夏になると、秋田物部氏が登場、
するようなのです。

夏らしくない天候ですが、
すっきりしないですね。

5、6年くらい前だったか、
お盆の時期、すごく秋田物部氏を妄想して
ブログにいっぱい書いてました。

 

なぜか、夏によく秋田へでかけてます。

 



いろいろ書いてましたが、
かなりの情報量で、
やっぱり読む気がしない。笑

でもあれから7、8年も経っているので、
アメブロの方にまとめておきます。

 

 

青いラインが雄物川。

秋田物部氏伝承の舞台です。

始めて唐松神社に参拝したのは、
2014年の8月のお盆前の頃。

なので、ブログにまとめる時が
お盆の時期なので、繋がりやすいのだと思います。

参拝した時は、午後の遅い時間だったせいか、
その日は、私たち夫婦だけで、

宮司さんに
「どうぞ、中に入って参拝してもいいですよ」
と、ご親切に声をかけてくださり、

本殿の中で、ゆっくり
お話を伺うことができました。

その日は、大阪から参拝にこられた方もいたと聞いて、
大阪からなぜ?とその時は思ったけど、
物部氏ならば、大阪からも来るでしょう。

そんな最初の体験が有難い計らいだったので、
すっかり魅了されてしまいました。

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大和物部、
秋田物部、

と、私は分けて考えています。

大和から秋田(日本海)へ経由したか、
秋田から大和へ経由したか。

北上したか
南下したか。

いつもここで意見が分かれる。

 

■秋田唐松神社

本当は、十和田湖へ行く予定で、
能代を経由していくルートでした。

協和町へは行けないだろうと思ったけど、
ちょうど、通り道だったのですね。

ラッキーにも秋田唐松神社へ立ち寄ることができたのです。

しかも、その数年後に、また行ってしまうのですよー。
2回参拝しています。

 

 

 



宮城県岩出山~398号線で栗駒方面を通り、
小安峡~13号線の横手市へ。

この時代から農業をやっていた地域もあったと思いますが、
今ほどではないはず。

しかし、広大な自然があり湿地帯があり、
山があり、温泉があり・・・
古代の豪族たちが好むはずです。

 



女性的な神社です。

 



【由来】

秋田県大仙市協和にある神社である。
女性の生涯を守る「女一代守神」であり、
縁結び、子宝、安産の神として

境の唐松さま」とも
呼ばれ親しまれている。

 



小野寺氏や佐竹氏の崇敬社であり、
唐松講で全県に知られていた。

中世より地元の豪族の後ろ盾を持たず、
近世末期はもっぱら

個人の努力によって崇拝者を集めていた。


神仏分離の際に愛宕神社と唐松神社の二社に分社され、
当初は物部氏の邸内神社とされたが後に郷社となった。




平安時代を起源とする蛇頭神楽が大仙市指定無形文化財にある。

 


※唐松神社蛇頭神楽(秋田民俗芸能アーカイブ)
 



 

唐松神社の違和感は、

鳥居を抜けると「階段を下りて」
神社が建っています。

 

下に神様が祀られています。

 

伝説では、
落馬説があって神様の前を通った佐竹氏が
馬から下りなかったので、神が怒って
佐竹氏は落馬した。

そのことで怒った佐竹氏が
神様を下に祀れ、と命じたといった内容だったと思う。

 


さて、
この神社が注目をあびたのは
『秋田物部文書』と言われる書物。

宮司を務める秋田物部氏に伝わる偽書である

「物部文書」の1つ
(「韓服宮 物部氏記録」以下「韓服宮記録」)


しかし、
古事記、日本書紀以外の

「個人の末裔が記したものはすべて偽書にされる」

日本の歴史が、光を浴びない理由

まあ、ここはスピリットに書いてみる。真顔


宮城県図書館まで行って
わざわざ借りて読んだ本です。

この本を置いている図書館は、
まずないです。
というか、借りる人なんていません。

ほとんど表には出せない内容らしく、
本にある内容でも一部だそうです。

でも、とても興味深い本でした。

が、内容をほとんど忘れてます。てへぺろ

過去にまとめた記事をふりかえり~。カエル


■唐松神社の由来


『物部文書』で統一します。

まず、名前の由来から。

「唐松」と書きますが、
「韓服宮(からまつのみや」
と言われ、


神功皇后の三韓征伐で「韓国(からくに)を征服したこと
を讃えて膽咋連が社を建立した故事に由来する。



※膽咋連→代表:物部 胆咋(いくい)
この場合の膽咋連は、石上神宮に仕えた
「もののふ」=モノを扱う集団→古代の神官をさす。

物部の由来には諸説ありますが、
一般的には「モノ」という霊や言霊などをさす。

後に、「武士」の「もののふ」になっていますが、
もののふと、同一の意味では最初はありませんでした。


物部守屋の一子、那加世(なかよ)が一族滅亡の後
捕鳥男速(ととりのおはや)にかくまわれ大和から


東奥(現在の東北地方)へ落ち延びたが、
逆合(現在の秋田県大仙市協和町境)で
櫃が動かなくなって立ち往生してしまい、

老人に土地のいわれをたずねたところ
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)
を祭る韓服林(からまつばやし)という場所で
あると教えられ、社殿を修復したとされる。


「動かない・・・」

の伝説は、後で繋がります。


物部守屋の子は、2人いた話で、
もう一人の名が記されていないのは、
女の子だったから?という推測がある。

 

その那加世が、秋田物部氏の祖と言われる。


たしかに、この天日宮は女性のためにある。

 


丸い石を集めているのは
オブ石という安産の御加護があり、

神功皇后が妊婦さんで戦ったと。

出産を遅らせるために、腹帯に石を入れた、

事に由来する。

 

 

 

 

 



これとよく似た思想は、古イギリスにもあり、
シルベリ・ヒルという、
新石器時代、ヨーロッパ最大の人工墳。

 



(図説 聖杯伝説 ~
その起源と秘められた意味: マルコム・ゴドウィンより)


子宮を示していると言われます。

 

身体の他の曲線には、
かつて塚の周りを流れていた水であり、
沈泥で描かれている。
土着信仰の典型。

 

 

丸い石を祀る。

(卵?)

 

 

天日宮

 



周りに溝をつくるのは
古墳時代の前方後円墳や
円墳のルーツがみえます。

 

 

グーグルマップの上からみた天日宮。


新たに生まれるための
誕生の意味がありますね。

その意味は、聖杯もあるでしょう。
母から受け継いでいる方の系譜です。

物部氏は、その「母」からきている系譜を
重んじていたと考えます。



例えば、宮城の
荒雄川神社の江合川(荒雄川)は、
荒雄岳をぐるっと一周しているんです!

自然の聖杯。


荒雄岳はブナ林の森ですごく良い山です。

「悪路王がいた山」といわれますので、

荒雄川神社は、古来から縄文祭祀があったところで、
瀬織津姫を祀っています。

 


■なぜ松にした?

ところで、

なぜ韓服から、松の漢字にあてた?

妄想するに・・・

松の木は日本にもありますが、
弥生時代の渡来人が住んでいた西日本では、
まだ松は今よりはずっと少なかったそうです。

百済は、松を聖なる木としていました。

クスノキ文化は、新羅・伽耶で、
松の木文化は、百済と言われます。


新羅はローマ、ギリシャの遺品(宝石などの装飾品)
がとても多く見つかっているので
クスノキの「月桂樹」思想がアジアに伝播したと
考えられます。

 



※紀元前420頃(wikipedia)

クスノキは、
古代から香料や料理の香りの文化ですね~。


それに対し、松は、針葉樹で冬でも葉が落ちないことから、
命にたとえて、永遠の命と考えてきました。
→不老不死の木

松の実が、細胞分裂みたいですよね。

 

※wikipedia

ということですから、
新羅を討伐した神功皇后の由来があれば、
百済系の人たちの信仰の場であったかもしれません。

でも、神功皇后の母は、
アメノヒボコの方ですから、新羅の人ですよね。

葛城高額姫(かずらきのたかぬかひめ)という方。

あれ?前回の話とかぶりますね。

だから、

百済と新羅の連合が、

東北であったと思います。



■愛子神のこと

宮司さんから「唐松山愛子神」という護符をみせて頂きました。

一番古いものでは、岩手県水沢市にあるお寺だそう。
お寺の名前忘れました・・・

胆沢城に物部氏の遺品が残っているそうです。
貞観の時代なので700年代でしょうか?
エミシ征伐として物部氏が藤原氏と参戦していた時代です。

博物館にこの護符を展示したところ、
唐松神社に専門家や歴史好きな人たちが
やってくるようになったそうです。

これを物部氏が崇拝していたというのですが、
具体的なことは、わかっていません。

カグツチ(火之迦具土神)
説が一般的ですが。

む~ん、カグの神だね。
カグヤ姫・・・

愛子を「あやし」と読むと言うので

「仙台にも愛子(あやし)がありますよ」と言ったら
知らなかったみたいで。

ということは、クリスチャンの地ですぞ・・・。
諏訪系の神様が多い宮城県北部ですから、
愛子にもありますよね。

諏訪だとモリヤと繋がりますね。

伊達政宗の長女、
えーと名前が出てこない。

キリスト教の活動を
愛子で行っていたと聞きました。

仙台愛子もいろいろあります~。

その愛子と関係するかは不明ですが、
タタラとキリスト教の関係は深いです。

マリア信仰は、洞窟が多いでしょ?

秋田は炭鉱が非常に多く、
東北北部はキリスト教伝来が多いですね。
珍しいことではないです。

 

 

見ずらくてすみません。

秋田の炭鉱跡です。

他に、

「漢」は「あや」とも言います。

あや(漢)は、朝鮮半島の加那(かや)国
有力であった「安那(あや)」
に由来するといわれていれ、
百済観音様を伝えた人々がルーツにあるようです。


「安那」

これは日本にもある!
日本では「やすな」と呼んだ。

古代吉備穴国造の領域であり、
郡名の読みも当初は「あな」であったが、
少なくとも平安時代までには

「やすな」と読まれるようになっていた。

でた、でた。

 

穴のこと?

繋がるよねーー
ずっと吉備団子!

いや、だんごじゃない。

吉備にある石上神宮の方では?!

秦氏と物部氏が、なんだか、
上手くいかなかった?

吉備の神宝を大和の石上神宮に移したという事。


そして、
wikpediaには、

愛は日本の古語では、
「かなし」という音に「愛」を当て、
相手をいとおしく感じる気持ちからきているとの事。

ですよね~・・・

 

 

■鳥海山が二ギハヤヒ降臨地?

さて、
『物部文書』によると、
降臨地は「鳥見山の潮処」で鳥海山。

 



旧事本紀では、河内国河上の「いかるが峰」
古事記と日本書記は、筑紫日向の高千穂とある。

複数降臨地があるという事なので、
九州だけに降臨地があるとは限らない。

丸子氏がいた鳥海山。

ワニでしたね。

 

「トミ」だから、トミナガスネヒコ説も。

ここまで逃れていたから、

物部氏も追って来た。

 

徐福説が、なまはげ上陸地の

男鹿半島にあるのも、納得です。

 

丸子親王という人がおりてきて、

この一帯では、昔、鳥肉は食べないタブーがあった。

 

※熊野:稲と烏

丸子氏の家紋

 

稲と烏(ヤタガラス)なので、鴨家が入ってます。


「豊葦原中ツ地、
千樹五百樹がよく生い茂る実り豊な国、鳥見山


とあり、潮処とは、繁木之本(しげきのもと)で、
日本の国名になる前は、このようによばれたそうだ。

 



(写真:玉鉾大神)

 

 

 



それで、ここが逆説。
日本海から南のヤマトへ南下した説。

鳥海山~男鹿半島~出羽へ。

鳥海山に降りたニギハヤヒは、
逆合川(協和町)の日殿山上に日の宮を造営。

国ツ神を祀る。

後に、大和へ下るのだが、
「天の磐船」で河内国のいかるが峰へ。
更に南の生駒山~大和へ入ったそうだ。


古事記では天地創造は、

造化三神に五神を具体的に述べている。

秋田物部文書では、皇結七柱大神とだけ記されている。


神々の名前を省略したのは、
神武東征以来天皇の結びつき以後、
長期間臣下になりさがった結果、自ら系図を省略したか、
又は、ある権力により無理に省略させられたか、不明な部分が多い。

 

 

唐松神社の特徴は、いろいろあり、

鈴をたくさん奉納しています。

 

これも珍しい。
他の神社にはないです。

とにかく、鈴の多さと大きさ。

あと、
男女の融合を示してます。

本殿に入るとよくわかります。

鈴を鳴らして参拝する形は、
物部氏が発祥だそうですよ!


鈴は鎮魂の意味がありますね。

ちょっとコトタマ・・・

コトタマ学では、鈴は人間が口を開いた形といわれる。

 



鈴を鳴らすのは言霊のことで、
五十鈴宮とは、五十音の言霊であるとする。

その太占(ふとまに)は、
言霊を表した動作で20である。

ここに「2拍手」は両手が10本だから、
2拍手で20本という形が生まれる。

※言霊学より

 

■誰がもたらした伝説か?


そんなことで、いろいろあるのですが、

基本的なことを書いておきました。

 

しかし、いろいろな言い伝え(伝説)の中に、

「熊野がはいっている」

ことが気になっていました。



「落馬説」のこと。
どこから、この話が入ったのかわかりませんが、

唐松神社が神仏分離したお寺の名が
「萬松寺」というのですね。

宗派でお寺の名前は決まっているもの?

と思いますので、同じ名前のお寺があるのは、

珍しくはないのですが、


山形の阿胡耶姫伝説が伝わるお寺
「萬松寺」といい、

同じく「物部守屋」を継承する痕跡があるのですよ。

(千歳山の入口)

 

※赤ラインのところの物部守屋とある。

(尊王攘夷の頃、神道の復権のためにつくられたとも)

 

ここは、明治天皇が順幸にきていたようだ。

だから、繋がっていると思うのですね。

というのは、山形の阿胡耶の伝説に、
藤原実方が登場します。

 

「動かなかった」ことも

「ここにしたい」と、神が言ったから?

 

松の木の精霊である阿胡耶姫の美しい伝説。

松の木は、阿古耶のために「動きたくなかった」。

 

でも、その後、あこやと別れた

松の木の精霊は、「橋になった」


実方も落馬していますよね、
名取道祖神の前を通って。

名取道祖神=唐松神社が似ていることです。

その共通点は、落馬と巫女の伝説です。

また、名取道祖神は、「金売吉次」の説になっている。

 

実方ではなく、金売吉次であると?

すれば、物部氏の集団となる。

 

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熊野比丘尼などがそうですが(遊女とか)

 

巫女は全国で布教活動をしてきましたから、

東北で病か何かで亡くなっていると思います。

 

巫女が巫女を供養する伝説として、

その地で勇者と結びつけて供養するものです。

 

巫女としての偉業を記す物語として。

 

実方と巫女が結びつけられているのは、

アメノウズメが裸体で踊ったから、

道徳上よくない神と受け止めた実方に

罰があったという解釈がある。

 

これは、萬松寺も「寺」なので、

実方と巫女を結びつけるのは、

タブーとなってしまう。

もうひとつ、福島の小手姫の地、
伊達政宗も落馬している伝説がある。

これは、秦氏の方ですね。

「地主神に対して罰を与えられた」
といったことで落馬したと伝わるのですが、

誰がこのような伝説にしたか?

やはり、熊野信者では?
落馬は隠語でしょう。

 

そこを終焉地とした理由、

 

七北田川も、志波彦

「馬が石に躓いて冠を落とした」


この場合、巫女というのは、

統治王、祭祀王というような

トベ系の神官のことだと思います。

 

だから、道祖神なのです。

それに唐松神社を「境」とよんだこと。

藤原実方は、熊野別当の一族であったと思います。
熊野信仰が多い東北ですから。

とにかく、いろいろ繋がります。

さて、まだこんな秋田物部妄想が
続いてしまいます。

次は、ちょっと祈祷みたいなこと。

 

おまけ----------------------------

 

日本海はしぶい~

 

 

 

 

菅江真澄もみた海。

「湯沢の浦」

 

 

当時とあまり変わっていない風景でした。