夜明けの会  (旧:栃木避難者母の会)

夜明けの会  (旧:栃木避難者母の会)

原発も核兵器もない世界の創出を願っています。
「核抑止力は根本的に間違っており、その間違いを証明しているのは、福島第一原発事故であり、原発避難者はその生き証人です。」田口卓臣教授 (2017.9)               

 「静かすぎてうるさい。」

 ― 尾崎世界観さん(TBS『news23』2026年3月10日放送・双葉町を訪れて)

 

 被災地の静けさは、今も私たちに何を問いかけているのでしょうか。

 

 夜明けの会、初めての交流会です。

 

 震災から15年。
 新しい装いをした町では、復興への挑戦を静かに続けている人たちがいます。
 一方で、その足元には、言葉にならない喪失を抱えている人たちもいます。
 その思いは一人ひとり異なり、決して一色ではありません。
 県外に避難して暮らす私たちの中には、時がたつほど故郷を失った現実の重みが身に迫り、

 何を語ればよいのか分からなくなる人もいます。

 

 そんな今だからこそ、「文学には未来を拓く力がある」と語るお話を聴いてみたいと思いま

 した。講師の丁貴連先生は、韓国出身の日韓比較文学研究者です。国境を越えて人間を深く

 見つめ、文学を通して、記憶や痛み、そして希望を問い続けてこられました。

 「言葉」と「記憶」について、ともに考える時間にしたいと思います。

 

 また、髙橋若菜先生には、足尾・水俣・福島を結ぶ取り組みや、共同代表を務める「原発震災 

 研究フォーラム」で積み重ねてこられた研究と実践を踏まえ、持続可能な社会に向けた新しい

 いエネルギーの可能性についてお話しいただきます。

 

 また、2022年から2024年までの3年間、ともしびプロジェクト宇都宮支部代表・八木茂さんと

 ともに被災地ツアーを実施し、80名を超える若い世代が福島の現地を訪れました。八木さんか

 らは、その歩みを振り返りながらお話していただきます。

 

 そして、言葉を失いそうになるほどの出来事の中で、福島に暮らし続けながら、語りを紡いで

 きた方をお招きしました。エチカ福島共同代表の渡部純さんから、「言葉」と「対話」を大切

 にしてきた実践についてお話を伺います。

 

 ゲストのお話しや報告を受けて、その後は 参加者全員で自由に語り合う時間を設けます。

 立場や経験の違いを越えて、それぞれの思いを持ち寄り、ともにこの時間を過ごせれば 

 幸いです。

 

 

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〇日時   2026年10月4日(日)   13:00~15:15 (途中入場途中退出OK)

 

〇場所   まちぴあ 2階 研修室  

      宇都宮市元今泉5丁目9-7  TEL:028-661-2778

 

〇内容   13:00~13:30  「正解のない世界で充実した生活を送ることを、文学の視点から

              考える」(仮題)        

               宇都宮大学国際学部名誉教授 丁貴連先生

 

      13:30~13:50  「国際環境政治から、危機の中にともす光を、ともに考える」

               (仮題)

               宇都宮大学国際学部教授 髙橋若菜先生

 

      13:50~14:10   「被災地ツアーの報告」    

               ともしびプロジェクト宇都宮支部 八木茂さん

               宇都宮大学up  宇都宮大学生

              

      14:10~14:30   「福島で『語り』をつなぐ―言葉を大切にしてきた実践」

               エチカ福島 共同代表 渡部純 さん

 

      14:30~15:15    参加者フリートーク(近況、意見、感想、質問など) 

 

     

〇参加費  無料(申込は必須ではありませんが、準備のため連絡をくださるとありがたい

         です。連絡先 phkhn641@yahoo.co.jp 大山)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2018年から2019年、2022年から2024年と5年間にわたって、 被災地ツアーをしてお世話になった双葉町半谷宅が、昨年、解体されたことを受け、現地を確認してきました。

 

 

解体前 2018年から2023年の様子。家がありました。

 

   

         2023.10.7㈯ 撮影 

 

   

   写真:ともしびプロジェクト宇都宮支部FBより2023.10.7㈯ 撮影

 

   

   写真:ともしびプロジェクト宇都宮支部FBより2023.10.7㈯ 撮影 

 

 

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 ◆解体後  解体作業を最後まで見届けたと話す半谷さん。
      半谷宅の門は根元から切断され、無残に倒れていました。
      長い年月を見守ってきた門。

      悲しみがよぎりました。

 

    

            2026.6.6㈯撮影

 

  

            2026.6.6㈯撮影 

 

          

 福島県内各地で踊りの教室を開き、多くの避難者を励ましてきた長岡仁子さん。私たちの交流会にも3回ゲストとしてお招きしました。2017年に浪江町へ帰還した長岡仁子さん(85歳)に、震災後の歩みについてお話を伺いました。以下は、その内容をまとめたものです。

 

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 踊りとともに歩んだ人生

 長岡さんは子どもの頃から運動が得意で、1978(昭和53)年に日本舞踊協会の試験に合格し、武扇会の師範となりました。夫の農作業を手伝いながら、仕事の合間に地元の主婦たちへ踊りを教え、その評判は口コミで広がりました。震災直前には、相双地域(相馬郡・双葉郡)の33か所で、約200人に踊りを指導していました。

 

 発表会直前に襲った東日本大震災

 2011年3月13日(日)には、スポーツセンター浪江で年に一度の発表会を開催する予定でした。震災発生時、長岡さんはその準備をしていました。発表会には、出演者だけでなく見学者も含めると、毎年400~500人もの人々が集まります。

 しかし、地震と原発事故の影響で発表会は中止となりました。

ステージの最後に観客へ配る予定だったミカン15箱や紅白餅300個の後処理、福島市から借りていた舞台照明機材の返却など、さまざまな対応に追われました。また、発表会後に予定していた40人参加の慰安旅行も中止となり、旅行会社から返金された費用を、福島県内外へ避難した会員一人ひとりに返すため、その居場所を探し回ったといいます。

 しかし後になって振り返ると、「発表会当日に震災が起きなくて本当に良かった」としみじみ感じたそうです。もし当日に地震が発生していたら、照明機材が落下するなどして、大きな事故につながっていたかもしれないと語ります。

 

 避難先で始まった「踊りの再出発」

 最初の避難先は中通りの親戚宅でした。20人が身を寄せ数日過ごしましたが、「これだけ大勢では迷惑をかけてしまう」と考え、家族7人で3月中旬に二本松市の廃校となった小学校へ移りました。その後、4月17日には福島市の土湯温泉へ避難しました。

 土湯温泉には町内外から多くの避難者が集まっていました。高齢者の体力低下を心配した長岡さんは、ホテルの女将に相談し、5月から週1回、朝の時間帯にフロントロビーを借りて健康体操を始めました。それが震災後の踊りの活動の再出発だったといいます。

 やがて、その話を聞いた会員たちから、「私たちの近くでも開いてほしい」と連絡が寄せられました。

 

 明治神宮での舞―故郷への祈り

 長岡さんは、地元・浪江町苅宿にある標葉神社の秋祭りで奉納される「浦安の舞」を継承するため、1976(昭和51)年4月に「標葉神社・浦安の舞保存会」を立ち上げました。

 当初は小学4年生から6年生までの女子児童が舞を担っていましたが、少子化の影響により、現在は高校生まで対象を広げて活動を続けています。

  震災のあった2011年秋には、明治神宮で開催された昭憲皇太后(明治天皇の皇后)百年祭に、福島県代表の一団体として招かれ、「浦安の舞」を奉納する機会に恵まれました。

 当時、自宅はイノシシやハクビシン、ネズミによる被害を受け荒れ果てた状態でした。それでも、明治神宮という晴れの舞台で舞を披露できたことは大きな励みとなり、故郷帰還の願いをいっそう強くしたといいます。

    

    

 

   浪江町十日市祭(2017年11月) 一番左側が長岡仁子さん(相馬流山踊り)・

           「浦安の舞」の舞い手 プライバシーに配慮し、一部加工しています。

 

 

 

 避難先でも絶やさなかった「相馬流山踊り」

 震災前の2008年8月には、94人の会員を集めて「浪江町相馬流山踊り保存会」を設立しました。

 相双地域には、宇多郷(相馬)、中ノ郷(鹿島)、北郷(原町)、小高郷、北標葉郷(浪江)、南標葉郷(大野・双葉・富岡)の六つの郷がありますが、保存会の設立は浪江町が最も早かったそうです。

 相馬野馬追では、6年に1度、祭り中日に騎馬戦会場である雲雀ヶ原祭場地で相馬流山踊りが披露されます。浪江町が当番となる年には、長岡さんが中心となって踊りを取りまとめてきました。

 原発事故によって会員たちは各地へ避難し、「もう二度と踊ることはできないかもしれない」と思いました。しかし、声をかけると多くの人が喜んで集まってくれました。長岡さんは、いわき市や福島市、二本松市、会津などの仮設住宅を巡りながら、月1回の稽古を続けました。そして、震災後初めて開催された相馬野馬追は、当番の年ではありませんでしたが、声がかかり84人で相馬流山踊りを披露しました。県や町の関係者から、「この時期に、これだけの人が集まるとは・・」と驚きの声があがりました。

 

  おしゃべりするだけでもいいから

 今年、長岡さんたちの踊りの発表会は50周年という大きな節目を迎えました。「年齢を重ね、身体も思うように動かなくなってきた」と話しますが、教室の仲間たちからは、「おしゃべりするだけでもいいから来て」と声をかけられるそうです。

 現在も福島県内13か所で踊りの教室を続けています。

 長岡さんは、「『な』かよく、『み』んなが、『え』がおで」ね。と「な・み・え」の文字に思いを込めて伝えます。

 そして最後に、静かにこう語ってくれました。

  「私は『お金』よりも『人』が好きなの。

   『金持ち』じゃなくて、『人持ち』なの。」

 

   

  昨年(2025) 被災者からの「ありがとう」の手ぬぐい。土湯温泉での集いに「避難を忘れるほど、元気と希望をもらい前を向くことができた」  

 

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 【お話を伺って】

  全く飾らない自然体。お話をしていると、心がほっとし、温かな気持ちになります。人を楽しませ、喜ばせるユーモアあふれる言葉の数々からは、多くの避難者が踊りを通じて、原発事故後の苦しみや悲しみをともに乗り越えてきた道のりが思い浮かびました。

 そこには、自分が前に出るのではなく、相手を立てる謙虚で温かな姿勢があります。

 地域も人も大きく傷ついた原発事故後、長岡さんは、人と人、地域と地域を結び続けてこられました。

 元の町を再現することはできなくても、浪江へ帰還された背景には、ご夫婦それぞれの「家」や「先祖」を守りたいという強い思いと、ふるさとへの深い愛情があることを感じました。

  長岡さんの自然体の歩みは、「仲間とともに」「仲間がいれば」困難を乗り越えられることを、静かに教えてくれているようでした。

 誠にありがとうございました。

 先週(2026年6月6日)、6年前の当会の福島県内交流会(2018年6月18日楢葉町天神岬)でゲストをお願いした高村さんに、6年ぶりにお会いしてお話を聞いてきました。(福島県浪江町内)
以下、内容をまとめました。

 

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大山(以下「大」):6年ぶりの再会です。今までゆっくりお話を聞けなかったので今日は、色々教えてください。まず、高村さんが、語り部として活動をされているとお聞きしていますが、いつ頃から始めたのですか?
 
高村(以下「高」):2011年11月に「ふくしま会議」なるものがあり原発事故に関心のある人らが福島のことを知らないのにも関わらず福島を語ることなかれと思い「被災地ツアー」を企画したことが始まりです。
 バスの中で当時の話をしました。そして、ボランティアで来られた人たちに「あの時は何があったの?」と聞かれ答えることが多くなりました。その時に「あなたは震災の語り部だね」と言われたのがきっかけだったような気がします。

 

大:高村さんは福島に住み続けながら、震災から15年が経過した今なお、活動を継続されております。これまでの活動や考えてきたことについて教えてください。

 

高:震災後、山形に借上げ住宅を借りて避難しました。週の半分を南相馬と山形を往復する生活でした。子供に「僕はどこの小学校に行くの?南相馬?山形?」と聞かれて悩みます。まだ放射線については「危険」「安全」「直ちに影響はない」しかありませんでした。
 これからの自分たちの事を知りたいと、そして放射能について知りたいと原発事故を経験した人達に学びたいと、チェルノブイリ原発に行きたいと思ったのです。震災後 鎌田實先生と出会い相談しました。その繋がりから運よくウクライナ、ベラルーシへと行くことができました。ベラルーシのゴメリ州へ行き、内部被爆と外部被爆について自分で測定をする生活することを学んできました。
 その経験から「安全ではないけれども、安心ができる故郷へ帰ろう」と決め南相馬に戻ってきました。
 そのためには放射線を測り続けなければいけません。汚染地に住むということはそういうことだと双葉町の伝承館の語り部として率直に話したところ、私の話を聴いた人がアンケートに「放射能に対して偏った考えを持つ人の話は聞きたくなかった」と書きました。折り合いをつけながら生活している実像を受け止めてもらえず、否定されたようでした。
 ただ15年経とうとしても根本的なことに変わりはありません。ただ「怒り」で語り部をしているだけのような気がします。

 

大:そうでしたか。批判されたりすると、ショックを受けたりしませんか?

 

高:そうですね。最近は、仕方がないと受け止め、考えないようにしています。100人の前で話しても100人が理解するわけではありません。その中のたった一人でも理解してくれたらと思い語ります。
 語り部ネットワーク会議に所属し、福島県からの派遣で全国に語り部で行きます。岡山県に派遣で行った時に、原発の話をしないでくれと言われたこともあります。
 しかし、東日本大震災は複合災害です。福島県の被災体験を話すのに、原発事故は不可欠なお話です。無理なお願いだと伝え、話しましたが、そのことを知らない人、理解しない人が増えてきました。
 
大:深刻な傾向ですね。本当のことを伝えようとする高村さんの役割を思わずにはいられません。ところで、今、最も、伝えたいことはどんなことでしょうか。もしくは、伝えたいことの内容は、初期と変化してきましたか?

 

高:根本的には、全く変わっていません。あの日、あの時、何があったのか、伝えたいです。
 忘れもしない3/14は3号機が爆発しました。爆発音を聞きますがそれが3号機だとは知りませんでした。自宅は福島第一原発から25キロにあって、私は3人の息子がいました。
 3/14、逃げようとする私たちの前をたくさんのバスが通り過ぎました。自衛隊や警察も西へと走っていくのを見ました。ある人は「子供がいるんだ!乗せてくれ!」とバスに手を振ったのですが、止まってくれるバスはありませんでした。なぜ原発が爆発をした途端誰も助けに来ないのか!「棄民」という言葉が浮かび、国や東電を恨みました。
 3/15午前中に20~30km圏内に屋内退避指示が出ました。
 そして「ここから30キロ圏内」という看板が立つと多くの支援物資を積んだトラックは引き返していきました。国がトラック協会に30キロ圏内の立ち入りをするなと言ったからです。それは伝承館内展示映像に証言が残っています。
 南相馬市は陸の孤島になりました。
 当時の怒りは確かに、小さくなりましたが 怒りや深い傷は消えません。語ることで自分の傷を自覚させられます。震災に向き合うと言うことは、自分自身に向き合うことだと思っています。
 また、心を無視する、軽視する、見ないようにしている社会の根深さについても考えます。
 原発事故で大きな傷を抱えているにも関わらず、それを無視する姿はどこかいびつな気がします。

 

大:当時、南相馬市が物資が入らなくなった深刻な事態を思い出しました。とても共感します。昨年、ある精神科医の講演会でお聞きしたのですが、日本人は、醜いもの、汚いものが消化しにくく、神経症的な潔癖さがあると話してました。社会でバーンアウトした人、弱りきっている人の内面を理解しようとせず否定的な対応に終始する暴力性も感じています。
 原発事故後の社会のことを考えると、まさに、日本人の精神性が挑戦を受けているように思います。不都合なもの、見たくないものを、いかに受け止められるようになるか。放射性廃棄物の問題や核のゴミの問題はまさにそれです。不都合な問題を受け止めて、引き受けて考える社会をいかに創っていくか、日本人は問われていると思います。
 そして、それは、自分自身、個人として受け入れがたい事態にも自覚的であることの必要性も問われているような気がしています。ですので、高村さんがおしゃっている「自分自身に向き合う問題」というお話に共感します。

 

高:原発事故は、確かに社会の問題で、様々な活動をしている人がいてそれぞれ役割も違います。私自身は、組織をつくらずにあくまでも個人として、一人の人間としてやっていきたいと思っています。憎むべきは組織の問題です。個人個人はきちんと考えている人が多いように見られますが、一度組織に染まると個人の思惑は消し飛びます。
小さな事しかできませんが誰かが言っていたことではなくて、自分が体験したことを自分の口で語りたいのです。それは個人対個人の対話につながると願っています。地に足をつけて物事を考える人が増えることもまた願っています。

 

    

 

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お話しての感想虹

高村さんの組織を頼らず、あくまで一人の人間として伝え続けようとしている姿勢に腹がすわっていることや、強さや勇気を感じさせられました。熊本県水俣市に何度も足を運ばれるなど、チェルノブイリや水俣の当事者から直接、見聞し学びの機会を得てきた高村さんと、心の奥にある傷や、自分自身へのまなざしを共有できたことはとても有意義でした。
 そして、話を聞きながら想起させられたのは、安富歩さんの「立場主義」でした。ありのままの自分ではなく、役をこなしてはじめて認められる日本社会を、立場主義社会と指摘した安富歩氏は、次のように述べています。
 
 日本社会を形成しているのは人間ではなく立場です。立場の相互依存する生態系は、自分自身の維持発展のみを自己目的化して作動しており、人間の意思とは関係なく、物事は進んでいきます。その作動が戦争を必要とするのであれば、必然的にそちらにシステムは運動していきます。私たち日本人は、日本社会の構成員ではなく、日本「立場主義」社会の「素材」にすぎないのですから、その意思決定には関与できません。
 それを止めるには、立場の生態系から、日本社会を取り戻さねばならないのです。私たち一人ひとりが「立場」を生きるのではなく、自分自身の人生を生きる以外にありません。立場の素材であることをやめて、自分自身の喜びを、自分自身の悲しみを、ありのままに感じ取って、それを言葉にし、行動する。そのような変革を一人ひとりが自分自身に対して実行するしかありません。「学歴エリートは暴走する」P175~176(講談社+α新書,2013)
 
 原発は組織文化が起こした面があることも否めません。立場主義で生きることは、タテ社会で生きることと同義であるように思います。タテ社会文化が原発事故を引き起こした面があり、原発事故を反省すると、私自身、タテ社会のアイデンティティーで生きることができなくなっています。
 そうした価値観が高村さんの話を聞いて共鳴できたように思います。
 短い時間にもかかわらず、色々なお話をお聞かせくださって誠にありがとうございました。

 

 

 

 今回、これまで交流会の講師や被災地ツアーへのご参加などを通じてお世話になってきた中央大学の田口卓臣教授に寄稿していただきました。

 田口先生は著書『脱原発の哲学』などを通して、核と原子力をめぐる問題を哲学の視点から問い続けておられます。かつて先生が「原発避難者は生き証人である」と語られた言葉が、私の心に深く残っていました。昨年、久しぶりに先生と連絡を取り合ったことをきっかけに、今回の寄稿をお願いしました。

 ぜひ多くの方にお読みいただき、ともに考えていただければ幸いです。

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『終わりのない核の災禍を見つめて』  中央大学 田口卓臣教授

 

 

 【「私たちにも帰る家があった」】

 

 「皆さんには帰る家がありますよね。私たちにもあったのです。」

これは、私が帰還困難区域見学ツアー(2018年)に参加したときに触れた言葉です。以来、原発のことを考えるたびに、このAさんの言葉を思い出してきました。

 Aさんのご自宅は、福島県浜通りの浪江町にありました。浪江町は、原子力災害による放射能汚染が激しく、2026年現在も帰還困難区域に指定されています。このため、約2万人の町民が元の家に戻れていません。

タイベックスーツに身を包んで見学したその家の光景は、はっきりと覚えています。途中で折れたまま朽ちかけた何本もの柱。天井からだらりと地面まで垂れ下がった電灯や板。たぶん、イノシシが暴れまわったのでしょう。家具や本棚はどれもこれもなぎ倒され、泥まみれの床には粉々になった食器の破片が飛び散り、足の踏み場もないほどでした。

 敷地には、相馬焼の陶器を作るための工房がありました。中を見せていただくと、何者かが盗みに入ったことを物語る痕跡が、あちこちに残っていました。工房の周囲の放射線の値は、最大6.46マイクロシーベルト毎時。同じ測定器で私の家を測っても、0.2マイクロシーベルト毎時を超えることはありません。「3年前は4マイクロシーベルトだったから、また上がってしまいましたね…」そう呟いたときのAさんの表情が忘れられません。

 結局、Aさんの帰還がかなうことはなく、2026年2月にご自宅が解体されたとうかがっています。

   

 

  

                         Aさん宅    (2019年8月30日撮影)

 

 【終わりの見えない災禍】

 

 東京電力福島第一原発事故は、とうてい「事故」という概念に収まるものではありませんでした。そもそもこの巨大災害を「事故」と呼ぶことに、無理があるのだと思います。

 大量の放射能汚染によって、人間の住めない広大な土地が生まれました。現在、帰還困難区域に指定されているのは、浪江町だけではありません。双葉町のほぼ全てが含まれていますし、大熊町、富岡町、飯館村、葛尾村、南相馬市などもそれぞれ一部がこの区域に指定されています。長年にわたって築き上げてきた暮らし、仕事、人間関係を奪われた住民は、数万人規模にのぼるはずです。

 この原子力災害の被災者に追い打ちをかけてきたのは、「終わり」が見えないという点です。いわゆる「事故」ならば、どこかの時点で終わりはやってくるものです。ところが、福島第一原発事故に関しては、それがいつ終わるのかを誰にも述べることができません。私たちが生きているうちに「終わり」を見届けられるのかさえ分かりません。

 現に三つの原子炉の爆発によって溶け落ちた核燃料は、15年以上が経った今日もまったく回収できていません。人が近づくと即死するほどの放射線を発していて、手出しができないからだと言われています。推計によれば、その総量は880トン。このため、福島原発を廃炉にすることは、「100年経っても不可能」と述べる専門家もいます。

 100年――。一口に言われても、困惑してしまう数値です。それはゆうに一人の人間の一生を超えるスケールの時間だからです。このような巨大災害を「事故」と呼び習わしていると、終わりのない被災者の苦痛をあまりに軽く見積もることになるのではないでしょうか。

 Aさんがこうもおっしゃっていたことを思い出します。「私はあの家に、魂を置いてきてしまったんです。」

 

 

忘れられていく災後の反省】  

 

 福島の原子力災害をきっかけとして、たくさんの人々が自分の生き方を見つめ直したはずでした。

例えば、首都圏で暮らす私たちが思い知らされたのは、自分の何気ない毎日の生活が、実は福島県や新潟県の原子力発電所から送られてくる電気のおかげで成り立っていた、という現実でした。

「東京電力」と名の付く原発がなぜ、福島や新潟に立地されてきたのか。地方から都会に向けて大量の電気を送り出すシステムが、どのような経緯で作られ、どのような意味を持ってきたのか。そして、そのような社会構造の中で、私たちがどれほど自分の消費生活の不都合な部分を見ずに済ましてきたのか――こうした問題が、私たちの目の前で一気にあらわになったはずでした。

ところが今、私たちが驚き反省しながらつかみとったはずの事柄が、「なかったこと」にされようとしています。

例えば、2022年6月17日の最高裁判決。この判決は、原発被災者が政府と東京電力に損害賠償を求めた4つの訴訟に対し、政府の賠償責任を一律に否定するものでした。これを皮切りに、22件の判決が、原子力発電を国策の根幹に据えてきた日本政府の責任を否定しました。また、16件の判決が、老朽化した原発の運転差し止めを求める訴訟を棄却しました。

2023年2月10日には、岸田文雄政権(当時)が、「原子力を最大限活用する」という方針を閣議決定しました。安倍政権や菅政権が「可能な限り原発への依存度を減らす」という建前を保持していたのに対して、この政権はあっさりとそれを覆してしまったわけです。

 国全体が原子力災害を根本的に反省することなく、まるでドミノ倒しのように原発推進へと舵を切っていく光景は、異様に見えます。そのような現実が進行中であることの意味や背景を読み解こうとしないメディアのあり方にも、私は違和感を持っています。

 近年は3.11が近づくと、新聞の一面を賑わすのは「復興」の話ばかり。地元で長年生計を立てていた原発被災者たちが、今どこでどのように過ごし、どのような思いを抱えながら長い年月をしのいできたのか、そしてなぜ、いまだに故郷に戻れずにいるのか――このように激しい被害を受けた当事者たちの声を聴き取ろうとする報道が影を潜めていることにも、疑問を感じずにはいられません。

 

 

福島から核抑止論を問い直す】

 

 もうひとつ、気がかりなことがあります。それは、政治家たちの口からいとも簡単に「核武装」という言葉が飛び出すことです。日本だけではありません。ロシアによるウクライナ侵攻(2022年2月)、アメリカとイスラエルによるイランへの軍事攻撃(2026年2月)などが重なる中、「核の脅し」をむき出しにする国々の挙動に歯止めがかかりません。

 それぞれの国に、それぞれ固有の安全保障上の事情があることは言うまでもありません。そうした事情の全体を批評する資格が私などにあるとも思いません。ただ、どうしても引っかかるのは、核武装や核の脅しを公言する各国のリーダーたちに、核災害の被災者たちの苦痛を想像しようとする姿勢がまったく感じ取れない、という点です。何より、他ならぬ核災害を引き起こした日本において、そのような姿勢を持つリーダーが登場しないことに危機感を覚えるのです。

 すでに述べたように、福島第一原発で溶け落ちた核燃料880トンは、制御も回収もできていません。つまり私たちの国は、核の暴走を自力で制御できていないということです。それにもかかわらず、その核を用いて他国の行動を抑止できると考えるのは、滑稽でしかありません。

 日本は各地に54基の原子炉を抱えている、という事実も忘れるわけにはいきません。もしもこれらの原子炉を他国から一斉に攻撃されたら、政府はどのように対処するのでしょうか。軽々しく「核武装」を主張する人たちに欠けているのは、原子力発電所や核施設そのものが、今や恰好の軍事的ターゲットになりうるという視点です(ウクライナの原発を何度も攻撃したロシアの行動を思い出す必要があります)。原発が攻撃されれば、福島の原子力災害を上回る災厄が起きてしまうかもしれません。

 廃炉に100年以上を要する原子力発電所が、列島のあちこちに散在しているということ――これは喩えて言うなら、自分の手で撤去できない地雷が、体中に埋め込まれているような状態だと思います。核抑止論に説得されそうになったときに思い出すべきは、このような自国の現実です。2011年の東日本大震災によって引き起こされた原子力災害は、今現在も終わっていないのです。

 

【参考文献】

小出裕章『原発事故は終わっていない』毎日新聞出版、2021年。

山本剛史『〈証言と考察〉被災当事者の思想と環境倫理学 福島原発事故の経験から』言叢社、2024年。

豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』集英社新書、2025年。

青木美希『それでも日本に原発は必要なのか? 潰される再生可能エネルギー』文春新書、2026年。