「なぜ勉強しなくてはならいないの?」という問いに上手く答えられる大人は少ないだろう。
高次方程式を学んだところで会社では四則演算ができれば十分だし、古文が読めたところで会議の資料に「をかし」なんて言葉は出てこない。
僕も中学・高校の頃は、答えが見つけられないまま、流れに任せて、日々押し寄せる膨大な知識の塊を受け止め続けていた。
とはいえ、自分の性格なのか、やはり目的がわからないことを盲目的に続けていくのは性に合わない。
高校までの僕は学ぶことに熱心ではなかった。
考え方が変わったのは、僕が大学院に進学してから。
大学という場所は不思議なところで、教育機関でもありながら、研究機関でもある。
大学の四年間で、僕はその仕組みをいまいち理解することができなかったのだけど、大学院に進学して、ようやくその意義がわかってきた。
大学院で僕は初めて教授と呼ばれる人たちとまともに話した。
彼らは、自分に興味のある分野に関して、いつも没頭している。
中には、自分の研究対象以外のものには全く興味を示さないような浮世離れした変人も存在する。
彼らは、議論を深めることそのものに意義を感じている節があり、僕はそんな人たちと会話を交わすうちに、ある思いを抱くようになった。
「彼らは真理を追い求めているのではないか」
大学で研究している人たちは、議論を深めて深めて、その奥底にある「誰も否定することのできない確かなもの」を探ろうとしているように見えた。
言い換えればそれは真理を追及する行為と等しい。
古代ギリシャ、プラトンはアカデメイアを設立して、哲学を理解するための基礎的な知識として幾何学や天文学を教えた。
アカデメイアがアカデミーの語源であることからもわかる通り、高度教育の始まりと言っても良いと思う。
学問の分野はその後、驚異的な広がりを見せ、今では「○○学」と名の付く学問は数多く存在するけど、それらは全て「哲学」に繋がっているのではないかと思う。
哲学の目的は真理を追い求めることであり、究極的には、それが学問の目的だと思うわけである。
日本は法治国家であり、日本国憲法には「教育を受けさせる義務」「教育を受ける権利」が明記されている。
これは素晴らしいことだと思う。
憲法により、日本国民の全てに、真理を追究できる基礎知識が約束されている。
勉強は「この世で生きていくため」に使うのではない。
「この世を理解するため」に使うのだ。
そう考えると、勉強することはものすごく楽しい。
それが今時点での僕の結論。