問題文(段落番号は便宜上付けたもの)
次の文章を読んで、後の設問に答えよ。
1 産業革命以前の大部分の子どもは、学校においてではなく、それぞれの仕事が行なわれている現場において、親か親代りの大人の仕事の後継者として、その仕事を見習いながら、一人前の大人となった。そこには、同じ仕事を共有する先達と後輩の関係が成り立つ基盤がある。アそれが大人の権威を支える現実的根拠であった。そういった関係をあてにできないところに、近代学校の教師の役割の難しさがあるのではないか。つまり学習の強力な動機づけになるはずの職業共有の意識を子どもに期待できず、また人間にとっていちばんなじみやすい見習いという学習形態を利用しにくい悪条件の下で、何ごとかを教える役割を負わされている、ということである。
2 中世では、学校においてさえ後継者見習いの機能が生きていた。たとえば、教師がラテン語のテクストを読む作業をする。あるいは文字を使って文書を作る書記の作業をする。それを生徒が傍で見て手伝いながら、読むこと書くことを身につけていく。こういう事態を指して、フィリップ・アリエスは、『〈子供〉の誕生』の第二部「学校での生活」において、中世には学校はあったが、教育という観念がなかったという。これの意味は、単に教授法が未開発だったために目的意識的な働きかけができなかったということではない。中世の生徒が、将来ラテン語を読み、文書を作る職業としての教師=知識人=書記の予備軍であったために、見習いという方式がそれに適合していた、ということである。
3 これは逆にいうと、中世の教師は、近代の教師によりも、同時代の徒弟制の親方に似ていることを意味する。中世の教師は、テクストを書き写し、解読し、注釈し、文書を作る人である。その職業を実施する過程の中に後継者を養成する機能が含まれていたということができる。その意味では、イ中世の教師は、逆説的にきこえるかもしれないが、教える主体ではなかった。同様に中世の生徒も教えられる客体ではなかった。両者は、主体と客体に両極化する以前の、同じ仕事を追求する先達と後輩の関係にあり、そこには一種の学習の共同体が成立していた。
4 後継者見習いが十分に機能しているところでは、教える技術は発達しにくい。まして、教える側の、教えられる側に対する働きかけを、方法自覚的に主題化する教授学への必要性は弱い。現に、教授学者たちが出現するには一七世紀を待たなければならなかった。
5 ただし近代の学校においても、先達、後輩の関係が成り立つ場合がある。例えば、現代の代表的モラリストで、典型的な中等教員の一人であったアランは、リセの生徒のときに出会った教師ラニョーに対して、「わが偉大なラニョー、真実、私の知った唯一の神」という最高の賛辞を捧げ、さらに「帰依とは我らが驚異する者に対する愛のことである」というスピノーザの言葉を共感をこめて引用している。そのアランの生徒であった文学者モーロワも、「私が師と仰いだアラン、崇拝してやまないアラン」を讃えるために一冊の本をかいている。
6 しかしこの種の師弟関係は、おそらく、書物を読み、書物をかくことを職業とする世界の先達と後輩の間でしか成り立たないであろう。将来、知識人になろうとする生徒、もしくは結果として知識人となった者だけが、教師への帰依を語る記録を残すことになるのではないか。ラニョーは、プラトンとスピノーザのテクスト講読だけを授業の内容とした。アランは、ラテン語と幾何学だけが、人間になるための真の必須科目であると信じていた。そういう教師に、工場の技師や商杜のセールスマン、あるいはふつうの杜会人を志望する生徒が「帰依」するとは考えにくい。
7 ラニョーやアランのように「帰依」されることは教師冥利につきる。だから教師はどうしても、子どもの中に自分のミニチュアを見たがる。とりわけ学問好きの教師は、自分と似た学問好きの生徒を依怙ひいきして、しかもそれを正当なことだと考える。教師的人間像を普遍的な理想的人間像であるかのように思いなして、それを子どもにおしつける。そしてそれを受けいれない子どもに、だめな人間というレッテルをはってしまう。しかし、子どもが教師的人間像を受けいれることは、生徒の大部分が教師後継者ではなくなった近代の大衆学校では、ごく限られた範囲でしか通用しない。
8 ウ教師と生徒の関係のこの難しさに対処するために、近代の教育の諸技術が工夫されたということができるだろう。もちろんそれだけが理由ではない。近代人が、自然に対して方法自覚的に働きかけて、自然を支配しようとする加工主体であること、その近代人の志向が子どもという自然にも向けられた、という理由も見のがすわけにはいかない。しかし、子どもの自発性を尊重しつつ、なお大人が意図する方向へ子どもを導こうとする誘惑術まがいの教育の技術を発達させる動機には、やはり、後継者見習いの関係が成り立ちにくくなったという事情が投影しているように思われる。見習いの機能が生きていた時代には、大人は、たとえ子どもを理解しないままでも、後継者を養成することができた。それとは対照的に、エ近代の学校教師は、子どもを社会人に育てあげる能力をほとんど失ったにもかかわらず、いや失ったがゆえに、子どもへの理解を無限に強いられる。