、

父が丹綱房で、次男が横瀬氏にあたる。

 

その祖をもつ安保氏が、後に九戸についたという事に。

そういえば、

丹党安保氏は、武蔵七党の一人で、「白鳥」の名を記すのです。

丹経房の次男時綱が横瀬にいたそうで、
別名「横脛悪三郎(よこすねあくざぶろう)」と名乗っていたという。

横瀬の地名由来が、ここから由来していると思われ、
「悪」と「脛」というところから、深そうだよ。

それで、丹党は蛇一族です。

八幡平のサパネク、十和田の龍神、全部繋がっていました。

九戸政実の処刑された場所が
「大鳥公園」という所にあった。

大鳥は、ヤマトタケルの前にいたアジスキタカヒコネの
蛇一族を想像する。

鴨のことですね。

遠流志別石神社も「石」です。
石越の地名由来になっている「石子石」です。

 

謎の石。

遠流志別石神社のもうひとつの由来に、

ヤマトタケルは、倭姫命より明玉を授かった。

これを頭上に載けば、たちまち賊を鎮定できると。

それは、アカルタマ(明玉)といい、この地に祀られる。


この倭姫がヤマトタケルに授けた明玉とは、
「草薙劔」の事なのですが、
天照大神の渡来系の太陽信仰であり、

新たな、時代の到来を意味するもの。

ヤマタノオロチから取り出した剣が草薙剣です。

元来は、あのような石ではなく
「霊石」であり、明玉のような。

天の岩戸開きってことにしておく。

エミシの手中に戻ったと妄想する。

丹党安保氏は、埼玉の児玉を拠点としていた。
そこには、巨大な鏡岩があったから。

武士の中の武士である平家は、
元は蛇信仰の一族だったと考えられ、

彼らは、龍に変え、今に至ります。
(蛇龍信仰)

この話しからずっと繋がっていたのですね。

 


そんなことで、もうお腹いっぱい。カエル

ギブ。

 

頭から湯気がでた。

すごすぎですな、
青森。

 

さすがです。
もう十分、堪能できました。

 

ただ、青森はいろんなモノがはられていて、

海軍、原発、防衛庁のレーダ監視など、

とても多すぎて、これは厳しいな、と正直思いました。

でも、とても八戸が好きになりました!(単純)
ちょっとしかいなかったのに。

港の雰囲気がほんとによかったんですよ~。

主人もいい!と言っていたので、よっぽどです。

ここなら、上陸したい。
やっぱ、ムー人上陸しているね。笑

八戸には、またゆっくり行ってみたいです。
天気が良い日に。。。

宮城県に戻ると晴れていて、
石巻ではうっすらと虹がでてました。

 



たぶん、桃生町あたり。
ヒタカミの地なんだなぁ。

 



雨雲とすれ違いに帰った感じでしたが、

 

むつ市ではけが人はいないという事で、

安堵しましたが、

まだ九州、西日本地域が大変な様子なので、
気をつけてお過ごしください。

地球は、いろいろと変革の時にあります。

見守りましょう。

 

長々と青森歴史妄想におつきあい下さいまして、

ありがとうございます。

他にもいろいろ巡ってきた所あるので、
旅の思い出として、写真などを

あとでアップしておきますが、

ちょっと青森はお休み~。ヒヨコ