問題文(段落番号は便宜上付けたもの)
次の文章を読んで、後の設問に答えよ。
1 かりに「写真になにが可能か」という問いを自らに発した時、私にはそれに対する答えというより、ほとんど肉体的な反応といったようなものが二通り生れてくる。
2 一つは、いま自分が生きつつあり、さまざまなかたちで敵対する世界に対して「写真には何もできない」という一種の無力感である。しかしその無力感の下からたちまち意識に上ってくるのは、私が写真によって捕捉しえた世界のさまざまな意味であり、それを考えたときに生じてくる「写真に可能ななにものかがある」という認識である。実は、われわれの日々は、こうした問いと二様の答えのくり返しであり、どちらか一方だけではありえないのだ。アこのような事情はなにも写真に限ったことではない。表現芸術のすべてについていいうることなのである。
3 たとえば、今日、われわれの生きている世界の激しい動きと、その中から生れてきた鮮烈な変革の思想と、その挫折という起伏を前にして写真になにが可能かと考えた時には、われわれは無力感に陥らざるを得ない。政治と芸術を一元化しているわけではなく、われわれが生きていることのなかに両方ともかかわってくるから、このような無力感も当然なのである。しかし、この無力感の中で「写真にはなにもできない」といい切ったところでどうなるものか。しかしその無力感も、少なくとも写真にまつわるさまざまな既成の価値を破砕し、未知の世界の中に自分を位置づける上では有効である。いわばイ写真にかぶせられた擬制―リアリズムもこのうちに入る―虚構をひとつひとつはがしておのれの意識と肉体が露出するところまで下降する根源的な思考が欠落したところに、どのような透徹した精神のリアリズムもありえない。
4 だが写真がわれわれに衝撃を与える機会は、いまでも明らかに存在する。多くの人が記憶しているだろう一つの例をあげてみよう。われわれはベトナム戦争について多くのことを知識として知っている。しかし のある報道写真家がとった「路上の処刑」という写真ほど、ベトナムの意味を理解させるものはない。それは南ベトナムの国警長官をしていたロアンという男が、捕えた解放軍の兵士を路上で射殺する場面をとった二枚の写真である。一人の男がもう一人の男にピストルを向け、次の瞬間にはイモ虫のように兵士がころがっている。この男の死は、二つのショットの不連続のあいだに消失してしまい、この死の消失には胸の悪くなるようなものがある。ウ美しさも悲しみもないゼロの世界がそこに現われている。この世界の現前は多くの示唆を含んでいる。
5 この醜悪さが、もはや言葉でも意識でも捉えられないわれわれの存在の深いところに衝撃を与えるのである。しかもこの写真家は戦争を告発する意図によって撮っていたのではない。その写真、あるいは瞬間の写真が継起するあいだに消失した世界は、もはや彼の思想とか意識とかいわゆる主体を越えてしまって、何ものかになってしまっているのである。この写真はなにを記録したのであろうか。われわれは死に立ち会ったというより、死のゼロ化に立ち会ったのである。この痛みはなかなか消えない。
6 この問題をもう少し広げてみると、写真には、こうした世界の不気味さをとりだす能力がある、ということになる。たまたまそこに居あわせたからということもあろうし、また別の目的でとった写真の場合も少なくない。写真が生れてから百数十年にわたってとられ、残されてきた写真の群れをふりかえってみると、このような無数の人々の無数の偶然によって、全体としてたしかなものも、不気味なものも含めて人間の歴史の膨大な地質を構成しているようにみえる。
7 そう考えれば、改めて写真と、写真家の意味を問い直すことにつながってくる。写真家は不要なのか。それとも写真家はジャーナリズムの写真ページを構成するプロフェッショナルなのか。
8 主体の意識を考えた時、写真は不便なものである。エ自分の内部に思想があってそれを写真に表現するという俗流の考え方は、いつも写真によって裏切られるだろう。だが一方言葉で、たとえばアラン・ロブ=グリエやミシェル・ビュトールらがいかに外的な世界を描写しようと、それは時間の中を動いている意識にすぎないのに比して、写真は無媒介に世界を目の前に現わすわけである。写真と言葉とは異質の系に属しているし、世界をつかむ方法が違っている。今日の文明の変質をとらえて、それは活字文化から映像文化への移行だといわれてきたことにもいくらかの真実が含まれているわけである。読むよりも見る方が「わかりやすい」とか説得的だとかいわれることは、その現前性、直接の機能の一面をすくいとっているだけである。
9 おそらく写真家は、あらゆる表現者のうちでもっとも不自由な人間かもしれない。心のうちなる世界をあらわそうとしても、うつるのは外にある対象である。だが、そのような世界とのずれた関係が、実は、私をひきつけるのだ。写真家は、世界が自己をこえていること、そこには不気味なものもあることをもっとも明確に見出した最初の人間であるかもしれない。世界とは、人間そのものではなく、人間の意識によって構成されるものでもない。世界は存在し、かつ人間も存在している。世界とは反人間的な、あるいは超人間な構造と人間という生まの具体性とが織りあげる全体化のなかにある。