記念日 | カチカチ石器作り

カチカチ石器作り

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1975年6月30日のこと、フィリピンのレイテ島のタクロバン市を訪ねた。

 

千葉県市原市の大手石油化学会社の寮の管理人さんが、敗戦が濃厚になった頃に志願兵として出兵した先がレイテ島だった。

 

激戦地での厳しい戦いを強いられ、相当苦労したようである。

 

本人は語ることはなかったが、大岡正平のレイテ戦記などで実情を把握していたので、一度訪ねてみたいと思っていた。

 

秋田にUターンしてから2年間ほど英会話を勉強し、選んだ先がフィリピンと香港。

 

一人旅ができるかどうか確かめたいという武者修行的な意味合いもあった。

 

当時は給料が安く、アメリカやヨーロッパなどは高根の花。

 

ペンパルから6月30日に行われるフィエスタに招待されたこともあって決めたのだ。

 

私28歳、ペンパルは21歳の華僑の娘。

 

6月24日に夜行で東京に向かい、25日にはマニラに到着。

 

マニラで二日間、車をチャーターして観光。

 

その後セブに渡り、回転レストランの歌手と親しくなってセブ島のガイドをしてもらい、タクロバンには二日遅れてしまった。

 

当時は電話事情が悪く、相手に遅れるとの連絡もできなかった。

 

タクロバンに到着し、その夜は彼女の親戚が何十人も集まり、歓迎会を開いてくれた。

 

彼女の父親から一人で出歩くことは絶対ダメだと言われた。

 

 

今でも、日本人に対する憎悪を持っている人は山ほどいるという。

 

喧嘩は強いから大丈夫ですと言うと、ピストルにはかなわないだろうと言われた。

 

娘の客人として迎えたからには、危険な目に遭わせたくないと言う心情だったようだ。

 

戦時中、彼も日本兵から殺されるめにあい、舌を切られたり、睾丸をつぶされた人もいると言う。

 

日本は負け戦で、日本兵の悲惨な状況を小説などで読むことができるが、フィリピン文学書を読んだり、現地の人の話を聞くと日本兵の悪行ぶりには驚く。

 

戦争だからだ。

 

タクロバンには二日しかいなかったが、出かけるときは運転手、ペンパル、兄、姉などがいつも付き添ってくれた。

 

文通を通じて英語を教えてくれた彼女や世界中に10人ほどいたペンパルには感謝しかない。

 

会えたのは彼女一人である。

 

あれから49年、時のたつのは早いものである。