つづきです。
 

 

 

 

 

最初に戻ると・・・


和気清麻呂が摂津で川の
工事を行っていたこと。

そこから繋げると、
和気清麻呂は、宇佐八幡宮の神託事件が
ありましたね。

当時は、宇佐がしきっていた。
(鎌倉時代、宇佐八幡宮を「鎮西」といった)

会津若松の大塚山古墳の鏡と同じ型が、
岡山県(吉備国)「和気」の地名にあったこと。

「丸山古墳」に見つかっていた話で、

和気の地名は、「和気清麻呂の出生地」だった。

 



吉備は、吉備津神社があり、
ここに、菅原道真が大宰府へ行く途中で参拝している

※吉備津神社(wikipedia)

 

立派~

国宝ですって。

神社サイトをみると・・・


「古代太陽信仰の原点」とも言われてます。

 




これが桃太郎。

 


あんれ~、昭和の人みたいよ~、ニヤニヤ
(大吉備津彦命=桃太郎)

そして驚いた!
「卑弥呼」

 



古代邪馬台国の女王、
卑弥呼とは大吉備津日子命の姉である
大倭迹々日百襲比賣命
ともいわれています。


→箸墓古墳の巫女とされる人。


でも「現在準備中」ですと。


・・・表に出せない理由でも?

 

 


・・・え、

ということは、桃太郎のお姉さんが

 

卑弥呼なの?

 

たしかに「モモ」と呼びますね。。。

箸墓古墳に桃の種が見つかってますしね。

邪馬台国に繋がっていきそうですが、

見えそうで見えない。

あの古墳(はしはか)で眠っている卑弥呼が、
大和の桃さんではなく、

媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)
もいる・・・

どっちか。

妄想するに、

吉備に繋がるのは「桃」です。
→卑弥呼は、大倭迹々日百襲比賣命と言う。
(三輪の大物主)

しかし、迫害された葛城氏は、
事代主の媛蹈鞴五十鈴媛と言いはる。
(タタラ姫)

吉備国に侵入したのは、

葛城氏だった。

 

吉備氏VS葛城氏。

 

その葛城氏は、東北へ逃れた?

 

なんだろーー。


だから、媛蹈鞴五十鈴媛は、
母が三島溝咋なんだ。(事代主の方)
ので、なんだかぼやかされている。


しかし、どっちも同じ三輪から派生していない?


事代主は妻?の玉依姫に近づくとき、
和邇(鰐)の姿に変えたという。

→これが和邇(ワニ=丸)につながる。

ということは、
丸山古墳、宇佐の赤坂古墳、会津大塚古墳など
共通する項目に、事代主がある?

であれば、鴨氏に繋がるから。

 

では・・・

鬼退治した桃太郎にとっての

鬼とは何か?

 

もう一人の鬼道をあやつる

日の巫女なのでしょうか?

 

大物主と事代主の関係が

ありそうです。

 

事代主=恵比寿さん(磯良説あり)

神話では、ニニギの国譲りから、

「大三島」へ隠居したという。

→大阪に繋がる。

 

 

■治水は古墳のたまもの

ちょっと卑弥呼さんはおいときまして。

 

会津若松は、天神信仰が盛ん。

 



老舗菓子店のサイトより
https://www.taroan.co.jp/sweets/aizu-tenjin.html

東北最古の張子「会津の天神様」

会津では、男の子が生まれると、賢く、
健やかにそだちますようにと張子玩具「会津の天神様」を
贈る習わしがあります。


「会津の天神様」は今から400年前の蒲生時代に始まる、
東北ではもっとも古い張り子です。



小平潟天満宮は、三大天神のひとつ。

そして、もうひとつ、

「いざ!すすめ」という、
かっこいい~かけ声が聞こえてきそうな

「イサスミ」のこと。

伊佐須美神社。

 



神社由来の、大彦命(父)と武渟川別(子)がある。
四道将軍。

 

詳細は、こちらを。

 

 


「渟(ぬな)」は、何度も福島の黒沼神社で
妄想していたこと。

ヌナカワヒメとか。
日本海の「翡翠」のことです。


この「渟」の漢字をもつ天皇家や
皇子をたどると、

「耳」に到着する。

前回、大阪に
三島溝咋耳一族がいた三島のことがありました。

溝咋神社のこと。

これがヤタガラスでした。


お母さんカラス。指差し

神武天皇の兄が「神八井耳命」という。

多氏→大伴氏、阿蘇氏らが末裔になる。


大阪難波へ行った時に
連れていかれた神社が、
「御幸森」と「天神様」でした。

 

 

 

 

 



菅原道真公と戎さん(えびす)=「事を知る」事代主がいました。

 



御幸森は、百済王の聖地でもあり、
和歌まで残され、
秦氏の痕跡もあった。

 

 


押坂彦人大兄皇子(忍坂彦命)を唯一祀っていた神社で、
この方の息子も「茅渟王」と言われ、
(智努王とも書く)

これが福島の黒沼神社と繋がっていたから、

この神社、全く知らなかったので驚いた。

 

だから忍=信夫だと思う。


天武系の海人族でした。

これもかつて古墳をつくってきた
治水の技術者のことがある。

菅原道真=海人族。

「左遷目的で」追放した人を遣唐使にさせていた事がある。
(生きて帰ってくる人がほとんどいないため)

吉備真備もその一人だったのか?

でも、知識をもって無事に帰ってきた。

それは、優秀な海民を率いていたことがあると言う。
(安倍仲麻呂は、漂流し戻ってこれなかった)

 

 

吉備真備についた海民は、

「九州の海民」であることは言える。

 



安曇氏か?宇佐地域の海民などが
バックについていたのだろう。

秦の「はた」は、
パタの波多、でもある。

※復元された遣唐使船(wikipedia)

藤原家(恵美押勝)にとっては、誤算だった。

そんな(汚い)やり方はやめよう、と
遣唐使を廃止したのが

菅原道真だったのです

吉備真備から100年後のこと。

 

■新しい人=秦人

古代は、日本海が日本列島の玄関口でした

会津の源流「阿賀川」を経由して
越後~陸奥へ。

 



阿賀野川本流は福島県の荒海川(あらかいがわ)
を源流とし、会津地方で阿賀川(大川)
新潟県に入ると阿賀野川と名を変える。


アラ=産鉄用語。

・アラ→タタラ→事代主→媛蹈鞴五十鈴媛。

・アラ→ハハキ=蛇→大物主(三輪山)
=大倭迹々日百襲比賣命。

タタラにヘビが入るか、入らないか。

倭(日本列島)の山で採れた丹(辰砂)を、
卑弥呼が中国王朝に献上したと記されています。


古墳時代の繁栄は、
3~5世紀にわたる。

土と水の技術者は、
埴輪の発展にいたる→殉死をとめた。

治水技術と埴輪の技術は、セットです。

「遣唐使を止めたこと」

「殉死を止めたこと」

など、

人々の意識の高さを求めてきた時代で、

彼らには、知識があったのです。


だから、「津留」=ツルと呼んだ。
そのような人たちをみて「鶴」となる。

頭が赤い姿・・・?

鶏、ではなく、冠。


二渡、御渡(みわたり)・・・御渡か。

御島に対して、
御渡。

Mさん説では、
赤いのは、海の塩水で、
海民の髪の色が、赤茶色になるから、という
興味深い話。

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ところで、
会津若松に「秦人」がきていた。

 



こちらのサイトを参考にしました。↑

「8世紀中葉に、
陸奥国府の多賀城へ須恵器供給を行った
硯沢窯跡群で、韓半島系の工人が活動した


貞観地震の時に、朝鮮の技術者を
陸奥へ派遣していたそうだ。

 

 

金採取の百済のこと。

 

興味深いのは、
出土した会津若松市西木流C、西木流D遺跡に、
墨書土器が大量に発見。

 



その土器の
胴部側面に「梓 今来」と
刻書された須恵器横瓶があったと。

「今来(いまき)」が、
「今、来た」=新しい人が来た

という「外来」の人が来た、意味を含んでいるという。

※梓は、一文字書く時に「上梓」など、
奉納とかそんな意味あいだったと思う。


「今来」説は、

1、今来才伎(いまきのてひと)・・百済の職人
2、「今来隼人(いまきのはやと)」渡来人の集住地を母胎にした郡名
3、「大和国今来郡(いまきのこおり)」平城京に上京した隼人

といった意味に考えられるという。

そして、

会津若松市上吉田遺跡から「秦人」が記された
土器も発見された。

「秦□人カ」

それらの墨書坏には、
「今来」と刻書横瓶とほぼ重なる年代観が与えられるという。

そして、

『新編会津風土記』に、

現在の会津若松市神指(こうざし)に、
源融(みなもとのとおる)の
家来の秦人が、主人の命令により移住した」


と書いてあると。
その年代は、秦人と記された土器と一致するという。

源融(源氏物語のモデル)の

家来が秦氏?!絶望

もしかして、あの「もちずり石」は、
染めもの用に使っていた石ですからー。凝視

 

 

どーりで、即効いったよ。ここに。

 

「綾」ですから。

 

 

※源融の伝説があります。

てことは、あれは機織技術者であった
家来の秦人の物語?

 

 塩竈の祓戸神のこと。

 

 

 


稲荷神を先に参拝してからの習わしだった

塩竈さまなんだよ。

 

その稲荷神とは、猿田彦命なのよ!

ということで、
「秦」という名は、渡来してきた職人に
つけられた名であることが言える。

「東北では、陸奥国柴田郡新羅郷が
『和名類聚抄』に見え、列島北限の事例となる。」


とありますが、北限は、八戸まで痕跡を残しています。
(新羅神社)

こちらにいろいろ書いてます。

これは、貴重なのでは?

 

いろいろな、アジアのわだかまりを、

私は受け止める。

 

 

 

 

■いつの時代も悪役にされる


最後に、山形の鶴岡天満宮は「化けものまつり」
という奇祭があります。

 



この祭りは菅原道真公(845~903年)が
京都から九州大宰府に突然左遷されることになった際、

道真公を慕う人々が、時の権力をはばかり、
女性用の花模様の長襦袢を着て変装し


編み笠で顔を隠しながら密かに酒を酌み交わして別れを
惜しんだ
という言い伝えに由来しています。

 



菅原道真や平将門など、
祟神にされていますが、

男性が女装する、という風習が興味深い。

 

相当古い先住民のような気がしますね。

天栄村にも残ってます。

いつの時代も、悪人役として祀られてしまう人がいて、
密かに祭りをして「政(まつりごと)」に組みこむ。

そのおかげで、私たちが生きていることを、
痛感するのです。

ディープな「梅」はおしまい。