■アイヌ語の意味--------------------
前回につづきまして。
時代の転換期に登米があるのは、
登米の地名もアイヌ語だからでしょう。
トイオマ(登米になった説)
は、食の意味で、豊饒です。
栗原にいった猿の地名も、
岩手など北海道にも多い「サッピ」からと思います。
そのアイヌ語から猿になっているのですね。
「ケ」も食なので、豊受大神のトヨケが
アサヒなのも、この話しで明玉が繋がっているようです。
熊野もケツミコであって「ケ」ですね。
家津美御子。
トヨケの伊勢の斎宮がここにきて、
新たな太陽信仰を置いたのかもしれません。
明るい玉を「授けに来た」という事なのだと思います。
トベのような女性首長な日の巫女がいたことが、
あったとしたら、興味深いですぅ~。
■猿田彦命との境界----------------------
さて、今回は猿田彦命がキーワードでした。
九州~近畿地方まで征服してきた大和王朝は、
東北地方はまだ征服できていないため、
その境界線として猿田彦神社を祀っているのだと思い、
その痕跡が残されている。
その意図は、出雲と近畿の境、天上と地上の境界です。
それを「ヤチマタ」とよび、猿田彦は「ヤチマタの怪物」とされた。
※ヤチマタ・・・八街や八衢と書きますが、
四方八方向に流れる光。
赤い目をしているホウズキの~という猿田彦の描写は、
強い光を発する星のことを伝えているものであり、
宇宙の運行により地上はコントロールされている。
そして東北はヒタカミ国の終焉地だったので、
大和の奥は「高天原」とし、それ以南は「葦原中国」として
境界を引いたのではないか、との説があります。
天照の直系として系譜を整えるさい、
始祖の地を天上の高天原に設定したと。
狙いは、万世一系の正統性を示すため。
猿田彦命の別名「佐太大神」で「サ」なので、
斎宮なり「サ」の音は、サナンダやサクラなどもそうで、
邪気と食物増殖に関係するという。
※参考:『サルタヒコの謎を解く』より。
諏訪や日本海からのルートで太平洋側にきているのは、
秩父を例にあげると、タケミナカタ(国津神の象徴)の道に、
「サの道」があり、そこへ天津神のヤマトタケルが現れている。
という事になるので、宮城県にあった行神社(富谷)
に猿田彦命があったのは、大嘗祭の時にアユを献上する
国栖氏がいたからではないでしょうか?(ルーツは吉野)
秩父の札所は、荒川、赤平川、横瀬川を囲んで
観音堂を置いています。
武甲山が見えるように設定されている。
なぜなら、武甲山はかつて「嶽山」とよび、
豊饒の意味でつけられる名のため、
アユも豊饒の意味とされる。
猿田彦命を祀るところにアユが多くとれる川があるので、
古代の川漁が息づいている所に、猿田彦命を祀り、
ニニギの天孫を向かえ、天高原の天と黄泉国の地の
間をとりもつ「葦原中国」とした。
なので、倭姫が葬られた「尾上御陵」は、
倉田山に隣接する間の山(あいのやま:前方後円墳)にあり、
内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神)の中間の山に置いたのだろう。
間をとりもつのは、ククリヒメでした。
その役目を司る人だったと思います。
ヤチマタとつく神は、下鴨神社の河合神社に祀られています。
河合神社が玉依姫命をお祀りしているので、
(神武天皇の母)
繋がりますね。
天の岩戸のシーンより、
『天孫降臨の際、邇邇芸命(ニニギ)が天降ろうとすると、
高天原から葦原中国までを照らす神がいた。』
『その神は国津神の猿田毘古神と名乗り、
道案内をするために迎えに来たと言った。』
高千穂の天孫降臨神籬斎場
未知との遭遇・・・
ということで、さるちゃん降臨のような話しです。
津軽には早くから遠賀川(九州)系稲作がありました。
出雲が広めたものだと思います。
名取の十三塚古墳にも痕跡があった遺跡です。
日本海(山形)にもあったので、
九州~出雲~日本海(海路)~青森~太平洋へ(陸路)。
縄文と弥生の融合があった所ですね。
アユを献上する大嘗祭の話しで、
アユの漁場にも縄文遺跡があったこと。
海と山の文化が一緒になってます。
猿田彦命は弥生の稲や機織など大陸の知識を
受け入れて来た人なんですね。
その機織を今も継承しているのは、阿波忌部の関わりがある
一族ですね。
栃木県の麻農家さんもそうですが、
その神を倭文神(しとり)といい、東北では唯一
遠野に祀られていますが、
ご祭神は、天照皇大神 下照姫命 瀬織津姫命だそう。
機織のシタテルヒメと瀬織津姫。
そこに太陽神。
わかりやすい。
アカルヒメの別名が、シタテルヒメ。
遠野:土淵地区センター・倭文神社のまつり。
「ひどり」というのですね。
倭文神は、タケハヅチを祀る。(機織です)
天照大神を天の岩戸から誘い出すために、
文布(あや)を織ったとされる。
(カカセオを征服したが)
秩父長瀞:岩根神社の養蚕の女神像
比売神(ひめかみ)は人の名前ではなく神社の祭神の妻や娘の名前をいう。
またこの比売神は、養蚕女神の象徴ではないかとの事。
神社入口に、スサノオ像がありました。
ちなみに、
アカルヒメのことを、明るい玉と言った説もある。
このアカルヒメが、以前、五十瀬神社で書いていたのと繋がり、
メノウという赤い石との事もありますが、
「日の出の太陽を表す玉」であるという。
それは、ヤチマタを伝えているものなのでしょう。
ということで、ディープな登米はおしまい。
宮城県は、何もない・・・と思っていたけど、
深い歴史がありますね。
もっと掘ってみれば、どんどん出てくると思います。
今回は、猿田彦命がこんなに深く関わっているとは
思いもしなかったので、私の氏神様でもあるので、
親しみを感じました。
メッセージが強かったのは、融合です。
分断が差別をうみ、被害者意識が増すだけ。
もっと日本の文化知識や理解を深めてけろ。←なぜか仙台弁
て事なんでしょうが、
どんなに覚えても・・・忘れ・・・まっす。
間をとりもち受け入れて来た最後の縄文人が、
日本人ですからね。
おまけの写真だけ、のせておきま~す。
■大嶽山観音堂----------------------------
再び、大武丸さんに会いにいく。
すばらしい!
大きな十一面観音様がおります。(通常はお開きしてません)
どこにいっても天台系。円仁さん流派
霊山・霊地だったのですが、大武丸がここにいたので、
おっかけマロは、静鹿御前を味方につけ、大武丸を退治した後、
大武丸の首を埋めたところに観音堂を建てたという。
ハイヌベレの話しがここにもありますが、豊饒の意味です。
マロ伝説がとても多いですが、実際、どうなんだか。
実際は、そんなに来てませんよね?
藤原家には振り向かない静鹿御前だったので、
マロを通して(利用して)静鹿御前(みたいな巫女)を
操ることをしてきた藤原家なんだと思います。
マロは気づけなかったんだろうか。
そんな人っぽいけどー。
めっちゃ暗くて入れなかった洞窟。(懐中電灯必要かも)
奥まで入れませんでした・・・(大武丸の墓と伝わる洞窟)
ご開帳の時は、賑やかだったんですよ~。
奥の方に小さな観音様があります。
地主神というのだから、
やっぱりイザナギとイザナミの仲介をした
ククリヒメが、倭姫と一緒にいたのでは~?
そーだ、そーだ。
のの岳にも白山神社がありました。
階段あがったところ。
同じだ!
ここにも口寄せがいたと感じる。
だから、平泉なのかな。金のルートですから。
奥州藤原氏が深い関わりをもって大武丸に接してますね。
屋敷神がありました。
アラハバキかな?
■おまけ-----------------------
素敵なカフェを発見。
カレーもコーヒーも美味しかった~。
ぜいたく♪
また、登米に遊びにいきまーす。