問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

次の文章を読んで、後の設問に答えよ。なお、本文には、 一部省略した箇所がある。

1 最近、携帯電話を使った男女交際が流行っているらしい。雑誌に自分の携帯の電話番号を載せて「交際希望」と書いておくと、誰かから電話がかかってくる。先日テレビで、雑誌に自分の電話番号を載せた男の子に女の子から電話がかかってくる場面を映していた。まず男の子は、相手の年齢を聞き、今何をやっているかを聞く。この場合の何をやっているかは、抽象的なことではなく、今現在どんなことをしているのかということだ。
2 相手の女の子は、とぎれることなくしゃべりだした。さっきどういうものを食べたとか、最近気に入っている食べ物とか、嫌いなものとか、超むかつくこととか、気持ちよく感じることとか、とにかくとめどなくしゃべっている。男の子は、「へぇー」「ふうん」と相づちをうってただ聞くだけである。そういった他愛ないおしゃべりが1時間ほど続いたとテレビのナレーションは語っていた。
3 結局、アこの携帯を通した会話というものは独り言の掛け合いなのではないか。女の子はとにかく、自分の現在をただ叙述するのだが、その語り口のニュアンスがどうも変なのだ。変だというのは、会話の中に特に伝えたいことを強調するポイントがない。ただ自分のことをとりとめなくしゃべっているだけという印象なのである。初対面の相手に対するしゃべり方ではない、と普通なら考えるのだが、これが電話による会話というものの特徴なのかもしれない。 
4 ここでの関係は、とにかくはかない。危険もない。相手もよくわからない。しかし、自分の繰り言をきちんと聞いてくれる互いの関係ではある。電話による若者のコミュニケーション文化は、そういう共時的了解の関係をすでに作りあげているらしい。
5 パソコン通信やインターネットを時々のぞくことがある。そこでは文字という形でさまざまな声が飛び交う。みんな饒舌になったものだと読みながら感心する。私は文を書くことを教えたり実際に書くことを職業とするものだが、どうしてもこういうところに私的な文章を載せる気になれない。それは私がどこかで、文を、自分に向かって書くものと、他者への直接的な伝達という二つの種類に分類しているからで、インターネットのようなところへ載せる文章は、そのどこにも適合しないように感じるからだ。結局、ここに載せられている文はほとんど独り言に近いと私は感じるのだ。
6 独り言には、何かを伝えようというメッセージ性はない。かといって友人との楽しいおしゃべりといった相手の反応を確かめながらの言葉でもない。とにかく感じたことを文字にすればいいのであって、誰かか読んでくれればいいし、読んでくれなくてもそれはそれでかまわない、といった態度の文なのである。言い換えれば、文体というものがないのだ。文体とは、相手にこちらの伝え難い何かを伝える工夫である。その工夫は最初からない。とにかくしゃべってしまうこと、そういう感覚の文章なのだ。こういう文体のない文章は私には苦手なのだ。
7 こういう文章は、携帯電話で自分のことをとりとめなくしゃべるその言葉と基本的に同じだと思われる。独り言のやりとりといっていい。
8 独り言的な言葉や文の氾濫を目の当たりにして、私は正直とまどっている。というのは、まず、こういう独り言のやりとりに参加できないことに、何か不自由である自分を感じ取るからだ。私の文には文体がある。この文体は都合よくいえば私が他者にかかわる態度であり、私自身の伝わりにくい世界を他者に伝える方法である。私の思想とでもいってもいい。だが、それは私が私の固定した私の世界を他者に無理強いするものであり、多義的で流動的なこの現在の世界から私を閉じてしまっているものでもある。言い換えれば、イ私を不自由なものへと縛り付ているのも私の文体なのだ。時々、こういうふうにとめどなく自分のことを相手に独り言のようにおしゃべりできたらどんなにいいだろうかと思う。

9 電話がこんなにもコミュニケーションの文化ではなかったころ、文体を作らずに、自分のことをすべて聞いてくれるような関係を作ることは大変なことだった。他人と他人とが突然、相手の独り言を聞いてくれるような関係を作ることはあり得ないことだった。だからこそ、誰もが文体を作ろうとした。小説も詩もそのような文体の一つなのだ。それらは独り言的なニュアンスを抱え込みながら他者へかかわる一つの方法だった。だが、そんな文体なしに、自分というものの存在を丸ごと聞いてくれる関係が可能なら、文体など必要はないといわれれば、確かに必要でないと答えてしまいそうになる。これは困った。ウ文体などいらないといってしまうことは、私が私をいらないといっているようなものだからだ。

10 文体がもっている伝えがたいものとは何だろう。「孤独」といういい方をすればかなり当たったいい方になるだろう。われわれの文学的な言葉が抱え込む共通の価値を一言でいえというなら、それは「孤独」である。小説や詩を評価するのに、例えば「ここには孤独が感じられる」といえば誉めたことになる。それが何よりの証拠だ。この「孤独」をどう描くかというところに、われわれの文体の一つの目的がある。他愛ない独り言の群れにこの「孤独」が伝わるのか。携帯電話のやりとりや、インターネット上の膨大なあのおしゃべり群は実に「孤独」である。一方的な女の子のおしゃべりをただうなずいて聞いていた男の子は、女の子の独り言の「孤独」を聞いていたと私は感じた。エ文体という抽象力をもたないが故にその「孤独」は、より生々しく現実的である。しかも社会的である。

設問

(一)「この携帯を通した会話というものは独り言の掛け合いなのではないか」(傍線部ア)とあるが、筆者はどうしてそのように判断したのか、説明せよ。

(二)「私を不自由なものへと縛り付けているのも私の文体なのだ」(傍線部イ)とあるが、なぜそう言えるのか、説明せよ。

(三)「文体などいらないといってしまうことは、私が私をいらないといっているようなものだ」(傍線部ウ)とあるが、なぜそう言えるのか、説明せよ。

(四)「文体という抽象力をもたないが故にその「孤独」は、より生々しく現実的である」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。