旭山→大嶽山観音堂の最後に訪れたのが、
遠流志別石神社(おるしわけじんじゃ)です。

 



久しぶりの参拝でした。
初めて行ったのは2017年で、
この時は気づかなかったのですが、
近くに貝塚がありました。

 

 

富崎貝塚。

 


 

なるほど~。
だから倭姫とヤマトタケルなんですね。

 

 

 

アイヌコタンっぽい。

縄文から続いている里だったのですから、
アイヌの人たちの暮らしが今も残されているような風景です。

 

 



由来が興味深いので、以前書いていましたが、

こっちにまとめておきます。

場所は、登米市石越で、
「おかえりモネ」の舞台である登米。
が、こっちはマニアックすぎるね・・・

石越の五十瀬神社のすぐ近くにありましたので、
太陽神(渡来した天照神)のことを書いていましたが、
繋がっている神社です。

ちょっと長いです。

■由来について------------------

邑良志別君は、奈良時代の東北蝦夷(陸奥国の蝦夷)。
第三等(朝廷が蝦夷に与えた爵位第三位)。
後世では東北地方の各神社で祀られており、蝦夷の人物神とされ、
「オラシ」の名称に関してもアイヌ人の信仰と関連するものとされる。


記録によると、『続日本紀』霊亀元年(715年)10月29日条に記述が見られ、
陸奥の蝦夷である邑良志別君宇蘇弥奈たちの訴え出として、


「自分達は北方の狄(えぞ)の侵入に苦しみ悩まされ、
親戚も殺されたため、香河村(現胆沢町と水沢市の一部)に
新しい役所を置き、そこに村を作りたい」と、
異民族被害のために新しい土地へ集団移住することを願い出ており、

また、「編戸(へんこ)の民(=戸籍に登録された民)に入れて、
永く安心していられるようにしてほしい」と発言したと記されており、
朝廷の加護を得るために律令制下に入ることを要望している。

約100年後に、この付近に坂上田村麻呂が城を築くが、前述の記録のように、
この辺りは古くから蝦夷同士の争いが絶えず、
そのため、律令制=戸籍に登録される=朝廷の加護を得られるといった
考えに至ったものとみられる。

 



遠流志別石神社は、「石」ではなく、「君」の誤りで、
本来は、「邑良志別君 宇蘇弥奈(おらしべのきみ うそみな、生没年不詳)」
を祀る神社
という。

 



北方などの中国の方では、匈奴など騎馬民族なのですが、

彼らの残酷性はよく聞かれます。

かつては、中国チベット雲南省にいた「イ族」が、漢民族を主に

奴隷にしていたと言われ、

今では想像つかないですが、日本でも例外ではなかったと思います。

 

イ族は、チャン族の祖で、漢字は、「羊」に足がついた字なんですよ。

西洋で言う羊とはいろいろでてきますよ・・・。

そのイから「夷」とつけられた説もあります。

 

日本だと優秀な、イ=「伊」の名前をもちます。


岩手県胆沢に、
於呂閇志胆沢川神社(おろへしいさわがわじんじゃ)があり、
「オロヘシ」ではなく、「オロシヘ」=志閉(しへ)の誤字ともされ、
同じ邑良志と関連すると言われます。

於呂閇志神社と胆沢川神社の合併社で、
祭神は胆沢川の水速女命といわれ、
於呂閇志神社は、当社西方約10キロメートルにある猿岩
を「作神」として祀ったもの。


ということで、もうずっと「猿」がキーワードです。
朝廷が灌漑用水の工事をすると、岩にいる猿が邪魔した話しは、
阿武隈川にもあります。

治水工事を行う上で(稲作など)朝廷は、
水を使わせてくれない蝦夷たちへの不満があったようです。

当然でもありますが、蝦夷征伐は水の獲得争いと言っても
過言ではありません。

しかし、タタラ民はいろんな知識をもっていたので、
環境のことはよく知っていたと思います。(汚染もあった)

蝦夷といってもいろんな民族が関わっているので、
朝廷に対し戦って来たアイヌがいても不思議ではありません。

 

 

この場所も金のルート。

 

■倭姫がタケルに与えたもの-------------------

 

さて、この社伝について、倭姫の話しがあります。

「景行天皇四十年、皇子・日本武尊東征のおり、
伊勢神宮に参拝し、倭姫命より明玉を授かった。

これを頭上に戴けば、たちまち賊を鎮定できると。

無事、東国平定の後、この地に至るや
明玉は霊石と化し、よってこの地に祀ったという。


その霊石は、年々小石を産むが故に
里人は石神明神と尊崇し、石子石=石越という地名となった。」


子を産む石は、諏訪信仰によくありました。
七ツ森の方などにもありますね。

縄文が、諏訪信仰と一致している事が多いです。

この倭姫がヤマトタケルに授けた明玉とは、
「草薙劔」の事なのですが、
他に、天照大神の渡来系の太陽信仰。

 

ヤマタノオロチから取り出した剣が草薙剣で、

新しい産鉄族の誕生。

 

といったことは前回に書いてました。

 


また、斎宮の始まりと言われる倭姫なので、
元伊勢のことにも関係しています。

■倭姫とは------------------

ヤマトタケルが伝承としてあるように、
最初に熊襲征伐として九州からはじまった、
まつろわぬ民の討伐とも言われる。

倭姫は、記紀に伝える古墳時代以前の皇族。
第11代垂仁天皇の第4皇女とされます。

倭姫は、第10代崇神天皇の皇女「豊鍬入姫命(とよきいりひめ)」の
後継いで、天照大神の御杖代として大和国から
伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、
神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされます。
→伊勢にたどりつく前の地を、元伊勢という。

10代=崇神天皇 (大神神社)
→11代=垂仁天皇(倭姫) 
→12代=景行天皇(ヤマトタケルの父)

景行天皇になってから東北地方のエミシ征伐に何度もでてくるようになり、
ヤマトタケルは、熊襲、土蜘蛛、蝦夷征伐と続きます。


■10代と12代の違い-------------------

 

「変わるまでの間」の繋ぎとして、
第11代垂仁天皇の皇女である「倭姫命」が、
懸命に次の天皇(霊知り)や、神降ろしの世をどう立て直すか、
奮闘していたような話しです。

そして現在の伊勢神宮の内宮が(場所?)決まった。
ここまで探しに来ていたら興味深い。

第10代崇神天皇の時代までは、「それ以前」という朝廷が治める前の
古い神を信仰していたと考えられます。

シャーマニズムな人々の依り代というのが、石や植物であり、
また、蛇体という気のような霊体というもの。

 

※神社裏にある謎の空間

その精神文明から、物質文明に変わったのが、
10代と12代の境だったと思う。
そんな妄想をしてしまうような倭姫。

葛藤していたと思いますけど~。

 

 

(黒田清子様はお元気かしら~)→好きすぎて、さーやにしか見えない。照れ

大武丸の伝説がある有名な大嶽山観音堂のそばに、
石神社があります。

石神社は、大神神社(おおみわ)を分霊しており、
10代崇神天皇の一族の痕跡だと思います。

 

なので、この地に倭姫の伝説があると思います。


倭姫の伊勢探しの最初が三輪山(大神神社)からという。『倭姫世紀』

この石は、大武丸が投げたといった伝承も。
石越もオカミサンなどの口寄せが多く集まっていた
所でもあります。

 

※石神社の石碑

なかなか、ここまでそろっている石碑は見ないですね。
高野山、二十三夜塔、三夜、若木大権現、大六天・・・

 

 


三輪・深山は「みわ」信仰であり、
岩沼の深山は「三輪」でもあります。

なぜ、倭姫はヤマトタケルに明玉を授けたのか?
この伝承、どうしてそうなった?

ちょっと長くなってしまったので、
次にします。

スピリチャルな話しになりそうだけど。
宇宙規模な変革があったと思うこと。

(何が起きたかはわかりませんけど)

 

 

ハート型のあじさい~ウインク