栃木避難者母の会のブログ

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自分達の過酷な経験が無にされることなく、次世代に原発事故の責任を持つ社会になって欲しいので活動をしています。弱者が弱者のまま、社会正義が堂々とまかり通る社会を夢見てます。「私」達には、地球の所有権があり、世界を変える力があると信じてます。

福島被災地を歩き、その様子をSNSで紹介している絵本作家の鈴木邦弘さん。

 

新聞にも取り上げられております。

 

 

鈴木さんは、FB、X、インスタグラム、ユーチューブなど、様々な媒体で情報発信されてますが、

今回は、note 鈴木邦弘(https://note.com/niq/ )から。絵本「ずっとここにいた」から引用します。

実際はサイトを訪問しご覧ください。

鈴木さんの描く空、海、山が、美しくて、震災前の誇りある美しい故郷の光景が蘇ってきました。その中に描かれている 放置され枯れはてているモノ、野ざらしの遺産、放射性廃棄物、等などの写実が、原発事故の残酷さを効果的に表現されていると思い感銘を受けました。

 

一部だけアップロードさせて頂きます。

 

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一番上の素敵な建物は大熊町にあった図書館兼民俗伝承館です。JR大野駅のそばにありました。以下は、実際の写真です。

既に解体されています。しかし、この解体決定の連絡が住民に行き届いてなかったとして(住民は全国に散りばっているので、連絡通知の不十分は致し方ない面が想像できます)、どうか残して欲しいと直前に、保存陳情などが起きていたようです。

 

解体前の「大熊町図書館・民俗伝承館」(福島県大熊町、同町提供)=共同

 

福島原発3キロ「大熊町図書館」、11年ぶり開放 保存求める声も - YouTube

 

 

図書館ボランティアのお話を聴いて、心に痛みが走りました。身の回りの生活全てが破壊された人達にとって、住民と共有できる 心の癒しになっていたシンボル。この建物さえも解体・・・

この声は小さい声です。この話に限りませんが、被災現場で生じている様々な小さい声。

こういう 小さい声こそ、大きくなって、天まで届いって欲しいです。

 

絵本作家鈴木邦弘さん。「ずっとここにいた」のあとがきに涙が出ました。現場を見て、こうした感受性や想像力、内省力を持った方の出現は希望です。

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ずっとここにいた

 双葉郡を取材で歩いていると、生き残った牛や野生動物はいうまでもなく、虫や植物、果ては自転車や車や家屋といった無機物に至るまで、原発事故で人が逃げてしまったあと、この地でどう過ごしていたのか気になることがある。彼らはどんな想いで人間を見ていたのか…。そして原発事故から何年も経って、今度は除染、解体といって人工物はもちろん、動物も虫も自然も何もかも、破壊し殺し尽くす。残るのは愚かな人間と、人間が作り出した放射能のみ。

 人はそれを「復興」と呼び、前向きでハッピーなことだという。それどころか、ついていけない人たちを「復興の邪魔をする」「風評加害者」とさえ罵って、人間同士でも争いを繰り返す。なんて愚かなことだろう。

 原発事故被災地は、人間の愚かさを丸裸にする。恥ずかしい姿を露わにし、生きることの根源を目の前に突きつける。双葉郡を取材し、見つめ、そしてそれを作品にすることは、修行にも似た辛い作業ではあるが、しかしそれは、この世に生を受けた「自分」とは何であるかを、見つけることでもあるのだ。

 そして僕はこれからもずっと、双葉郡を歩きながら心の中で「ごめんなさい」と叫ぶのだろう。

 

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よくよく考えると、自分も、未来の人たちに責任を感じてます。それがあるから、小さいことしかできないが、それしかできなくても、辞められないとも思います。

 

さらに、よくよく考えると、2011年の時、大人だった人、でも、これから生きる人たちも、実は、これから生まれる人たち 問題が解決していないということは、つまりは、社会全体の問題になっていき、責任が生じていく・・・・理論的にはそうではないかと思います。

 

少しでも、一番最後の言葉を受け取れる人が増えていって欲しい・・・少しでも解決に向け進んでいけたらーーー

 

 

 

今年の上半期、著書「原子力時代における哲学」を紹介させて頂きましたが

(記事はこちら。その①https://ameblo.jp/tochigihinan/entry-12855304007.html

その②https://ameblo.jp/tochigihinan/entry-12856343193.html )

著者の國分功一郎先生から本の意図を伺いました。

 

「僕は原発に反対ですけれども、その(原発)反対運動がダメにならないようにハイデッガーを読むべきだ、というのが僕の立場です。・・・びっくりするかもしれないけど、哲学者で“核の平和利用”について反対していたのはハイデッガーしかいなかった、ということなんです。とすると、 今、(原発に)反対しているあなたたちも僕も、ハイデッガーみたいに物事を考えてる可能性がある。ハイデッガーという人はナチズムに惹かれた人だよ、だから僕らの中にそれに類する傾向があるかもしれないから、そういうことを みんなできちんと検証しようよ、っていう本なんです。だから「ハイデッガーがすごい」とか言いたいんじゃないんです。だから、“土着性”っていうことについてもやっぱり気を付けなきゃいけない。“ドイツの血と大地”みたいになっちゃう可能性もあるから。」 

 

自分の中に「ナチズムに惹かれたハイデッガーみたいに物事を考えている可能性があるかもしれない」との言葉にドキッとし、「みんなできちんと検証したい」との著者の思いを知り、自分なりに取り組みたいと思いました。ささやかな取り組みでしたが、記録として残します。

 

 まず、ハイデッガーとはどんな人物で、どうして、ナチズムに惹かれたのか、本当にナチズムだったかなど、恥ずかしながら、初歩的なところをもう一度調べました。

 

 私のような頭脳が精巧でない者には、薄くて読みやすい本でないと取り組めません。そうした意味で、NHK100分で名著テキスト「存在と時間 ハイデッガー」戸谷洋志著は読みやすいです。このテキストの「はじめに」は、「無責任さに抗うために」というタイトルで始まります。  

 ハイデッガーの主著である「存在と時間」は哲学書の中でも、難解な著作として知られ、カントの「純粋性批判」、ヘーゲルの「精神現象学」と共に三大難解哲学者の一つに数えられていると。そして、専門的な教育を受けている哲学科の学生でも本を理解するのは骨が折れると書かれてあります。

 この「存在と時間」は哲学史の中だけに留まるものではなく、人はなぜ不安になるのか、自分らしい生き方とは何か、なぜ人は世間の目を気にしてしまうのか、といった人間を問い直し、人生を考える上で重要なヒントがちりばめられており、今を生きる私達にとっても説得力があると紹介しています。否、むしろ、今こそ、「存在と時間」が読まれるべきとあります。

「今」は、自国第一主義の台頭、既存の価値観が大きく揺さぶられ、分離と対立が激化しているからと。マイノリティーが共通の敵に作り上げられる危険性、排他的な態度がいたるところに蔓延しているからと。「みんな」がそうしているから、「自分」も、と同調したり、迎合したり、便乗したりする。「みんな」によるいじめが、世界規模で頻発している時代に生きているのではないかと問いかけ、そうした暴力に抵抗するために「存在と時間」がヒントになりうるかもしれないと。

 ハイデガーは、ドイツがナチスに飲み込まれる時に、「みんな」の問題に鋭く切り込んだ。しかし、責任ある生き方を模索したはずのハイデガーが、「みんな」を暴力へと導いたナチスに一時的に加担したという問題があると。ハイデガーの行動の謎と、後世の哲学者がハイデガーを強く批判し、それを乗り越えようとしてきたことが書かれてます。

 

 大まかな内容はこれくらいにして、ハイデガーがナチスに加担したということを調べると、結論から言うと ナチス政権下でフライブルク大学学長に就任し、ドイツ学生に強い影響を与えましたが、ハイデガーは約1年後に辞めます。ハイデガー研究者の轟孝夫先生(以下、先生を省略)は、ハイデガーは、ナチスの思想を足掛かりにして、自分の思想を実現するための試みをしようとした的なことを述べてます。https://gendai.media/articles/-/131483?page=2

 

 そして、轟によるとドイツでは、ハイデガーの研究は、タブー視されているようで批判の対象になっているそうです。https://gendai.media/articles/-/111579

 以下の中に紹介されてあり、以前この本を読んだことがありますが、マルクスガブリエルは、ハイデガーはナチスであるとして徹底的に批判していました。その時は、彼の主張も「然り」と思いましたが 自分の認識は浅はかなもので 違う意見にも、「然り」と思います。

https://gendai.media/articles/-/131410

 

 つまり、ハイデガーのナチズムを調べると、2014年にハイデガーの「黒いノート」という覚書集が刊行され始め、それによって、今なお、学識者による研究や調査が喧々諤々と継続していることがわかってきました。https://gendai.media/articles/-/67538 

 轟先生の記事がたくさんあるので、ネット記事だけではいけないと思い、図書館で轟の本や、ハイデガーとナチズムに関する本を何冊か借りて読みはじめましたが、ここで大きな難問が立ちはだかりました。こうした本は、専門家を対象として書かれているためか、読解、理解が一向に進まない、難しくて、心に入ってこないことでした。。。

 

 これでは、脱原子力も、核の解決もできない・・・と、暗澹たる気分に襲われました。

 

 軽い絶望感に直面しながら、読み進めていたら、一つだけ、心に入ってくる論考にたどり着きました。それは、ハイデガー哲学は反ユダヤ主義かという内容に対して、12名の研究者による執筆で構成されている本(「ハイデガー哲学は反ユダヤ主義か: 「黒ノート」をめぐる討議」2015,水声社)の最後の執筆者、森一郎先生の ハイデガーをハンナアーレントに代えて、「ハンナアーレントと反ユダヤ主義」というタイトルでまとめられた論考でした。

 それは、「ハンナアーレントは、反ユダヤ主義か。―これは愚問であろうか。いや、ひょっとするとこの問いの方が「マルティンハイデガーは反ユダヤ主義者か」といった議論に比べれば、まだしも有意味ではないか。そう私は思い始めている。」で文章が始まります。

 

 少しだけ引用紹介します。ハンナアーレントの「「全体主義起源」の第一部は、全部、反ユダヤ主義の分析に割かれている」と、「ナチのユダヤ人大虐殺にユダヤ人自身も少なからず協力した」という「暗黒面を露呈させた」ことで、アーレントは、「読みかじりの読者から非難轟轟だっただけでなく、最良の知的盟友にまで絶縁を宣告される」という目に遭ったそうである。つまりハンナアーレントは、「反ユダヤ主義者と嫌疑されたことはただの冗談では済まず、同胞のユダヤ人から「アンチ」と受け取られるような「歯に衣着せぬ論客」を幾つも残し、掲載拒否や、世界中から総攻撃されてきた。

 「根本的かつ痛烈な問題提起で人の神経を逆なでするアーレントの面目は、ユダヤ人に関して遺憾なく発揮されている」とし、「アーレントの情け容赦ない言辞は、ユダヤ民族への愛の発露以外の何物でもなかったのである」。

「自由度の高い批判精神」で「愛する自民族に向けて次々に批判の矢を放ち」「たえざる対立と批判なしにはどんな愛国心もありえない」「民族を命がけで愛するとは何を意味するか」と紹介されていました。

  この論考の最後は、「もののはずみ的に残した反ユダヤ主義的言辞」を「鬼の首でも取ったかのごとく断罪する者たちの志の低いことは言うまでもない」で締めくくられています。 

 この森先生の意見は非常に明晰かつ理論的にまとめられ、読みやすいです。心が揺さぶられました。

  もし、この時代に生きていたとして、日本人の社会感覚では考えられないアーレントの言動ですが、言葉を受け止めきれるか、受け入れるだけの度量や社会、自分であるかと想像します。。

 日本社会と単純比較で論じられませんが 自分がバッシングの対象になることは いずれにせよとても恐ろしいことです。

 そういう意味でいうと、ハンナアーレントの行為とその強さはただ事ではありません。自己愛の次元を超越しています。冷徹な知の底辺に流れている「真理」への愛と探究心が感じられます。それは人間愛に繋がる。。とも思いました。

 ハイデッガーの「存在と時間」が未完のまま亡くなったことも興味深いです。ハイデガーは、自分の「存在」、その生きざまと人生を通して、学識ばかりでなく、社会に議論を巻き起こしている事実、彼の死後も論争が続いている事実、このことに深い意味があるように思います。

 

 とても恐れ多いことですが、人間は間違えることや人間の不完全さを、偉大な哲学者は身をもって伝えているのではないか・・・人類の向上のために。。。。

 

 反知性主義が時代潮流にあって、実は、核の問題解決のために 人間性豊かな学識が不可欠に思います。

 人間の足底から人を見つめるような、微生物や昆虫の気持ちのわかる感受性を持つような。かよわさ、はかなさ、わかりやすさが重視されるような価値の転換がなされるとか。

 

自分の間違いや愚かさを自覚している者は、他者の間違いや愚かさも許容できます。

 

 誰しもが自尊心を持っていて、それは重要なものですが、自分の自尊心を優先させるために他人の自尊心を踏みつけたり、自己の優位性にあけくれてはいけません。日本では批判的な物言いは嫌悪されますが 言葉の裏にある意図にも想像力を働かせる必要もあります。

 

 もし、私が、2060年頃、放射性廃棄物が置かれている地域に生まれたと想像します。その問題が解決していないことが予測され、壮絶な怒りや絶望に襲われ続けるでしょう。

 

 命が経済の下に組み込まれ、軽んじられる現状を少しでも打開するために、もっと命の尊厳、人の自尊心の理解が深まって欲しい、はかない、弱い、小さな声を大切にして欲しい、そういう声が届いて欲しい、その前に気持ちや、小さい声が堂々と表明でき、そして受け入れられる社会であって欲しい、そういう文化や社会通念がたくさん浸透して欲しいと願ってます。

 

 

予定が先なのですが、早めにお知らせします。

 

◇10月交流会 「清水奈名子先生ご参加‼ 何でも語ろうざっくばらん会」 

 

日時 2024年10月20日(日)午前10時~12時         

場所  まちぴあ 2階 研修室

内容  10:00~10:15  宇都宮大学 清水奈名子教授のお話

    10:15~10:20  絵本作家 鈴木邦弘さん 紹介 

    10:20~12:00  フリートーク(意見 感想 質問などなど) 

       

参加費  無料(申込不要)

 

〇清水奈名子プロフィール  宇都宮大学国際学部教授  

 福島原発震災に関する研究フォーラム共同代表、日本平和学会会長

 原発避難者の人権をめぐる課題など論文多数。

 母の会と共同製作証言集「原発避難を語る」授業の取り組み

 

 

◇11月被災地スタディツアー 

栃木避難者母の会では、今年度も「ともしびプロジェクト宇都宮支部」「UP(宇大生プロジェクト)」とともにスタディツアーを開催します。

 

実施日 2024年11月9日(土)双葉町、浪江町

 

内容  ・震災遺構・請戸小学校見学(現地ガイド:横山和佳奈さん)

    ・避難者宅の見学 

     

※横山和佳奈さんは、震災当時、請戸小学校の6年生。今年2月に宇都宮大学で開催した

「想い紡ぐ3.11」で講演をされました。

 

問合せ先   栃木避難者母の会 大山 phkhn641@yahoo.co.jp  09051895616

 

 

共催   ともしびプロジェクト宇都宮支部、UP(宇大生プロジェクト)、栃木避難者母の会

 

※栃木避難者母の会は、うつくしまNPOネットワークの一食福島復興・被災者支援事業の助成を 受けて開催します。

 

前回は1950年代に、原子力技術に関して考えていた稀有な3人の哲学者のうち、アンダースとハンナアーレントの紹介でした。今回は、3人目のハイデッガーです。本書では、ハイデッガーが、原子力技術を徹底的に考えていた人物として、本の78Pから~286Pの最後まで、本のほとんどをさいて論じられております。

限られておりますが、印象に残った部分を抜粋します。

 

ハイデッカーは、原子力が管理し続けなければならないこと、管理が不可欠であることは、管理ができないことだと喝破します。

 

 これに関連して、日本では、物理学者として湯川秀樹、朝永振一郎とともに日本の素粒子物理学をリードした坂田昌一は(1970年59歳で早逝)、原子核特別委員会の委員長(原子力問題委員会の委員長を兼任)として、原子力問題が政治化していくなかで、「原子力の平和利用」について次のように批判しています。(世界1956年4月号、核の難民P57)

 

「未決定の要素の多い原子力発電に対しあたかもすでに確立された技術であるかの如き幻想を抱かせ、原子力に対し人類に幸福と繁栄をもたらず魔術であるかの如き錯覚をもたせるような大宣伝が行われている」

 

物理学者によれば、原子力技術は確立されていない技術ということです。

 

そして、ハイデッガーは、放射性物質が、「戦争行為によらずとも」放出してしまうことを想像している。

 

「突如としてどこかある箇所で檻を破って脱出し、いわば「出奔」し、一切を壊滅に陥れるという危険から人類を守ることができるのか」と。79P

 

「この原子力時代の最も著しい目印は原子爆弾に思われるが、ハイデッガーが何よりも心配しているのは、まさしく、「原子力の平和利用」であると。核兵器はもちろん脅威であるが、核兵器よりも原子力技術が浸透し、我々の生活の中に入ってくることの方がもっと恐ろしい」と。82P

 

「 ここでは技術を手段として、人間の生命と本質とに向かってある攻撃が準備されている。その攻撃に比べれば、水素爆弾の爆発などは ほとんど物の数ではない。なぜならば、水素爆弾が爆発することなく、人間の生命が地上に維持されるとき、まさにその時にこそ、原子力時代とともに世界の或る不気味な変動が経ち現れているからだ。」188P

 

ここも著書の中から 國分先生の解説を抜粋させて頂きます。

 

「ハイデッガーによれば 「技術」が生命を扱うことが脅威である。ここで注目したいのは、その後の部分です。ここでもまたハイデッガーは、それに比べれば水素爆弾の爆発など大したことはないと述べてます。核兵器が使用されることなく、この原子力時代において、人間の生命が地上に維持されるその時にこそ、「不気味な変動」が現れると。・・・・その言葉を使うなら、核兵器は破壊するが、原子力時代における技術は、無化し砂漠化すると言えるかもしれません。」

 

 これが、非常に的を得ていると思いました。

 

「・・・・・・ニーチェがぽろっと書いた「砂漠が広がる」という言葉を引き、「砂漠化は破壊以上のものである」、「砂漠化は殲滅よりもいっそう不気味である」と言いました。「破壊は単に、これまで生育し建設されたもの除去するにすぎない。しかし砂漠化は将来の育成を阻止し、いかなる建設をも妨げる。」189P

 

「ニーチェについて、彼は考えているからこそ、この単純なことを述べているのだと言っています。そして、我々はこの実に単純な、しかし、不気味な事態に直面している。ならば、この単純なことについて考えねばなりません。」

 

 こういう一連の流れの中で、非常に大切だと思うのは、「ハイデッガーを検証するとは、我々自身を検証すること」だと言う部分です。P166

 

 要は、原発を廃止すべきだ、という議論で ほとんど間違っていないと思うが、その論理を作るのは、非常に難しいということです。どこかに、眼を背けている問題があるんじゃないか、見えないように、考えないようにしたまま脱原発運動を推し進めていくと、カルト的なものを導き寄せる危険性はないだろうか、との指摘です。

  では、なぜ、ハイデッガーだけが、核技術の問題点に早く気づけたのか、と考えると、彼が古代ギリシャまで遡って現代技術について考える、というものの考え方をしていたからかもしれないと。

 そして、思想がもたらすあらゆる危険を理解した上でも、発展的批判的に、危険を恐れず踏み込んで考えていこうと、徹底して謙虚に緊張感のある講義が進んでいきます。

 

 ハイデッガーは、「科学は考えない」とも、戦争で故郷が焼け野原になった風景で、故郷に

 とどまっている人の方が、より喪失感がある、ということも言ってます。

 それに関して、福島帰還者の方が、県外に避難している自分達より、もしかしたら、喪失感が

 あるのかもしれない、などと想像したりもします。

 私たちは、目の前における現象に振り回され 影響を受けます。

 見えることに真理があり、見えないことは無に等しく、信じない、想像しない。

 でも、実は見えないことの方に真実があり、否、真理はむしろ、見えないのかもしれない。

 

 こういう考えは、この本から離れますが、次のような考え(「世界」と「人間」を両面から

 問い直す新しい学問の創出を目指す、東京大学の研究教育センター)にも通じるものがあると

 思います。(東京大学総合文化研究所の朝倉友海 

       引用元:https://ocw.u-tokyo.ac.jp/eaa06/)

 

善が実は悪であること 悪は正義のふりしてやってくる。

・善とされるものが悪であることがあるのと同様、悪とされるものが悪でないことがある

仏といえば、悪とは無縁なイメージがありますが、実際には悪を断ち切ってはいないと言い

 ます。むしろ「悪を完全に理解したものが仏」なのです。

 悪を理解する必要があるというのは、現代社会にも通じるものがあると思います。

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 本の最後に、「各人が原発についての意見(ドグマ)を形成し、それが集合し、彫琢され、

 脱原発の教説となることを筆者は望ましいと思っている」とあります。

 これが著者の、伝えたかったことなのだと思います。

 

 一人一人が 核技術の問題を考える、ということにたどりつきます。

 意見が集合し、語られ、冷静に落ち着いて論理的に考えられ、塗り替えられ、思想が洗練、

 研磨され、進んでいくということでしょうか。

 

 國分先生以外の本もそうですが、核の問題は、民主主義はですかね、最終的には、

 とにかく、一人一人が考えるということが多いように思います。

 それは、つまり、上からおりてくることを頼りに、考えないことの反対であり、

 考え続ける人が増えて、脱原発や民主主義、核の問題は、進行してくのではないかと

 思います。