問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 産業革命以前の大部分の子どもは、学校においてではなく、それぞれの仕事が行なわれている現場において、親か親代りの大人の仕事の後継者として、その仕事を見習いながら、一人前の大人となった。そこには、同じ仕事を共有する先達と後輩の関係が成り立つ基盤がある。アそれが大人の権威を支える現実的根拠であった。そういった関係をあてにできないところに、近代学校の教師の役割の難しさがあるのではないか。つまり学習の強力な動機づけになるはずの職業共有の意識を子どもに期待できず、また人間にとっていちばんなじみやすい見習いという学習形態を利用しにくい悪条件の下で、何ごとかを教える役割を負わされている、ということである。
2 中世では、学校においてさえ後継者見習いの機能が生きていた。たとえば、教師がラテン語のテクストを読む作業をする。あるいは文字を使って文書を作る書記の作業をする。それを生徒が傍で見て手伝いながら、読むこと書くことを身につけていく。こういう事態を指して、フィリップ・アリエスは、『〈子供〉の誕生』の第二部「学校での生活」において、中世には学校はあったが、教育という観念がなかったという。これの意味は、単に教授法が未開発だったために目的意識的な働きかけができなかったということではない。中世の生徒が、将来ラテン語を読み、文書を作る職業としての教師=知識人=書記の予備軍であったために、見習いという方式がそれに適合していた、ということである。
3 これは逆にいうと、中世の教師は、近代の教師によりも、同時代の徒弟制の親方に似ていることを意味する。中世の教師は、テクストを書き写し、解読し、注釈し、文書を作る人である。その職業を実施する過程の中に後継者を養成する機能が含まれていたということができる。その意味では、イ中世の教師は、逆説的にきこえるかもしれないが、教える主体ではなかった。同様に中世の生徒も教えられる客体ではなかった。両者は、主体と客体に両極化する以前の、同じ仕事を追求する先達と後輩の関係にあり、そこには一種の学習の共同体が成立していた。
4 後継者見習いが十分に機能しているところでは、教える技術は発達しにくい。まして、教える側の、教えられる側に対する働きかけを、方法自覚的に主題化する教授学への必要性は弱い。現に、教授学者たちが出現するには一七世紀を待たなければならなかった。
5 ただし近代の学校においても、先達、後輩の関係が成り立つ場合がある。例えば、現代の代表的モラリストで、典型的な中等教員の一人であったアランは、リセの生徒のときに出会った教師ラニョーに対して、「わが偉大なラニョー、真実、私の知った唯一の神」という最高の賛辞を捧げ、さらに「帰依とは我らが驚異する者に対する愛のことである」というスピノーザの言葉を共感をこめて引用している。そのアランの生徒であった文学者モーロワも、「私が師と仰いだアラン、崇拝してやまないアラン」を讃えるために一冊の本をかいている。
6 しかしこの種の師弟関係は、おそらく、書物を読み、書物をかくことを職業とする世界の先達と後輩の間でしか成り立たないであろう。将来、知識人になろうとする生徒、もしくは結果として知識人となった者だけが、教師への帰依を語る記録を残すことになるのではないか。ラニョーは、プラトンとスピノーザのテクスト講読だけを授業の内容とした。アランは、ラテン語と幾何学だけが、人間になるための真の必須科目であると信じていた。そういう教師に、工場の技師や商杜のセールスマン、あるいはふつうの杜会人を志望する生徒が「帰依」するとは考えにくい。
7 ラニョーやアランのように「帰依」されることは教師冥利につきる。だから教師はどうしても、子どもの中に自分のミニチュアを見たがる。とりわけ学問好きの教師は、自分と似た学問好きの生徒を依怙ひいきして、しかもそれを正当なことだと考える。教師的人間像を普遍的な理想的人間像であるかのように思いなして、それを子どもにおしつける。そしてそれを受けいれない子どもに、だめな人間というレッテルをはってしまう。しかし、子どもが教師的人間像を受けいれることは、生徒の大部分が教師後継者ではなくなった近代の大衆学校では、ごく限られた範囲でしか通用しない。
8 ウ教師と生徒の関係のこの難しさに対処するために、近代の教育の諸技術が工夫されたということができるだろう。もちろんそれだけが理由ではない。近代人が、自然に対して方法自覚的に働きかけて、自然を支配しようとする加工主体であること、その近代人の志向が子どもという自然にも向けられた、という理由も見のがすわけにはいかない。しかし、子どもの自発性を尊重しつつ、なお大人が意図する方向へ子どもを導こうとする誘惑術まがいの教育の技術を発達させる動機には、やはり、後継者見習いの関係が成り立ちにくくなったという事情が投影しているように思われる。見習いの機能が生きていた時代には、大人は、たとえ子どもを理解しないままでも、後継者を養成することができた。それとは対照的に、エ近代の学校教師は、子どもを社会人に育てあげる能力をほとんど失ったにもかかわらず、いや失ったがゆえに、子どもへの理解を無限に強いられる

設問

(一)「それが大人の権威を支える現実的根拠であった」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(二)「中世の教師は、逆説的にきこえるかもしれないが、教える主体ではなかった」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「教師と生徒の関係のこの難しさ」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(四)「近代の学校教師は、子どもを社会人に育てあげる能力をほとんど失ったにもかかわらず、いや失ったがゆえに、子どもへの理解を無限に強いられる」(傍線部エ)とあるが、教師が「子どもへの理解を無限に強いられる」とはどういうことか、わかりやすく説明せよ。

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問題文

1 なにゆえに死者の完全消滅を説く宗教伝統は人類の宗教史の中で例外的で、ほとんどの宗教が何らかの来世観を有しているのであろうか。なにゆえに死者の存続がほとんどの社会で説かれているのか。答えは単純である。ア死者は決して消滅などしないからである。親・子・孫は相互に似ており、そこには消滅せずに受け継がれていく何かがあるのを実感させる。失せることのない名、記億、伝承の中にも、死者は生きている。もっと視野を広げれば、現在の社会は、すべて過去の遺産であり、過去が沈殿しており、過去によって規定されている。この過去こそ先行者の世界である。そもそも、「故人」とか「死んでいる人」という表現自体が奇妙である。死んだ人はもう存在せず、無なのであるから。ということは、こうした表現は、死んだ人が今もいることを指し示している。先行者は生物学的にはもちろん存在しないが、社会的には実在する。先行者は今のわれわれに依然として作用を及ぼし、われわれの現在を規定しているからである。たとえば某が二世紀前にある家を建て、それを一世紀前に曾祖父が買い取り、そこに今自分が住んでいるという場合、某も曾祖父も今はもう亡いにもかかわらず、彼らの行為がいまなお現在の自分を規定している。先行者がたとえまったくの匿名性の中に埋没していようとも、先行者の世界は厳然と実在する。この意味で、死者は単なる思い出の中に生きるのとはわけが違う。死者は生者に依然として働きかけ、作用を及ぼし続ける実在であり、したがって死者を単なる思い出の存在と見なすことは、時として人々に違和感を醸し出す。人々は死者を実体としては無に帰したと了解しつつも、依然として実体のごとく生きているかのように感じるのは、そのためである。
2 名、記憶、伝統、こうした社会の連続性をなすものこそ社会のアイデンティティを構成するのであり、社会を強固にしてゆく。言うまでもなくそれは個人のアイデンティティの基礎であるがゆえに、それを安定させもする。したがって、個人が自らの生と死を安んじて受け容れる社会的条件は、杜会のこうした連続性なのである。
3 人間の本質は社会性であるが、それは人間が同時代者に相互依存しているだけではなく、幾世代にもわたる社会の存続に依存しているという意味でもある。換言すれば、生きるとは社会の中に生きることであり、それは死んだ人間たちが自分たちのために残し、与えていってくれたものの中で生きることなのである。その意味で、社会とは、生者の中に生きている死者と、生きている生者との共同体である。
4 以上のような過去から現在へという方向は、現在から未来へという方向とパラレルになっている。イ人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う。ときにはまだ生まれてもいない人を念頭に置いた行為すら行う。人間は死によって自己の存在が虚無と化し、意味を失うとは考えずに、死を越えてなお自分と結びついた何かが存続すると考え、それに働きかける。その存続する何かに有益に働きかけることに意義を見出すのである。ここで二つの点が大事である。まず、それは虚妄でもなければ心理的要請でもないということである。それは自分が担い、いま受け渡そうとしている社会である。第二に、人ははかない自分の名声のためにそうしているのではないということである。むろん人間は価値理念と物質的・観念的利害とによって動く。したがってここでは観念的利害が作用してもいるのであろうが、それは価値理念なしには発動しない。ここで作用している価値理念とは、「犠牲」ということである(後述)。
5 社会の連帯、つまり現成員相互の連帯は必ず表現されなければならない。さもなくばそれは意識されなくなり、弱体化してしまう。まったく同じことがもう一つの社会的連帯、つまり現成員と先行者との連帯にも当てはまる。この連続性が現にあるというだけでは足りない。それは表現され、意識可能な形にされ、それによって絶えず覚醒されるのでなければならない。この縦の連続性=伝統があってこそ、社会は真に安定し、強力であり得る。それゆえ、先行者は象徴を通じてその実在性がはっきり意識できるようにされなければならない。ウ先行者の世界は、象徴化される必然性を持つということである。他方、来世観が単なる幻想以上のものであるなら、何らかの実在を象徴しているのでなければならない。来世観は、実在を指示する必然性を持つということである。これら二つの必然性は、あい呼応しているように思われる。
6 人類の諸社会で普遍的に非難の対象となることの一つは、不可避の運命である死をひたすら呪ったり逃れようとする態度であり、あるいはそうした運命のゆえに自暴自棄となり頽廃的虚無主義に落ち込むことである。どのような杜会でも、人間は、老いて行くことを潔く受け容れるように期待されている。死がいかんとも避けがたくなったときに、その運命に従容として従うことを期待されている。それは無論、死ねばよいと思われているのとはまったく異なる。悲しみと無念の思いにもかかわらず、そうした期待があるということなのである。ここでは事の善し悪しは一切おいて、なにゆえにそうした普遍性が存在するのかを考えてみたい。それは来世観の機能と深い関わりがあるように思われるからである。
7 年老いた個体が順次死んでいき、若い個体に道を譲らないなら、集団の存続は危殆に瀕する。老いた者は、後継者を育て、自分たちが担っていた役割を彼らが果たすようになるのを認めて、退場していく。これが人間杜会とそこに生きる個人の変わらぬ有りようである。その場合、積極的に死が望まれ求められるのではない。人は死を選ぶのではなく、引き受けざるを得ないものとして納得するだけであり、生を諦めるのである。それは他者の生を尊重するがゆえの死の受容である。これは、他者の命のために自分の命を失う人間の勇気と能力である。たとえ客観的には杜会全体の生がいかに脆い基盤の上にしか据えられていなくとも、また主観的にそのことが認識されていても、それでもエ他者のために死の犠牲を払うことは評価の対象となる。これこそ宗教が死の本質、そして命の本質を規定する際には多くの場合に前面に打ち出す「犠牲」というモチーフである。それは、全体の命を支えるという、一時は自らが担った使命を果たし終えたとき、他の生に道を譲り退く勇気であり、諦めなのである。それは、自らの生を何としてでも失いたくない、死の不安を払拭したい、死後にも望ましい生を確保しておきたいという執着の対極である。一方でそうした執着を捨てきれないのが人間であると見ながらも、主要な宗教伝統は、まさにそれを克服する道こそ望むべきものとして提示する。このモチーフは、いわば命のリレーとして、先行者の世界と生者の世界とをつないでいる価値モチーフであるように思われる。そうであれば、オ先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、通底するないし対応するところがあるように思われる。

設問

(一)「死者は決して消減などしない」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(二)「人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「先行者の世界は、象徴化される必然性を持つ」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(四)「他者のために死の犠牲を払うことは評価の対象となる」(傍線部エ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(五)「先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、通底するないし対応するところがある」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。全体の論旨に即して100字以上120字以内で説明せよ。

(六)省略

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 待ち合わせ場所にすでに相手が到着していて、しかもそのひとが後ろ向きに立っていたような場合、 一瞬、どんなふうに声をかけようかと、迷いながら背後からそのひとに近づいていく。
2 前からだったら、目と目があえば、それで済む。待った? 久しぶりね、さあ、行こう―会話は船のように自然と進む。
3 アヒトの無防備な背中を前にすると、なぜか言葉を失ってしまう。つきあってきたのは、どのひととも、彼らの正面ばかりのような気がして、心もとなく、背中を眺めやる。
4 そのひとが、くるっと後ろを振り向けば、ただちにわたしは、そのひとの世界に合流できるのに、後ろ姿は、閉ざされた扉だ。そのままわたしが行きすぎれば、そのひととわたしは永遠に交わらないまま、これを最後に別れてしまうかもしれない。
5 待ち合わせの約束を、 一方的に破棄するのだから、これは裏切りだが、出会うことは常におそろしい衝突でもあるから、衝突をさけて、ひとの背後を、ひたすら逃げ続けるという生き方もある。例えば、犯罪者か逃亡者のように。
6 そういう考えが、ひとの背を見ながら、わたしのなかにひょこっと現れる。そのことはわたしを、少し驚かす。わたしは何かを恐れている。
7 そもそも背中は、そのひとの無意識が、あふれているように感じられる場所である。だから、誰かの後ろ姿を見るとき、見てはならないものを見たようで、後ろめたい感じを覚えることもある。
8 背中の周りに広がっているのが、そのひとの「背後」と呼ばれる空間だ。自分の視線がまったく届かない、見えない後ろ半分のこと。わたしはこの空間になぜか惹かれる。見えない、というところに惹かれているのだろうか。

9 ひとは自分の背後の世界で、何が起きているのか、知り得ない。だから背後は、そのひとの後ろに広がっているのに、そのひとだけを、唯一、排除して広がっている。
10 背後という空間から、その人自身が排除されているといっても、それはひとと背後が、無関係であるということではない。振り返りさえすれば、いつでもひとは、自分の背後がそこにあることに気づく。もちろん、振り返ったのち一瞬にして、そこは背後ではなくなるわけだが、先ほどまで背後としてあった気配は、すぐには消えないで残っている。
11 そのとき今度は正面であったところが、自分の背後と化している。しかし意識が及ぶのは、常に現前の世界で、背後のことは即座に忘れられる。視線の行くところが、意識の向くところだ。だから目を開けて、背後を考えるのは、開いている目を、ただの「穴」とすることに他ならない。その穴のなかを、虚しい風が通り抜けていく。イ背後を思うとき、自分が、がらんどうの頭蓋骨になったような気がする
12 ひとと話をしていて、話の途中で、そのひとの背後に、ふと視線が及ぶことがある。     
13 何かとても大切なことを話しているときに、後ろで、樹木がはげしく風に揺られていたり、夕日がまぶしく差し込んでいたり、鳥が落ちてきたり、滝が流れていたり、不吉な雲が流れていたりするのに目がとまる。
14 不思議な感じがする。こちら側の世界と触れ合わない、もうひとつの世界が同時進行で存在している。そのことに気づくとおそろしくなる。ウ背後とはまるで、彼岸のようではないか
15 そしてわたしが見ることができるのは、常に、他者の背後ばかりだ。見えるのが、いつも、ひとの死ばかりであるということと、これはまったく同じ構造。
16 自分の死が見えないように、自分の背後は見えないし、そもそもわたしは、自分の後ろ側など、まるで考えもせずに暮らしている。見ることができないし、見る必要もないのだ。
17 ただし、着物を着て、帯の具合を見たいときなど、あわせ鏡で確認することはある。このことを考えると、やつばり鏡とは、魔境へひとを誘う道具であると思う。しかも、背後へは、この道具をダブルで使用しなければならないのだから、ひとが自分の背後へ到達することの、おそろしさと困難さがわかろうというものだ。
18 ともかく、背後は死角である。
19 死角を衝かれる時、ひとは驚く。わたしが冒頭に、後ろからどう、ひとに声をかけようか、と迷ったのも、相手をびっくりさせないためにはどうするのがいいのか、という思いもあった。
20 そもそも身体に触れないで、声だけで、そのひとを振り向かせることはできるのだろうか。
21 簡単なのは、名前を呼ぶことだ。こうしてみると、名前というのは、そのひとを呼び出す強力な呪文みたいなものである。
22 わたしは会話のなかで、対面するひとの名前を呼ばずして、そのひとと会話を進めることに、いつも居心地の悪い思いを持つ。あなたという二人称はあるけれども、固有名詞で呼びかけずにはいられない。相手のひとにも、名を呼んでほしい。
23 それはわたしが、何か強い結びつきで、この同じ場に、対話の相手を呼び出し、呼び出されたいと願うからなのだろう。
24 名前を呼ばずに、例えば、あのーお待たせしましたとか、小池でーす、こんにちは、とか、そういう類の言葉を投げかけて、そのひとが確実に振り向くかどうか。わたしにはほとんど自信がない。
25 だからそういうとき、やつばり、相手の肩のあたりを、ぼんと軽く叩くかもしれない。あるいはわざわざ正面へ、まわるか。

26 エ背後の世界をくぐるとき、わたしたちは一瞬にしろ、言葉というものを、放棄しなければならないということなのだろうか

設問

(一)「ヒトの無防備な背中を前にすると、なぜか言葉を失ってしまう」(傍線部ア)とあるが、「無防備な背中」とはどういうことか、説明せよ。

(二)「背後を思うとき、自分が、がらんどうの頭蓋骨になったような気がする」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「背後とはまるで、彼岸のようではないか」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(四)「背後の世界をくぐるとき、わたしたちは一瞬にしろ、言葉というものを、放棄しなければならないということなのだろうか」(傍線部エ)とあるが、「言葉」を「放棄しなければならない」とはどういうことか、説明せよ。

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 すべての道徳は、ひとが徳のある人間になるべきことを要求している。徳のある人間とは、徳のある行為をする者のことである。徳は何よりも働きに属している。有徳の人も、働かない場合、ただ可能的に徳があるといわれるのであって、現実的に徳があるとはいわれないのである。アリストテレスが述べたように、徳は活動である。ひとが徳のある人間となるのも、徳のある行為をすることによってである。それでは、如何なる活動、如何なる行為が徳のあるものと考えられるであろうか。この問題は抽象的に答えられ得るものでなく、人間的行為の性質を分析することによって明らかにさるべきものである。
2 人間はつねに環境のうちに生活している。かくてア人間のすべての行為は技術的である。言い換えると、我々の行為は単に我々自身から出るものでなく、同時に環境から出るものである、単に能動的なものでなく、同時に受動的なものである、単に主観的なものでなく、同時に客観的なものである。そして主体と環境とを媒介するものが技術である。人間の行為がかようなものであるとすれば、徳は有能であること、技術的に卓越していることでなければならぬ。徳のある大工というのは有能な大工、立派に家を建てることのできる大工であり、これに反してあるべきように家を建てることのできぬ大工は大工の徳に欠けているのである。徳をこのように考えることは、何か受取り難いように感ぜられるかも知れない。今日普通に、道徳は意志の問題と考えられ、徳というものも従って主観的に理解されている。しかるに例えばギリシア人にとっては、徳はまさに有能性、働きの立派さを意味したのである。この見方はルネサンスの時代に再び現われた。徳はカであるということも同様の見方に属している。実際、人間の行為はつねに環境における活動であり、かようなものとして本質的に技術的であることを思うならば、イ徳を有能性と考えること、それを力と考えることでさえも、理由があるといわねばならぬ。行為は単に意識の問題でなく、むしろ身体によって意識から脱け出るところに行為がある。従って徳というものも単に意識に関係して考えるべきものではないのである。芸術を制作的活動から出立して考察し、その一般的原理は美でなく却って真理であるといったフィードレルは、芸術的に真であることは、意図の、意欲の問題でなく、才能の、能力の問題であると述べている。我々は道徳的真理について、同じように、道徳的に真であることは、単に意志の問題でなく、有能性の問題である ということができるであろう。
3 尤も、行為はすべて技術的であるにしても、すべての技術的行為が道徳的行為と考えられるのではないであろう。固有な意味における技術は物の生産の技術であって、かような技術的行為はそれ自身としては道徳的と見られないのが普通である。道徳的という場合、それは物にでなく人間に、客体にでなく主体に、関係している。技術的行為について徳が問題にされる場合においても、それは主体或(ある)いは人間に関係して問題にされるのである。ひとがその仕事において忠実であること、良心的であることは、道徳的であるといわれる。そのとき問題にされているのは、彼の仕事でなく、彼の人間である。しかしながら他方、如何なる人間の行為も物に関係している。我々自身或る意味では物であり、人と人との行為的連関は物を媒介とするのがつねである。人間の徳を彼の仕事における有能性から離れて考えることは抽象的であるといわねばならぬ。
4 それのみでなく、技術の意味を広く理解して、人間の行為はすべて技術的であると考えるとき、徳と有能性との密接な関係は一層明瞭(めいりょう)になるであろう。従来技術といわれたのは主として経済的技術である。かように技術というと直ちに物質的生産の技術を考えることは、近代における自然科学及びこれを基礎とする技術の飛躍的発達、それが人間生活にもたらした顕著な効果の影響のもとに生じたことである。しかしギリシアにおいて芸術と技術とが一つに考えられたように、一切の文化は技術的に形成されるものである。そして独立な主体と主体とは、客観的に表現された文化を通じて結合される。主体と主体とはすべて表現を通じて行為的に関係する。人と人とが挨拶を交わすとき、その言葉はすでに技術的に作られたものである。挨拶は修辞学的であり、修辞学は言葉の技術である。そのとき、彼等が帽子をとるとすれば、そこにまたすでに一つの技術がある。一般に礼儀作法というものは技術に属している。ウ技術的であることによって人間の行為は表現的になる。礼儀作法は道徳に属すると考えられているように、すべての道徳的行為は技術とつながっている。礼儀作法は一つの文化と見られるが、一切の文化は技術的に作られ、主体と主体との行為的連関を媒介するのである。経済はもとより、社会の諸組織、諸制度も技術的に作られる。自然に対する技術があるのみでなく、人間に対する技術がある。人間は自然的・社会的環境において、これに行為的に適応しつつ生活している。自然に対する適応と社会に対する適応とは相互に制約する。自然に対する適応の仕方が社会の組織や制度を規定し、逆にまた後者が前者を規定する。自然に対する技術と社会に対する技術とは相互に連関している。そして歴史的に見ると、近代社会における中心的な問題は自然に対する技術であったが、それが産業革命となり、その後その影響から重大な社会問題が生ずるに至り、現代においては社会に対する技術が中心的な問題になっているということができるであろう。
5 しかし道徳は外的なものでなく、心の問題であるといわれるとすれば、そこに更に心の技術というものが考えられるであろう。心の徳も技術的に得られるのである。人間の心は理性的な部分と非理性的な部分とから成っているとすれば、理性が完全に働き得るためには非理性的な部分に対する理性の支配が完全に行われねばならぬであろう。この支配には技術が必要である。人間生活の目的は非理性的なものを殺してしまうことにあるのでなく、それと理性的なものとを調和させて美しき魂を作ることであると考えられるとすれば、技術は一層重要になってくる。心の技術は物の技術と違って心を対象とする技術であるにしても、それは単に心にのみ関係するものではない。この技術もまた一定の仕方で環境に関係している。即ち物の技術においては、技術の本質であるところの主観と客観との媒介的統一は、物を変化し、物の形を変えることによって、物において実現される、そこに出来てくるのは物である。心の技術においても環境が問題でないのでなく、ただその場合主観と客観との媒介的統一は、心を変化し、心の形を作ることによって、主体の側において実現される。かくしてエ「人間」が作られるとき、我々は環境の如何なる変化に対しても自己を平静に保ち、自己を維持することができるのである。その人間を作ることが修養といわれるものである。修養は修業として技術的に行われる。しかしながら心の技術は社会から逃避するための技術となってはならぬ。身を修めることは社会において働くために要求されているのである。修業はむしろ社会的活動のうちにおいて行われるのである。我々は環境を形成してゆくことによって真に自己を形成してゆくことができる。いわゆる修業も特定の仕方において主体と環境とを技術的に媒介して統一することであるにしても、心の技術はそれ自身に止まる限り個人的である、それは物の技術と結び付くことによってオ真に現実的に社会的意味を生じてくるのである。

設問

(一)「人間のすべての行為は技術的である」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(二)「徳を有能性と考えること、それを力と考えること」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「技術的であることによって人間の行為は表現的になる」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(四)「『人間』が作られる」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(五)「真に現実的に社会的意味を生じてくる」(傍線部オ)とあるが、なぜそのように言えるのか、本文全体の論旨に即して100字以上120字以内で説明せよ。

(六)省略

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 もとより個の没落は、生命倫理においてだけ見えてくるものではない。判断の基盤としての個人が遙かに乗り越えられてしまうというのは、環境問題の方がイメージしやすいだろう。たとえば殺虫剤や核エネルギーが現在の消費生活を支えている一方で、未だ生まれぬ世代の権利を侵害している可能性があるという事態に直面したとき、個人の欲望の制限を受け入れるためにも、後の世代とのなんらかの共同性を、判断の新たな足場として構築しようとしていくのは、自然な流れだろう。人間以外の生物はもちろん、山や川などにさえ、尊重される価値を見出そうとする傾向は、今やさほど珍奇な印象を与えなくなったが、そこでは人間中心主義を排除しつつ、個人はもちろん、時間的広がりを含み込んだ人類さえも超えて、ア「地球という同一の生命維持システム」を行為規範の基盤として考えることが試みられるようになっている。
2 だがことは、このような、いわゆる「問題」においてだけではない。日頃の生活のなかでも私たちは、個が希薄化し匿名のなにものかに解消されていくことを薄々感じている。なるほど今日ほど、個性的でありたいという欲望が広く行き渡っている時代は、少なくとも日本の場合、かってなかったかもしれない。私たちは、きわめてたくさんの欲望をもつ。もちろん他人と同一の欲望をもつことに、安心感を覚える場合も多いが、衣服や自動車の選択に見られるように、周りを見回し他人と異なるものをもとうとすることも、少なくない。それは同一のものを巡る抗争を回避するためだけでなく、平均性を嫌い個性的であろうとする意志を示している。その結果欲望は、大量かつ多様に吐き出され、それに応じて実にさまざまなものが生み出されることになる。けれどもそうしたイ欲望の多様化は、奇妙なことに画一化と矛盾せず進行している。「あなただけの……」と囁く宣伝コピーにもかかわらず、「私だけ」のはずのものに、どこか既製品の臭いがするのであり、「本当にお前が欲しいものはなんなのか」と自ら問い返してみるならば、「本当に」という言葉の虚しい響きが経験されるだけだ。ここでいう「個性」とは、実は大量のパターンのヴェールに隠された画一的なものでしかなく、それへの志向は、私たちとはちがうどこか他所で作られ、いつのまにか私たちに宿り、あたかも私たち自身の内から生じたかのように、私たちを駆り立てていく。そのような欲望の産地を、消費生活の中心にいるかに見える個人、たとえばデザイナーなどに求めても虚しいことは、だれもが知っている。彼もまた大衆の周りを回っている。むしろ欲望の源泉は、相互に絡み合って生成消滅している情報であり、個人はその情報が行き交う交差点でしかない。急速に広まった情報のネットワークを支えているコンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつことによって、「責任」の所在はおろか、その概念の意味さえ曖昧(あいまい)になっているといわれる。近代思想のなかで「責任」が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだったことからすれば、「責任」概念の曖昧化は、自己存在が情報の網目へと解体されていくことを示唆する現象であろう。いずれにせよ、自己が情報によって組織化されるという、この傾向は、ますます一層促進されていくにちがい。携帯電話がインターネットに組み込まれた今日、大衆のなかでの奇妙な孤独という形で、わずかに一人の時間が許されていた通勤電車のなかにさえ、外部からの組織化が浸透していく。
3 このように個の解体が、現代も続く同じ一つの流れだとすると、集団からの個の救済というシナリオに、少なくとも私は、リアリティを感じないといわざるをえない。個が他のなにものにも拠らず存在しているのであれば、それはそもそも解体しようもないだろう。それが解体してしまうのは、ウ個そのものが集団のなかで作られていく作りものにすぎないからであり、集団への個の解体とは、個のそうしたフィクショナルな存在性格が露呈してきたことだと、私は考えるのである。
4 しかしながら、さらに重要なことだが、集団への解体が進行していくといっても、個に代わって集団が、時代を画す新たな「実体」として登場したということを、承認しようというわけでは断じてない。生命倫理などで繰り返される「社会的合意」の「社会」なるものが、いかに捉えどころのないものであるかは、その「合意」の確認の困難さからも想像がつく。いや合意達成の要求そのものが、一致へとは到りがたい多様な意見・価値観の存在を示唆しているのであり、そんななかで合意が達成され機能するとしても、それは当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく、エ「合意した」という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない。そういう意味でいえば、「合意」とはまさに形成されたもの、作りものであり、それが「事実」と呼ばれるとしても、作る作用(ファケーレ)に支えられた事実(ファクト)でしかないのである。
5 環境問題の場合、倫理学説の構築の努力は、あるいは感情移入をもって、あるいは権利上の均等性の想定をもって、世代間の距離を乗り越えていこうとするわけだが、基盤となるはずの未来世代との「道徳的共同体」は、未だ存在せぬ者たちと関わるかぎり、どうあっても虚構的性格をもたざるをえまい。「将来世代の状況や価値観が私たちにとって原理的に予測できない」ということ、また「私たちが自分たちの利益を制限するのに対して、将来世代がなにも返さない」ということなどは、そうした虚構性が露呈した場所として、実際この試みを否定しようとする意志が入り込むスペースとなっており、その意志を退けるよすがとなるものもまた、結局「想像力」しかないようである。あるいは人間を「自然との共感と相互性」のなかにもち込もうとするかの努力も、まちがいなく一つの創作でしかなく、生態系にまで認められるとされる「価値」という、オ非人間中心主義であるはずのものからは、作りもの特有の人間臭さが漂ってくる。もとより個がそこへと溶解していく情報の網の目も、相互に依存し合い絶えず組み替えられ作られていく、非実体的なものにほかならない。そうだとすれば集団性のなかへ解体していったといっても、そこに個は、新たな別の大陸を見出したのではなく、せいぜいのところ波立つ大海に幻のように現われる浮き島に、ひとときの宿りをしているにすぎないのである。

 

(一)「『地球という同一の生命維持システム』を行為規範の基盤として考える」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(二)「欲望の多様化は、奇妙なことに画一化と矛盾せず進行している」(傍線部イ)とあるが、なぜそのようにいえるのか、説明せよ。

(三)「個そのものが集団のなかで作られていく作りものにすぎない」(傍線部ウ)とあるが、なぜそのようにいえるのか、説明せよ。

(四)「『合意した』という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(五)「非人間中心主義であるはずのものからは、作りもの特有の人間臭さが漂ってくる」(傍線部オ)とあるが、ここで筆者はどのようなことを言おうとしているのか、100字以上120字以内で説明せよ。

(六)省略

 

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 詩作しようとする者にとっても、ある詩を味読しようとする者にとっても、当の作品の背後には、それ以前の無数の作品が控えている。それだけでも、すでに痕跡の過剰を語ることができるだろう。しかし単に、過去の作品数の多さだけが問題なのではない。過去のひとつの作品についても、あるいはその部分についても、それらは別様でありえたかもしれないという可能性を、それらの残されたありのままをはみ出る過剰として、漂わせている。引用とは、この別様でありえたかもしれない可能性をも含めた痕跡の過剰を、自らのコンテクストに引き入れつつ、実際に別様に展開してみせる作業にほかならない。
2 ところで、詩人が過去の詩作品より引用を行なう場合はもとより、当の引用が、そもそも引用として認知されるのを読者に要請する場合にも、当然のことながら、現在から過去へというべクトルが存在する。またその一方で、過去のものから現在の作品へと引いてこられる以上は、過去から現在へのべクトルも存在するわけだ。引用という作業において、 双交通が語られうるゆえんである。しかしあくまで過去のものを引き入れるべき現在の言語表現が、それなりに独自のものでないならば、引用がよってくるはずのア痕跡過剰のうちへと引きずり去られてしまう危険が、絶えずつきまとうだろう。
3 だからこそ、まさしく引用の技法としての本歌取の立役者だった藤原定家は、本歌からの引用を五七五七七全五句中のニ句プラス数文字までとし、三句まで取ることをいましめたわけだ。また、本歌の属する時期を、ある程度(7、80年)以上昔のものである必要があるとしたのは、引用認定の基準を考慮したあかしとして、重要である。もっとも、前者にかかわる注意など、当の定家自身が、無視した作例を示してもいるのだが。
4 ともあれ、この国の近代以降の詩から、興味深い引用の見出せるものを挙げてみよう。ちなみに、 日本の詩人が、引用認定の基準をクリアしようとすれば、引用の対象は十分に古くて、読者に周知のものでなければならないのだから、いきおい、おおむね江戸期以前の短詩、すなわち俳句か短歌からということになってくる。たとえば、西脇順三郎の詩集のタイトル、「Ambarvalia」がウォルター・ペイターの小説『享楽主義者マリウス』から取られたもので、さらにもとをたどれば、ウェルギリウス『農耕詩』などに使われている、「収穫祭」を意味するラテン語だといっても、それを認知できるものはほとんどいないだろうし、その詩集中の詩篇「天気」にある「(覆された宝石)」という表現が、ジョン・キーツからの引用だということも、やはりほとんど気づかれぬままだろう。とはいえ、認知されない引用が、すべてだめだというつもりもない。しかし、 ここでは有名な俳句を引用したものを検討しよう。まず、草野心平の「古池や蛙とびこむ水の音」(『第百階級』所収)。


  音は消えてしまった
  音のあったその一点から
  寂莫の波紋が漲る


  うるし色の暗闇の夜を
  音のない夜を
  寂莫の波紋が宇宙大に拡がる
  芭蕉は芭蕉を見失った


  無限大虚(ニヒル)の中心の一点である

 

5 芭蕉の有名な句が、すでにタイトルに掲げられており、おまけに詩中で芭蕉と名指されてもいるのだから、この場合、引用認定については、これほどみごとにクリアしたものはないほどだ。したがって読者の視線は、過去へのべクトルをもたされる。しかし、「蛙とびこむ水の音」の「音のあったその一点」からの「波紋」を拡げていき、ついには宇宙大にまで拡げてしまう。芭蕉が芭蕉を見失うほどの拡がりだ。このように芭蕉を呑み込んでしまうほどの拡がりを措定してみせることで、詩人は、イ過去へのべクトルに拮抗しうるだけの今へのべクトルを、そこに重ねることができたといえる。 
6 最近の例からも、ひとつ挙げておこう。南川周三の「蕪村考」(『幻月記』所収)だ。


  幽明の境を
  ゆるいカープを描いて画ごころが通った
  あたりはいちめんひっそりと 音が絶えている
  音が絶えれば視覚しかない
  目の蕪村が
  目よりも深い闇の香を嗅いだ
  ものの怪のようにあるかなきかの白さは

  さらさらと竹をわたる京洛の夜の白さ
 

    花の香や嵯峨のともし火消ゆる時
 

  ぼつつりと
  灯るともしびも憂いのあかし
  それならばいっそ絢爛の情が
  さまよう画ごころのほとりにほしい
  初夏はそういう蕪村の天地

  軋み鳴る雲海が遠のいたら

  そこに楊貴妃の笑みがあった
 

    方百里雨雲よせぬ牡丹かな
 

  大ぶりの
  花の微笑みは暮れるのにふさわしい
  盃に受けたにごり酒は
  微笑む燭と照り映えて渋い渋いと﨟たけた想いは消えて
  蕪村はふっとうつつの世界に帰った―

 

    月天心貧しき町を通りけり
 

  天明の飢饉の町を
  蕪村がひとり

  通って行く
 

7 タイトルおよび文中に出る「蕪村」から、引用句が蕪村のものであることは容易に認定できる。 一読してわかるとおり、詩人は蕪村の生きた場所と時代に身を置いている。これはきわどい操作である。なぜなら、過去向きのべクトルにあまりにも引きずられてしまいかねないからだ。しかし、この詩に漂う一種の幻想的な雰囲気(『幻月記』という詩集名も、その雰囲気を間接的に補強する)が、この過去向きのべクトルを、作者の今でおおってしまう。おまけに、蕪村自身の過去志向は、萩原朔太郎の『郷愁の詩人与謝蕪村』以来、すでによく知られているところだ。引用という操作が伴わずにはいない過去向きベクトルに、蕪村と同時代に身を置こうとする過去向きべクトル、さらには蕪村自身の過去向きべクトルを、作者はあえてその詩の今において重奏させてみせたのだ。つまり、この詩では、過去向きべクトルを重ねてみせることで、かえってウ双交通を実現させてもいるのである。
8 しかも、蕪村と同時代に身を置くといっても、たとえば最初の引用句「花の香や嵯峨のともし火消ゆる時」は安永年間の作であり、最後の引用句「月天心貧しき町を通りけり」は明和年間の作であるという具合に、時期が前後しており、おまけに引用句の季節がみな違うなど、特定の時点が問題とされているわけではない。
9 終わり近くに出てくる「天明の飢饉」とは、天明2年から7年にかけての史実であるのはもちろんだが、蕪村の没年が天明3年であるのを顧慮すれば、この詩の最終節は意味深長だろう。蕪村がその死を通り抜けて、ひとり歩いていくかのような思いに、ふととらわれるからだ。エそのまま歩き続けて作者のところにまで来るかのように

 

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。 なお、本文には、 一部省略した箇所がある。

 

1 民俗宗教において、祟りの信仰は大きな比重を占めている。それは人びとが他人の、神の、動物の怨念を、妬みや恨みを恐れていることを意味している。さらにいえば、それは広い意味での「世間の目」「霊の目」に対する恐怖・配慮の象徴的表現ともいえるかもしれない。殺されたり、人生半ばでこの世を去った人びとに対して、格別の思いを抱いてきたのが日本人であった。人びとは殺した者の呪い・祟りを恐れた。この怨霊を封じ込めるために祀りもおこなった。しかし、それだけでなく、家族や親族、共同体のために犠牲になった者に対しても「負い目」「後ろめたさ」を感じ、その者の心境を思いやり、その霊を慰め、そのために祠を建て、神に祀り上げることさえした。「慰霊」という行為は、怨霊を鎮めるというだけでなく、もっと広い意味での鎮め、霊に対する生者の心の内部に発生する「後ろめたさ」「負い目」を浄化する行為であった。言いかえれば、ア生きている日本人は、生きているというだけで、霊に対して弱い立場に置かれていたのである。生きている人は「霊の目」を、「先祖の霊の目」「殺した者の霊の目」「堕ろした子供の霊の目」「身代わりになって死んだ者の霊の目」「怨霊の目」等々を、つねに無意識のうちに気にしているのである。その「霊の目」が、怒りに満ちたものではなく、あるいはこの世に未練を残し続けることなく、安らかなものになるように、と祀りをおこない、供養その他の「慰霊」行為をおこない続ける。それが「祝い祀り」の本質であった。
2 私の体験談を書いておこう。二五年ほど前からミクロネシア連邦チューク(旧トラック)州で人類学の調査を断続的におこなっている。ここは、第一次大戦後から第二次大戦終了まで国際連盟委託統治領「南洋群島」として日本が支配していたところである。チューク環礁の礁湖は大きな軍艦も停泊できたので、戦時中は、ニューギニア方面に進攻する日本の連合艦隊の重要な基地になっていた。しかし、反攻に転じた米軍の激しい空襲と艦砲射撃によって、チューク諸島にいた軍人、軍属、民間人、そして現地人の多くの命が失われたところでもある。このため、戦後50年以上経った今でも、空襲によって沈んだ軍艦や輸送船などに残っている遺骨を拾い集める厚生省の遺骨収集団や戦没者の霊を慰める各種の慰霊団が、このチューク諸島を訪問してくる。私もこれまで何度かそうした団体と出会った。またチューク在住の親しい日本人や現地人から、慰霊団がときどきやってきていたことを聞かされた。
3 イ慰霊団の現地での慰霊行動は、私には十分に理解できるものである。たとえば、慰霊碑の前に花輪が飾られ、同伴してきた僧が戦没者の霊を慰め鎮めるためのお経を読み、参列した人びとが線香をあげる。あるいは、船で海上に出て、花輪や写経を捧げる。しかしながら、次のような儀礼的光景は、それを目にしたアメリカ人や現地人には異様なもの、不思議なものを目撃してしまったという印象を与えるらしい。それは遺骨収集にまつわるものである。海底の沈船から引き上げられた遺骨を関係者が最敬礼で迎え、日章旗や海軍旗で覆って浜辺で荼毘に付し、お経を読んで供養し、翌日、その骨を拾い上げて骨壺に納める。その光景は、日本人の私には胸にジーンとくるものがある。そこに集められた遺骨は私とは縁もゆかりもない者であって、しかも、私の生まれる前に死んだ、身元さえはっきりしない人の骨にすぎない。にもかかわらず、このような場に偶然居合わせると、この遺骨になった人の非業の死を勝手に思い描き、思わず合掌してしまう。このような慰霊の仕方、遺骨の収集は、日本人ならば少しも奇妙な振る舞いではないのである。
4 ところが、こうした光景がアメリカ人や現地人には異様に映るらしいのだ。たまたまこれを目撃したあるアメリカ人医師は、海底に眠っていた日本兵たちが地上に突然現れたような気分になって背筋が寒くなったという。なるほど、艦船から拾い上げた骨の前で、船とともに沈んだ軍服姿の若者の写真を前に祈っている未亡人や生き残った戦友は、もうとっくに70代を過ぎた老人である。そんな彼らがよれよれになった海軍帽をかぶって、誰ともわからないような遺骨を焼いたりそれに対して合掌したりしているのだ。日本文化のコンテキストに位置づけて解釈できない異文化の人が、その姿を見て奇妙な感じを抱くのは当然のことであろう。そして、この光景に対する「私たち日本人」と「彼ら」との受け取り方の違いに、日本文化の特徴、とりわけ日本人の「霊」への信仰の特徴が示されていると思われる。
5 すなわち、この年老いた元日本海軍の兵士たちは、ここで戦死した戦友の霊を「慰めている」のである。海に沈んでいた戦友の霊が誰かに怨霊となって祟りをなしているわけではない。「英霊」として「靖国神社」に祀ってくれと夢や託宣で要求したわけでもない。そうではなく、物言わぬ「戦友の霊の目」を背に負って生きてきた戦友の「思い」が、死んだ者が可哀想だ、生き残って申し訳ないという「思い」が、慰霊行為を導き出しているのである。ある意味で、ウ戦争によってこの年老いた元日本海軍の兵士たちの人生の時間の、ある部分が止まってしまったのだろう。そして、 その後の人生はこの「霊の目」を安らかにすることを意識し続ける人生であったのだろう。私たちはここに脈々と流れる日本人の民俗的な信仰伝統を見いだす。
6 ところで、遺骨収集の様子を見たとき、異郷の地で命を落とした者の遺骨(=霊魂の依り代)を拾って故郷に帰すという習俗は、昔からの習俗であったかのような印象を与えるかもしれない。しかし、私たちは、近代以前に、異郷の地で戦死したり病死や事故死した人の遺骨を故郷に残された肉親が探し出し、拾い集めて、故郷に連れ戻してくる、といった習俗を民衆の間に見いだすことはできない。山折哲雄によれば、日本人は、古来、遺骨に対する関心は低く、遺骨を高野山に納めるといった習俗はあったが、そのような異郷の地で命を落とした者の遺骨を収集するという儀礼的行為が、広く民衆の間に定着したのは日中戦争開始以降のことであるという。当時の国家が、戦場の各地で散った戦死者たちの遺骨を戦地におもむいて集め、故郷に持ち帰ってその霊を慰め、「英霊」(=遺骨)として靖国神社やその下部組織である地方の忠魂社=護国神社で祀り上げることを始めたのである。これは民俗的信仰を変形させて作り出した、近代の軍国主義国家の創造物であった。

7 ところが、このような国家的行事を生み出し運営していた国家が敗戦によって倒れた。したがって、 それによって、エその国家がその国家のために命を捧げた兵士を祀るという疑似宗教的行事も廃止されるのが当然であった。とくに、兵士の遺骨を収集するなどという習俗は、昭和になるまで存在していなかったのだから、その事業主体を失って簡単に消滅しても不思議ではなかった。しかし、この遺骨収集の儀礼的行為は、わずか二十年足らずの間に日本人の心性の奥に入り込み、国家主義的儀礼の域を越えて国民的・民衆的な文化に変質しつつあったのである。いや、民衆の宗教心が戦前の国家が作り出した儀礼行為を自分たちの信仰に組み込んでしまったといった方がわかりやすいかもしれない。
8 戦後、独立を再び回復したとき、新生国家は遺骨の収集を開始する。これには、「靖国神社法案」に示されるように、それを政治的に利用しようという政治家や一部の戦没者遺族たちの思惑があったことは否定できない。しかし、オその骨を依り代にして帰国する霊を迎えたいという「思い」は、国家だけではなく、民衆のなかにもあったとみるべきであろう。その心性は、近代国家という枠組みの成立以前から存在していた、「霊の目」を意識した「後ろめたさ」に由来するものであったのだ。実際、戦没者の慰霊行為とほぼ同質の慰霊行為を、たとえば、私たちは日航ジャンボ機の墜落現場である御巣鷹山、あるいは阪神・淡路大地震の被災地にも見いだすことができるだろう。

 

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問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 第一人称の死は、決して体験されたことのない、未知の何ものかである。論理的に知りえないものである。知りえないものに対して恐怖はどういう形を取るのか。もちろん、死への恐怖と呼ばれるもののなかには、苦しみへの恐怖、痛みへの恐怖が含まれていることはたしかである。それは死への恐怖というよりは、死に臨んだある苦痛の状態としての生への恐怖である。

2 死に勝る苦しみ、という表現がある。では死は苦しみの極限としてあるのか。そうではあるまい。苦しむのは生である。苦しみは生きていることの一つの証である。生の状態である。死が生の終わりなら、死は苦しみの終わりでもある。しかし、繰り返すが、私という第一人称にとって、死は、完璧な未知である。本当に死は苦しみの終わりなのかどうか、それを言うことさえ不可能なものとして、死はある。 
3 したがって、いわゆる死への恐怖は、苦しむ生への恐怖を含んでいるにせよ、それだけではあるまい。

4 生への盲目的な執着が、ヒトが生物であることの明証であるとすれば、死への恐怖はヒトが人間であることの明証であると言えぬだろうか。

5 これを消極的な面から考えてみよう。第三人称の死は、私にとって、消滅であり、消失であった。したがって、それは、本当の意味での「死」ではない。自分の前に立ちはだかる未知の深淵としての死の何たるかを知ろうとする、空む虚なしい努力のための、何らの糧にもならない。自分の万年筆やハンカチや財布をいくら紛失したとしても、それで自分の死について何か感ずるところあったとは言えまい。

6 そして、ア第一人称の死、つねに未来形でしかありえないものが、現実化したとき、「私」は、誰からも手助けを受けることなく、完全な孤絶のなかで、それを体験することになる。第三人称の死が、「私」にとって消滅であるならば、第三者にとって「私」の死は同じように単なる消滅以外のものではありえないだろう。「私」にとって一度も体験したことのない「私の死」を、私は、自分以外の一切の他に対して架すべき何らの橋堡もないままに、絶対の孤のうちに、引き受けなければならない。

7 このとき、それまでイ陳腐だった第三人称の死の一つずつが、もしかして自分がこれから引き受けようとしている死の先達として、意味をもってくるように思われるかもしれないにせよ、もとよりそれは、空疎な期待に過ぎない。

8 この「私」の死のもつ徹底的孤絶さのゆえに、人は、迎えるべき死への恐怖を増幅された形で感ずる。日常的世界のなかでは、つねに人間として、人どうしの間の関係性のなかで生きてきたわれわれは、たとえ絶海の孤島に独りあってさえ自然のなかに友をつくり人間的生活の回復への微かな期待を決して捨てることのないわれわれは、死において、かかる一切の人間としての関係性を喪って、ただ一人で、死を引き受けなければならない。このことへの恐怖こそ、逆説的に、人が人間として生きてきたことへの明証となるだろう。あえて、「消極的」と呼んだのは、ウこの逆説性のゆえである。

9 他方、このような死への恐怖は、積極的な意味でも、人の人間たることの明証の一つたりうると言えよう。それには、第二人称が介在することになる。 
10 一般に、人が自らの究極的孤絶性を肌膚に烙印のごとく自覚するのは、死を迎えることにおいて最も著しいが、しかしその孤絶性を知性によって理解することは、むしろたやすい。とりわけデカルト以来の西欧近代思想の洗礼を受けたものにとってはそうである。そして現実の世界における「人間」性、つまり人が人と人との間の関係性のなかで生きていることと、表層的に理解された人の孤絶性との矛盾を乗り越えるために、われわれはさまざまな方法を案出して、孤絶した人と人との間に、何らかの架橋を施さんとするのである。

11 しかし、知性において理解された表層的な人間の孤絶性は、むしろある立場からすれば誤っていると言えるのかもしれない。

12 例えば、私は「私」として、外界から隔絶されているかのように思われるが、私の身体さえ、楽器や楽弓のように、あたかも拡大されたかのように感じられることさえある。車を運転する熟達したドライヴァは、車の外壁をあたかも自らの身体と同じように感じる。他方、人間は自己によって自らの身体を支配・制御しているかのように錯覚しているが、実は、自らの身体的支配はつねに他者の模倣によって獲得される、という事実を忘れることはできない。高校生のとき私は鉄棒の蹴上りがどうしてもできなかった。ところがあるとき私の前に何人かの人びとが、次々に蹴上りを演じてみせた。何の気なく次に鉄棒に下った私は、それまでに演じた人びとと全く同じことをして、何ということもなく、何らの自覚もなしで、鉄棒の上に上ってしまった。このとき、エ「われわれ」が「私」を造りあげていた、という言い方が許されるだろう。

13 このような状況は、幼児においてもっとはっきりしている。幼児にとって、母親と自分との区別ははっきりしていない。ある程度の年齢に達すると母親は子供に自分を「僕」と呼ばせるようになる。年齢が早過ぎると「僕」という呼称は「僕」を指さないで終わってしまう。母親がそう呼ぶから僕は「僕」であるに過ぎない。母親さえ、ときに「僕、そんなことしちゃだめじゃない」などと言う。このとき母親と「僕」とは、まだ分離しない「われわれ」意識で連なっている。幼児は、次第にそうした言わば前個我的な状況から、母親からの反射の光によって、「僕」を僕として捉えるようになり、それと反射的に母親を第二人称的他者として捉えるようになる。前個我的「われわれ」状況は、第一人称と第二人称の他者どうしに分極化すると言ってよかろう。つまり、主体の集合体としての「われわれ」は、前個我的「われわれ」状況のある変型(ヴァージョン)として考えるべきではないか。
14 愛し合う二人の没我的抱擁は、かっての自らを育てた前個我的「われわれ」状況のある形での回復を指向する、一瞬の回復ではないか。

15 この観点から見るとき、個我の孤絶性は、少なくとも生にある限り、むしろ、抽象的構成に近いものと言うべきである。オそれゆえにこそ、第一人称が迎えんとする死こそ、人間にとって極限の孤絶性、仮借なき絶望の孤在を照射する唯一つのものなのかもしれない

設問

(一)「第一人称の死、つねに未来形でしかありえないもの」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(二)「陳腐だった第三人称の死」(傍線部イ)とあるが、なぜ「陳腐」なのか、理由を説明せよ。

(三)「この逆説性」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(四)「『われわれ』が『私』を造りあげていた」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(五)「それゆえにこそ、第一人称が迎えんとする死こそ、人間にとって極限の孤絶性、仮借なき絶望の孤在を照射する唯一のものなのかもしれない」(傍線部オ)とあるが、なぜそう言えるのか。100字以上120字以内で説明せよ。

(六)省略

問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 五年ほど前の夏のことだ。カイロの考古学博物館で私はある小さな経験をした。一人で見学をしていたとき、ふと見ると日本のツアー団体客がガイドの説明に耳を傾けていた。私は足を止め、団体の後ろで何とはなしにその解説を聞いていた。その前にすでに、仕事柄多少は理解できる他の言葉、英語やフランス語で他の国々の団体客向けになされていた解説もそれとなく耳に入っていたから、私にはそれは、ごく自然な行為ともいえないような行為だった。ところが、日本人のガイドはぴたりと説明を止め、私を指差してこう言ったのだ。「あなたこのグループの人じゃないでしょ。説明を聞く資格はありません!」

2 要するに、あっちに行けということである。エジプトの博物館で、日本人が日本人に、お前はそこにいる権利はないと言われたのである。そのとき自分がどんな表情をしていたか、われながら見てみたいものだと思う。むっとしていたか、それともきまり悪そうに小さな笑みを浮かべていたか。少なくとも、とっさに日本人でないふりをすることはできなかった。

3 この状況は、ちょっと考えてみるとなかなか奇妙なものだ。というのも、私がこんな目に遭う危険は、日本以外の国のツアー客に「パラサイト」しているときにはまずありえないからだ。英語やフランス語のガイドたちは自分のグループのそばに「アジア人」が一人たたずんでいても気にも止めないだろう。それに、顧客以外の誰かが自分の説明に耳を傾けていたとして、それがガイドにどんな不都合になるというのか。博物館内の、障壁のない、公的な空間で、自分の言葉を対価を払った人々の耳だけに独占的に届けよう、どんなにおとなしくしていても「たかり」は「たかり」、「盗み聞き」は断固許すまじという使命感。それは空しい使命感にちがいない。日本語の分かる非日本人はいまではどこにでもいるし、私のような顔をしていないかもしれないし、まして私のような反応は、おそらく誰もしないだろうから。
4 しかし、その日ガイドの「排外神経」の正確な標的になったのは私だった。彼女は私が日本人であることを見切り、見とがめられたのちの私の反応も読んでいた。私は自分の油断を反省した。日本人がこのような状況でこのように振る舞いうることをうっかり忘れていたのである。日本にいるときはこちらもそれなりに張りつめている神経が、外国だからこそ緩んでいたらしい。日本のなかでは日本人同士種々の集団に分かれてたがいに壁を築く。しかし、ひとたび国外に出れば・・・・・・。だがそれは、菊の紋章付きの旅券を持つ者の、無意識の、甘い想定だったようだ。アその「甘さ」において私はまぎれもなく「日本人」だった。「日本人」だったからこそ日本人にパラサイトの現場を押さえられ、追い払われ、そして、逆説的にも、その排除を通じてある種の帰属を確認することを余儀なくされたのである。

5 この些細で滑稽な場面が、このところ、「ナショナルな空間」というものの縮図のように思えることがある。ときどき考えるのだが、このときの私とガイドを較べた場合、どちらがより「ナショナリスト」と言えるだろう。「同じ日本人なんだからちょっと説明を聞くくらい・・・・・・」と、「甘えの構造」の「日本人」よろしくどうやら思っていたらしい私の方だろうか。それとも、たとえ日本人でも「よそ者」は目ざとく見つけ容赦なく切り捨てるガイドの方だろうか。確かだと思えるのは、私のような「日本人」ばかりではナショナリズムを「立ち上げる」のは容易ではないだろうということ、日本のナショナリズムは、かつても現在も、このガイドのようにきちんと振る舞える人々を欠かせない人材として要請し、養成してきたに違いないということである。少なくとも可能的に、「国民」の一部を「非国民」として、「獅子身中の虫」として、摘発し、切断し、除去する能力、それなくしてナショナリズムは「外国人」を排除する「力」をわがものにできない。それはどんなナショナリズムにも共通する一般的な構造だが、日本のナショナリズムはこの点で特異な道を歩んでもきた。この数十年のあいだ中流幻想に浸っていた日本人の社会は、いまふたたび、急速に階級に分断されつつある。それにつれてナショナリズムも、ふたたび、イその残忍な顔を、〈外〉と〈内〉とに同時に見せ始めている

6 もちろん私は、この出来事の後、外国で日本人の団体ツアーにはけっして近づかないようにしている。「折り目正しい」日本人でないことが、いつ、なぜ、どうして「ばれる」か知れたものではないからだ。しかし、外国では贅沢にも、私は日本人の団体に近づかない「自由」がある。でも、日本ではどうだろう。日本人の団体の近くにいない「自由」があるだろうか。この「自由」がないかきわめて乏しいことこそは、近代的な意味で「ナショナルな空間」と呼ばれるものの本質ではないだろうか。

7 子供も、大人も、日本にいる人はみな、たとえ日本で生まれても、日本人の親から生まれても、ただひとり日本人に取り囲まれている。生まれてから死ぬまで。そして、おそらく、死んだあとも。「ただひとり」なのは、生地も血統も、その人の「生まれ」にまつわるどんな「自然」も、自然にその人を日本人にはしてくれないからだ。

8 ナショナリズム nationalism というヨーロッパ起源の現象を理解しようとするなら、 nation という言葉の語源だけは知っておきたい。それはラテン語で「生まれる」という意味の nasci という動詞である。この動詞から派生した名詞 natio はまず「出生」「誕生」を意味するが、ラテン語のなかですでに「人種」「種族」「国民」へと意味の移動が生じていた。一方、「自然」を意味するラテン語、英語やフランス語の nature のもととなった natura も、実は同じ動詞から派生したもう一つの名詞なのだ。この言葉もやはりまず「出生」を意味する。そして英語で naturally と言えば、「自然に」から転じて「当然に」「自明に」「無論」という意味になる。

9 「生まれ」が「同じ」者の間で、「自然」だからこそ「当然」として主張される平等性。そして、それと表裏一体の、「生まれ」が「違う」者に対する排他性。歴史的状況や文化的文脈によってナショナリズムにもさまざまな異型があるが、この性格はこの政治現象の不変の核と言っていいだろう。だからいまも、世界のほとんどの国で、国籍は生地か血統にもとづいて付与されている。

10 しかし、生地にしても血統にしても、「生まれ」が「同じ」とはどういう意味だろう。ある土地の広がりが「フランス」とか「日本」という名で呼ばれるかどうかは少しも「自然」ではない。ウ文字通りの「自然」のなかには、もともとどんな名も存在しないからだ。また両親が「同じ」でも、たとえ一卵性双生児でも、人は「ただひとり」生まれることにかわりはない。私たちは知らないうちに名を与えられ、ある家族の一員にされる。それがどのようになされたかは、言葉を身につけたのち、人づてに聞くことができるだけだ。親が本当に「生みの親」かどうか、自然に、感覚的確信に即して知っている人は誰もいない。苗字が同じであることも、母の言葉が母語になったことも、顔が似ていることも、何も私の血統を自然にはしない。

11 一言で言えば、あらゆるナショナリズムが主張する「生まれ」の「同一性」の自然的性格は仮構されたものなのだ。それは自然ではひとつの制度である。ただし、他のどんな制度よりも強力に自然化された制度である。日本語で「帰化」(もともとは天皇の権威に帰順するという意味)と呼ばれる外国人による国籍の取得は、フランス語や英語では naturalis(z)ation 、「自然化」と呼ばれる。この言葉は意味深長だ。なぜなら、外国人ばかりでなく、たとえば血統主義の国籍法を採用する日本で日本人の親から生まれた人でも、その人に国籍が付与されるとき、あるいはその人がなにがしかの国民的同一性を身につけるとき、それはいつでも、自然でないものを自然なものとする操作、つまり「自然化」によってなされるしかないからだ。

12 「自然化」とは、繰り返すが、自然でないものを自然なものとする操作のことである。言い換えれば、この操作はけっして完了することがない。そして、いつ逆流するか分からない。「非自然化」はいつでも起こりうる。昨日まで自然だったこと、自然だと信じていたことが、突然自然でなくなることがある。だから、エ日本人であることに、誰も安心はできない

設問

(一)「その『甘さ』において私はまぎれもなく『日本人』だった」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。

(二)「その残忍な顔を、〈外〉と〈内〉とに同時に見せ始めている」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

(三)「文字通りの『自然』のなかには、もともとどんな名も存在しない」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(四)「日本人であることに、誰も安心はできない」(傍線部エ)とはどういうことか、本文全体の趣旨を踏まえて100字以上120字以内で説明せよ(句読点も一字と数える)。

(六)省略

問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

次の文章を読んで、後の設問に答えよ。なお、本文には、 一部省略した箇所がある。

1 最近、携帯電話を使った男女交際が流行っているらしい。雑誌に自分の携帯の電話番号を載せて「交際希望」と書いておくと、誰かから電話がかかってくる。先日テレビで、雑誌に自分の電話番号を載せた男の子に女の子から電話がかかってくる場面を映していた。まず男の子は、相手の年齢を聞き、今何をやっているかを聞く。この場合の何をやっているかは、抽象的なことではなく、今現在どんなことをしているのかということだ。
2 相手の女の子は、とぎれることなくしゃべりだした。さっきどういうものを食べたとか、最近気に入っている食べ物とか、嫌いなものとか、超むかつくこととか、気持ちよく感じることとか、とにかくとめどなくしゃべっている。男の子は、「へぇー」「ふうん」と相づちをうってただ聞くだけである。そういった他愛ないおしゃべりが1時間ほど続いたとテレビのナレーションは語っていた。
3 結局、アこの携帯を通した会話というものは独り言の掛け合いなのではないか。女の子はとにかく、自分の現在をただ叙述するのだが、その語り口のニュアンスがどうも変なのだ。変だというのは、会話の中に特に伝えたいことを強調するポイントがない。ただ自分のことをとりとめなくしゃべっているだけという印象なのである。初対面の相手に対するしゃべり方ではない、と普通なら考えるのだが、これが電話による会話というものの特徴なのかもしれない。 
4 ここでの関係は、とにかくはかない。危険もない。相手もよくわからない。しかし、自分の繰り言をきちんと聞いてくれる互いの関係ではある。電話による若者のコミュニケーション文化は、そういう共時的了解の関係をすでに作りあげているらしい。
5 パソコン通信やインターネットを時々のぞくことがある。そこでは文字という形でさまざまな声が飛び交う。みんな饒舌になったものだと読みながら感心する。私は文を書くことを教えたり実際に書くことを職業とするものだが、どうしてもこういうところに私的な文章を載せる気になれない。それは私がどこかで、文を、自分に向かって書くものと、他者への直接的な伝達という二つの種類に分類しているからで、インターネットのようなところへ載せる文章は、そのどこにも適合しないように感じるからだ。結局、ここに載せられている文はほとんど独り言に近いと私は感じるのだ。
6 独り言には、何かを伝えようというメッセージ性はない。かといって友人との楽しいおしゃべりといった相手の反応を確かめながらの言葉でもない。とにかく感じたことを文字にすればいいのであって、誰かか読んでくれればいいし、読んでくれなくてもそれはそれでかまわない、といった態度の文なのである。言い換えれば、文体というものがないのだ。文体とは、相手にこちらの伝え難い何かを伝える工夫である。その工夫は最初からない。とにかくしゃべってしまうこと、そういう感覚の文章なのだ。こういう文体のない文章は私には苦手なのだ。
7 こういう文章は、携帯電話で自分のことをとりとめなくしゃべるその言葉と基本的に同じだと思われる。独り言のやりとりといっていい。
8 独り言的な言葉や文の氾濫を目の当たりにして、私は正直とまどっている。というのは、まず、こういう独り言のやりとりに参加できないことに、何か不自由である自分を感じ取るからだ。私の文には文体がある。この文体は都合よくいえば私が他者にかかわる態度であり、私自身の伝わりにくい世界を他者に伝える方法である。私の思想とでもいってもいい。だが、それは私が私の固定した私の世界を他者に無理強いするものであり、多義的で流動的なこの現在の世界から私を閉じてしまっているものでもある。言い換えれば、イ私を不自由なものへと縛り付ているのも私の文体なのだ。時々、こういうふうにとめどなく自分のことを相手に独り言のようにおしゃべりできたらどんなにいいだろうかと思う。

9 電話がこんなにもコミュニケーションの文化ではなかったころ、文体を作らずに、自分のことをすべて聞いてくれるような関係を作ることは大変なことだった。他人と他人とが突然、相手の独り言を聞いてくれるような関係を作ることはあり得ないことだった。だからこそ、誰もが文体を作ろうとした。小説も詩もそのような文体の一つなのだ。それらは独り言的なニュアンスを抱え込みながら他者へかかわる一つの方法だった。だが、そんな文体なしに、自分というものの存在を丸ごと聞いてくれる関係が可能なら、文体など必要はないといわれれば、確かに必要でないと答えてしまいそうになる。これは困った。ウ文体などいらないといってしまうことは、私が私をいらないといっているようなものだからだ。

10 文体がもっている伝えがたいものとは何だろう。「孤独」といういい方をすればかなり当たったいい方になるだろう。われわれの文学的な言葉が抱え込む共通の価値を一言でいえというなら、それは「孤独」である。小説や詩を評価するのに、例えば「ここには孤独が感じられる」といえば誉めたことになる。それが何よりの証拠だ。この「孤独」をどう描くかというところに、われわれの文体の一つの目的がある。他愛ない独り言の群れにこの「孤独」が伝わるのか。携帯電話のやりとりや、インターネット上の膨大なあのおしゃべり群は実に「孤独」である。一方的な女の子のおしゃべりをただうなずいて聞いていた男の子は、女の子の独り言の「孤独」を聞いていたと私は感じた。エ文体という抽象力をもたないが故にその「孤独」は、より生々しく現実的である。しかも社会的である。

設問

(一)「この携帯を通した会話というものは独り言の掛け合いなのではないか」(傍線部ア)とあるが、筆者はどうしてそのように判断したのか、説明せよ。

(二)「私を不自由なものへと縛り付けているのも私の文体なのだ」(傍線部イ)とあるが、なぜそう言えるのか、説明せよ。

(三)「文体などいらないといってしまうことは、私が私をいらないといっているようなものだ」(傍線部ウ)とあるが、なぜそう言えるのか、説明せよ。

(四)「文体という抽象力をもたないが故にその「孤独」は、より生々しく現実的である」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。