前回は1950年代に、原子力技術に関して考えていた稀有な3人の哲学者のうち、アンダースとハンナアーレントの紹介でした。今回は、3人目のハイデッガーです。本書では、ハイデッガーが、原子力技術を徹底的に考えていた人物として、本の78Pから~286Pの最後まで、本のほとんどをさいて論じられております。
限られておりますが、印象に残った部分を抜粋します。
ハイデッカーは、原子力が管理し続けなければならないこと、管理が不可欠であることは、管理ができないことだと喝破します。
これに関連して、日本では、物理学者として湯川秀樹、朝永振一郎とともに日本の素粒子物理学をリードした坂田昌一は(1970年59歳で早逝)、原子核特別委員会の委員長(原子力問題委員会の委員長を兼任)として、原子力問題が政治化していくなかで、「原子力の平和利用」について次のように批判しています。(世界1956年4月号、核の難民P57)
「未決定の要素の多い原子力発電に対しあたかもすでに確立された技術であるかの如き幻想を抱かせ、原子力に対し人類に幸福と繁栄をもたらず魔術であるかの如き錯覚をもたせるような大宣伝が行われている」
物理学者によれば、原子力技術は確立されていない技術ということです。
そして、ハイデッガーは、放射性物質が、「戦争行為によらずとも」放出してしまうことを想像している。
「突如としてどこかある箇所で檻を破って脱出し、いわば「出奔」し、一切を壊滅に陥れるという危険から人類を守ることができるのか」と。79P
「この原子力時代の最も著しい目印は原子爆弾に思われるが、ハイデッガーが何よりも心配しているのは、まさしく、「原子力の平和利用」であると。核兵器はもちろん脅威であるが、核兵器よりも原子力技術が浸透し、我々の生活の中に入ってくることの方がもっと恐ろしい」と。82P
「 ここでは技術を手段として、人間の生命と本質とに向かってある攻撃が準備されている。その攻撃に比べれば、水素爆弾の爆発などは ほとんど物の数ではない。なぜならば、水素爆弾が爆発することなく、人間の生命が地上に維持されるとき、まさにその時にこそ、原子力時代とともに世界の或る不気味な変動が経ち現れているからだ。」188P
ここも著書の中から 國分先生の解説を抜粋させて頂きます。
「ハイデッガーによれば 「技術」が生命を扱うことが脅威である。ここで注目したいのは、その後の部分です。ここでもまたハイデッガーは、それに比べれば水素爆弾の爆発など大したことはないと述べてます。核兵器が使用されることなく、この原子力時代において、人間の生命が地上に維持されるその時にこそ、「不気味な変動」が現れると。・・・・その言葉を使うなら、核兵器は破壊するが、原子力時代における技術は、無化し砂漠化すると言えるかもしれません。」
これが、非常に的を得ていると思いました。
「・・・・・・ニーチェがぽろっと書いた「砂漠が広がる」という言葉を引き、「砂漠化は破壊以上のものである」、「砂漠化は殲滅よりもいっそう不気味である」と言いました。「破壊は単に、これまで生育し建設されたもの除去するにすぎない。しかし砂漠化は将来の育成を阻止し、いかなる建設をも妨げる。」189P
「ニーチェについて、彼は考えているからこそ、この単純なことを述べているのだと言っています。そして、我々はこの実に単純な、しかし、不気味な事態に直面している。ならば、この単純なことについて考えねばなりません。」
こういう一連の流れの中で、非常に大切だと思うのは、「ハイデッガーを検証するとは、我々自身を検証すること」だと言う部分です。P166
要は、原発を廃止すべきだ、という議論で ほとんど間違っていないと思うが、その論理を作るのは、非常に難しいということです。どこかに、眼を背けている問題があるんじゃないか、見えないように、考えないようにしたまま脱原発運動を推し進めていくと、カルト的なものを導き寄せる危険性はないだろうか、との指摘です。
では、なぜ、ハイデッガーだけが、核技術の問題点に早く気づけたのか、と考えると、彼が古代ギリシャまで遡って現代技術について考える、というものの考え方をしていたからかもしれないと。
そして、思想がもたらすあらゆる危険を理解した上でも、発展的批判的に、危険を恐れず踏み込んで考えていこうと、徹底して謙虚に緊張感のある講義が進んでいきます。
ハイデッガーは、「科学は考えない」とも、戦争で故郷が焼け野原になった風景で、故郷に
とどまっている人の方が、より喪失感がある、ということも言ってます。
それに関して、福島帰還者の方が、県外に避難している自分達より、もしかしたら、喪失感が
あるのかもしれない、などと想像したりもします。
私たちは、目の前における現象に振り回され 影響を受けます。
見えることに真理があり、見えないことは無に等しく、信じない、想像しない。
でも、実は見えないことの方に真実があり、否、真理はむしろ、見えないのかもしれない。
こういう考えは、この本から離れますが、次のような考え(「世界」と「人間」を両面から
問い直す新しい学問の創出を目指す、東京大学の研究教育センター)にも通じるものがあると
思います。(東京大学総合文化研究所の朝倉友海
引用元:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/eaa06/)
・善が実は悪であること 悪は正義のふりしてやってくる。
・善とされるものが悪であることがあるのと同様、悪とされるものが悪でないことがある
・仏といえば、悪とは無縁なイメージがありますが、実際には悪を断ち切ってはいないと言い
ます。むしろ「悪を完全に理解したものが仏」なのです。
悪を理解する必要があるというのは、現代社会にも通じるものがあると思います。
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本の最後に、「各人が原発についての意見(ドグマ)を形成し、それが集合し、彫琢され、
脱原発の教説となることを筆者は望ましいと思っている」とあります。
これが著者の、伝えたかったことなのだと思います。
一人一人が 核技術の問題を考える、ということにたどりつきます。
意見が集合し、語られ、冷静に落ち着いて論理的に考えられ、塗り替えられ、思想が洗練、
研磨され、進んでいくということでしょうか。
國分先生以外の本もそうですが、核の問題は、民主主義はですかね、最終的には、
とにかく、一人一人が考えるということが多いように思います。
それは、つまり、上からおりてくることを頼りに、考えないことの反対であり、
考え続ける人が増えて、脱原発や民主主義、核の問題は、進行してくのではないかと
思います。