百姓でいのちき -16ページ目

大観峰に行ってきたよ。

先日、用事があり熊本方面に行ってきました。

 

昨年4月の熊本地震の影響で通行止めの箇所があるので、

 

迂回路を通って行きました。

 

益城町のあたりは、まだ災害の跡が残っていて震災の影響は続いていると感じました。

 

 

帰りは、久々の大観峰で夕日を観ることができました。

 

 

 

阿蘇山の噴火警戒レベルが1になったよ。

(火口見学の再開は未定)

 









 
 
 
 
 
 
 
 
 

炭素循環農法HPより

 

土の進化

 

 キノコは一時期衰退したようですが地上及び地下の生態系や、生物にとって良好な土壌環境形成の主役は植物と菌類


それぞれ上下のピラミッド(右図)の底辺(土台)を形成し、その歴史は億年単位です。

 

人類による土壌環境への関与(農耕)は1万年足らず。

 

近代農業の基礎となる無機栄養説からは、たった百数十年でしかありません。

 

植物と微生物の共生関係は進化と並行し同時に密になってきました。

 

これ(効率的な物質循環システムの土台)を活用しないという手はないでしょう(一例:ヤマカワプログラム&陽熱処理)。

高等生物は単細胞(精子、卵子)から進化の歴史を一通りお復習いして最終的に、それぞれ固有の種としての形態をとり生まれてきます。

 

そして地上の生物多様性を保っています。


土を使う農業では、ここが重要なポイント。

 

作物の多くは進化の終わり頃に現れたものであり、その進化度に見合う土でなければ十分能力を発揮できません。


どんなに綺麗で柔らかい土でも「土の進化程度の低い」内は、シダ類=ワラビやスギナ、針葉樹など進化の初期に現れた植物しか育ちません。


 土の進化程度:
痩せ地にスギナが繁茂するのはこのため。極端な例では、噴火により火山灰で覆われると最初にワラビが生え次第に元の植生に戻って行く。溶岩の場合はもっと原始的な地衣類、コケ植物からの再生となる。地下ピラミッドの生物種数やバイオマスが少なく、根圏の土壌微生物生態系の食物連鎖が不安定で脆弱。

またもや水のトラブルだよ。

最近、軽トラに乗っていると水がボコボコするような音が聞こえていたので、

近所の整備工場で見てもらいました。

 

どうやらエンジンの燃焼ガスが冷却水に漏れているそうで、

修理するとなると7万ぐらいかかるとのこと。

 

このエンジンは、稀にあるそうで登録から9年以内なら無償の対象になったそうです。

 

 

 

約12万km走りましたが、前回の車検で色々と部品を交換してまだまだ乗る気満々でした。

 

でも、今年が車検で12年目。

 

ということで買い替えも検討。

 

 

 

数年前にもセンサーの交換で2万ぐらい取られたので、

 

今度は、スズキかダイハツにしようかな。

 

 

やっと、水道水がなんとかなりそうで喜んだのもつかの間、

 

まさかの車のトラブルだよ。











炭素循環農法HPより

 

 

菌類、植物そして人

 

 

 遺伝子レベルからすると菌類(カビやキノコ)の祖先は動物と同じ襟鞭毛虫類で、ミカズキモを祖先とする植物とは異なる起源ということです。

 

そして、植物と菌類は単に生産者と消費者というのではなく、お互いに養分供給者でもあり、同じ土壌環境を好み自己に都合の良いように土壌環境を変えます。


両者の共存共栄関係は植物の陸生化の時代からと思われ、植物の進化と共に強固になりなりました。

 

その証拠に原始的な植物では生えるキノコの種類が少なく、出現時期が遅い進化した植物ほど多種のキノコが生えます。

 

 

 植物の進化と共に:
■ カンブリア紀、細菌類、藻類(植物の祖先)、菌類出現。
■ オルドビス紀、藻類繁栄。
■ シルル紀、植物陸棲化。初期の植物(*シダ植物)には殆どキノコが生えない。
■ デボン紀、裸子植物出現。**巨大キノコの繁栄~絶滅。
■ 石炭紀、***イチョウ、ソテツなど(裸子植物)出現、殆どキノコが生えない。
■ ペルム紀、シダ植物衰退。
■ 三畳紀、この頃から出現した針葉樹(裸子植物)にはキノコが生える。
■ ジュラ紀、被子植物出現。
■ 白亜紀、最後に出現した広葉樹には針葉樹より多種、多様なキノコが生える。
□ 新第三紀、人類(猿人)出現(0.07~0.05億年前頃)。
  注)
 * 木生シダのヘゴなどは容易に分解しない。つまり、分解役のキノコが殆ど生えない(この時代は分解者のキノコが殆どいなかった?)。その特性を活かし着生ランの支柱や観葉植物、ランの鉢などとして利用されている。同時代にダニやムカデなどの消費者も出現。
 ** カナダ東部沿岸の約4億年前の地層から発見された(約150年前)、全長8mにも達するプロトタクスアイティーズと呼ばれる正体不明の細長い生物の化石が、石炭紀に入る前(約3.5億年前)に絶滅した巨大なキノコの仲間だったことが米シカゴ大などの研究でわかった。同様なものが世界各地で複数発見されている(当時は巨大キノコが植物遺体を食べ尽くしていた?)。同時期、消費者の昆虫やミミズも出現。
 *** 巨大キノコの絶滅後で分解者が少なかった?。植物遺体が石炭として大量に残った理由の一つかも?。

あたりまえに使えるってスゴイね。

昨日は、水のトラブルに続き電気のトラブル。

 

知り合いの工場で機械を触るとビリビリするというので調べに行ってきました。

 


野菜の洗浄機の配線が劣化していたので、とりあえず配線を交換しました。

 

水を使っているところは感電事故が起こりやすいので、

 

接地線の接続、充電部の養生など気をつけましょう。

 

 

水や電気が当たり前に使えることの有り難さが、

 

身にしみてわかりました。

 

 

今日は、水道の漏れていた箇所も見つかり

 

久々にゆっくり眠れそうだよ。

 

 
 
 
 
 
 
 
 

人は生きた物しか食べられない

 植物は多少の例外はありますが、根を大地にしっかりと張り、水と共に無機化された養分(N,P,K,他のミネラル等)を吸収、葉で光合成を行い栄養としていると言われています。


しかし、根の周囲には多種多様な微生物が根から分泌、剥落する糖類、有機酸、酵素、アミノ酸、ビタミン類などを求め集まり、微生物群はアミノ酸、核酸、有機酸、ビタミン、ホルモン、抗菌物質などを分泌したり、不容体のリンの可溶化、大気中の窒素固定などをしています。


根(植物)と微生物は共生関係を保ちながら、根のない土とは全く違う根圏を形成していて、一つの生き物のように振る舞います。

 

炭素循環農法の土には無機態窒素は僅か(吸収量の数十分の一)しかありません。

 

植物は無機養分でも育ちますが自然界では、根圏で低分子化された有機成分の利用が主と考えられます。


しかし動物の場合、その肉体の成長維持には、植物と違い生きた(ていた)ものしか食物とする事はできません

 

植物が無機・有機成分と光から、生命活動の結果、作り出したものしか食べられないのです。

 

たとえ肉でもキノコ、酵母等(菌類)でも元はといえば植物に依存しています。


植物が一旦、生かした物を更に高度な生き物に菌類や動物が変換します。

 

表現を変えれば“いのち”の表現の役割分担です。


生物界は大別して、植物と動物の二つから成り立つ(二界説 Linnaeus)といわれていますが、もう一つ菌類を加え三界(菌類以下を更に分け、5あるいは6界)で成り立っているという考え方もあります。

 

最新の分類法は分子系統学的分類です。


5界説 Whittaker(6界説 Woese)分類: モネラ界(細菌界、古細菌界)、原生生物(プロチスタ)界、菌界、植物界、動物界。

 
 

今年も、おかあさんコーラスフェスティバルに行ってきたよ。

昨年に続き、今年も「おかあさんコーラスフェスティバル」に行ってきました。
 
いろんな歌声が聴けて楽しかったです。
 
 
 
そういえば、昨年も断水していました。
 
今日も貯水タンクの中が空になりかけてました(・・;)
 
どこかで漏水している可能性もあるので、
 
明日は調査の予定です。
 
 
 
今日も久々の夫婦水入らずでしたが、もっと水は欲しいよ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

植物と動物の栄養摂取の違い

 ここで大切なことがあります。

 

それは植物と動物の養分の取り方の違いです。

 

植物は「吸収」です。

根からの分泌物(有機酸)や根圏微生物の働きにより溶解・分解され無機化した養分や、低分子化された有機成分(アミノ酸、核酸類など)を(条件次第では主に茎葉から)吸収・利用しています。

ところが動物は「食べる」です。

植物由来の食物(有機物)を先ず、咀嚼し消化液等によりドロドロにし、これを腸内微生物(ヒトは微生物との超有機体)が食べて、更に分解。

 

そして腸内の絨毛組織の上皮細胞が食物を自身の体内に取り込み(食べ)赤血球という単細胞(生物)に作り替え毛細血管に送り込んでいるというのが腸造血説


人間は歩く「超有機体」(ジェレミー・ニコルソン): 我々の体内に存在する細胞のかなりの部分は、菌類、細菌類、ウイルスなどの「よそ者」であり、ヒトの細胞でさえない。これらと、ヒト細胞とが高度に絡み合った超有機的な存在がヒトと言える。細菌だけに限っても人体細胞の60兆を凌ぎ、細胞数合計=100兆(500種)超。遺伝子でも数の上で、よそ者の方が多いのである。
ニコルソン教授は、ヒトゲノムの解読完了は、わずかな情報にすぎない。「体内微生物と人体の相互作用を理解すれば、ヒトに関する生物学や医学がヒトゲノムの領域を超えて発展することになり、遺伝子と環境との新種の相互作用の解明にも役立つ。こうした知見が得られれば、やがては病気の治療についても、新たな手法がとられるようになるだろう」と述べている。

 


表現を変えると、食物が腸内細胞に変化し、その細胞(赤血球母細胞)内で赤血球が生まれているというのです。

 

この説は事象の捉え方が違うため、主流の科学的な立場から見れば異端ですが食物の循環から考えて捉え方は正しいでしょう。

腸内造血説が正しいかは別として、植物のように単なる吸収ではなく、食べることによる再組み立てです。

 

動物は無機物の吸収という作業行程を微生物や植物に任せ、植物により「生かされた」もの(有機物)を、大地に直結している腸内(絨毛組織)で食べ、別の生命体(赤血球)に作り替え、より高度な生命体へと進化させているわけです。

「月のしずく」で「月のしずく」をうたったよ。

ようやく寒さの峠も越して、
 
安心したのもつかの間、
 
地区の水道が断水の一歩手前に!
 
風呂掃除の時、水の出が悪かったので貯水タンクを見に行ったら水位が下がっていました。
 
くみ上げのポンプは回っていても水がチョロチョロ。
 
水源が減っているのかもしれません( ̄ー ̄;
 
とりあえず、応急処置をして様子を見ることに。
 
 
ということで、我が家は節水のため隣町の温泉「月のしずく」に行きました。
 
SGE岩石を利用したサウナが利きそうでした。
 
 
以前購入した、回数券も使えてよかったよ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

起源

 人の食物を作るためには先ず、食べる側の事を知らなければなりません。

 

人体は約60兆個の細胞から成り立っていると言われます。


原初の地球で30数億年前発生した生命体(他説あり)は単純なウィルスや単細胞体で、それらが感染(合体)を繰り返し現在みるような多様な生物群ができ上がったといわれています(ウィルス共生説)。


心は別として、我々の肉体は早い話がウィルス(DNA)を集めてできた微生物(細菌)を基本的な部品とし高度な機能を獲得した生命体といえます。


そして受精から誕生までの間に、卵子と精子いう単細胞生物から生物の進化の過程を一通り経て完成品のヒトとして生まれて来ます。

 

しかし外見は変わっても根源的には単細胞微生物と何ら変わりがないという事を忘れてはいけません。

なんとか帰ってきたよ。

大雪で一時はどうなるかと思いましたが、

 
なんとか帰ってくることが出来ました。
 
 
JRさん、すごい!
 
 
ちょっと足を伸ばしたところに、
 
 
世界ジオパークの「山陰海岸ジオパーク」もありました。



今度は、ゆっくり行ってみようかな。




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

精神論は逆走の元(拘り障害)

 

 自然の有り様(ありよう)を基準にするのが自然農法です。

 

しかし、その自然自体が物理空間という鏡に、映し出された虚像。

 

実像=“実体”は見えない世界(意識世界)に存在します。


啓示の発信元でもあり、岡田茂吉や島本覚也が理念・原理や技術を授かることができたのも、“もと”が「在る」からに他なりません。この関係が混乱を招いています。


“実体”: 全て(物質、非物質に限らず)を構成している“もの”。その“もの(光の珠)”を誰でも“みる”ことができる。見え方は次第に変化し最終的に、王冠のチャクラ(サハスラーラ)と呼ばれる“光の輪”となる。

 


実際面で、このようなことは知らなくても特に支障ありません。

 

ただ「認識できないことは存在しない」と否定したら「おわり」。

 

囚われるのは否定するより更に困りもの。

 

  1. 人(表面意識) → 事象・・・[慣行農法]。
    人の考えを基準に事象を捉え、人の都合に合わせて対抗策をとる。
  2. 人(表面意識) ← 事象・・・[自然農法]。
    事象をあるがままに受け入れ、起因や因果関係を基に「生き物を生かしている仕組み」を円滑化するための対応策を講ずる。
  3. 人(表面意識) ← 事象 ← 意識世界(実在世界)・・・[精神農法?]。
    代表的なものがシュタイナーのバイオダイナミック農法。
    意識世界=言葉のない世界(未来、潜在意識もこの世界に属す)との関わりは、表現が多様・複雑・難解化する。
事象 ← 意識世界(実在世界): 同じ種を同じように蒔いても常に発芽率が良い者がいる「種が蒔き手を選ぶ?」「種に好かれている?」などという現象が昔から知られている。無条件で動物が「言うことを聞く、好かれる」なども同じ。
言葉: 物質に限らず科学、文学・芸術や言語、文化なども、言葉(虚像)の世界に属している。言葉を超えたところ(実像の世界)の“ことば”の応用がバイオダイナミック農法の調合材。

 

「自然という二文字を頭に冠したものは実体の存在に気付いたとき、本当の理解が始まった」と言ってよいとは思います。

 

しかし、誰でも見える世界と、“みえる”(分かる)者だけに、“みえる”世界を、ごちゃ混ぜに語るのは危険

 

農法としては 2. で十分。3. は分かる者だけのものと言ってよいでしょう。 

 

自然の仕組みに沿う → 省力・省エネ・省資源 → 環境負荷軽減(浄化・保全) → 生産性向上 → 生活の向上(質、量とも) → 精神的向上・満足 → 自然に感謝。

 

これが自然の摂理に従うということ。従った結果現れる一連の現象。しかし、

 

自然に感謝しろ → 我慢し精神的向上をはかれ → スローライフ・スローフードに徹しろ → 低生産に甘んじなければならない → 自然を大切にしろ → 資源の無駄遣いをやめろ → 自然の仕組みを壊すな。
 
というのが一般的。でも、これ逆走なんです。
 
いたるところで見られる因果取り違え現象。
 
結果(事象)を「自然と調和し生きる方法」なのだと思い違している典型例です。

精神論による混乱は、無意識の内に“実体”の存在に、気付いたゆえの歓迎すべき現象?。
 
でも意識世界の知識を、無理矢理こちらの世界の言葉に変換したものを、“みえない”者が安易に使うのは考えものです。天動説に嵌ります。

この世は、あくまでも物質世界。
 
農業は「生きている」「物」を扱う仕事。
 
精神面の偏重は意識の硬直化(精神世界病?)を招き、実際の栽培・技術面にも障害となって表れます。
 
拘り障害=自然農法症候群」とでも呼べば良いのでしょうか(笑)。
 
施肥障害並みの重大な障害で、施肥農法と同様な結果をもたらします。

雪がたくさん積もっているよ。

久しぶりの新幹線。

 

最近の新幹線は、座席の下にコンセントがあるのですね(ノ゚ο゚)ノ

 

 

姫路で乗り換えて、しばらくすると冬景色。

 

こんなに降って大丈夫なのかと思っていたら、

 

大雪のため途中で電車が遅延!

 

 

 

なんとか無事にたどり着きましたが、

 

しばらく雪の予報。

 

さて、どうなるのでしょう(^^)

 





















炭素循環農法HPより

 

指導者はいない(新しい者が先生)

 

 土や作物は「作る」ものではなく「できる」もの。

 

バランスは「取る」ものではなく「取れる」もの、自然の側が決めます。

 

ですから、人ではなく相手(自然=仕組み=法則性)が指導者(基準)です。

 

土、作物、虫、微生物などや、自然農法を知らない者、新しい者(後輩)、より若い者が実際に教えてくれる先生となります。


基点(視点)の逆転により当然、上下関係も逆転。

 

「自分は誰の言うことも聞かない。誰からも教わらない」これが本物(自然農法の本質を理解した者)の言葉です。


だからといって、別段難しいことではなく実践すれば、伝えさえすれば、“あちら”(自然=下位者)から教えてもらえる仕組みになっています。

 

もちろん、“あちら”が代価を求めることはありません。

 

伝えるのも当然、無償でなければなりません(必要経費を除く)。


自然農法の先輩(実践者など)から教わることは何もありません。

 

先に知った者は、それを伝えるだけで何一つ教えることができないのです。

 

自然農法の創始者(岡田茂吉)は、自然農法に指導者は「要らない」と言いましたが、正確には「できない」。指導しては「いけない」です。


先輩からも貰えますが、それは「問い」。

 

これも逆転し、何らかの「答え」を出すと、後からその「問い」が出てきます。

 

人が指導しようとした途端、自然農法ではなくなります。

 

人から教わろうとしたその瞬間、学ぶことを放棄したのです。

 

視点=基点=教えが、自然の側(天)ではなく、人(地)=己の側(既成概念)になってしまうからです。


故に、先導者=出題者(煽動者?^^;)はいても、指導者はいません。師弟関係も存在しません。

 

あるのは無条件で子を育む、親子のような関係でしょうか。

 

これも本物を見分ける重要なポイントです。


指導者がいたら“おかしい”と断定して構いません。

 

巷の自然農法の指導者然とした者の教えや、そのグループが似非自然農法になってしまうのも、自然農法自体が未だに、あまり知られていないのも同じ理由でしょう。


人(先輩)の言葉ではない、自然農法の実践現場や生産物からは、直接教わることができます。

 

栽培・飼育記録などの“生の”データは生き物の“ことば”。

 

たとえ他人のデータでも貴重な自然の教えです。

 

ただし人知・感情を捨て、あら探し、疑う姿勢を忘れないように。


言うまでもありませんが作物に対する基礎的な知識(性質や生理作用、応用技術など)は、一般的農法と同じように、先輩や書籍その道の指導者などから教わることができます。

 

また単に、理論面だけなら既成概念同様、教えることも教えられることも可能です(このhpのように)。

 

今年いちばんの寒さだよ。

寒い日が続いています。

 

こんな寒い日は家で引きこもりたいところです。

 

 

やることはわかっているけど、

 

一人作業だとついつい先送りに。

 

 

今朝ハッピーの散歩をしていると、

 

水仙の花が咲いていました。

 

 

家の前の花壇?で繁殖していたのを

 

道端に移植した水仙でしたが、

 

花が咲きました。

 

 

 

少しづつが積もれば大きな変化を起こすと期待して

 

今日も畑に行ってきます。

 

 

 

ちぃちゃんが研修で留守にしているので、

 

ちょっと寂しそうなハッピーだよ。



 

静岡で見た富士山。

 














炭素循環農法HPより
 

神様の意地悪(誰がやっても自然農)

 

 元大本教信者であった、岡田茂吉は天(神)の啓示により「自然農法」の理念と原理を知ったと述べています。

 

島本覚也は、出口王仁三郎(二代目大本教教祖)の指示で酵素を研究、後に高炭素資材を微生物の餌に最大限活用する「微生物農法」を創始します。

 

やはり、彼も天の啓示と語っています。つまり自然の代弁者です。

 

ところが面白いことに、両者とも農業者ではありません。

 


前者は自然農法の「理念と原理」。後者(自然農法とは無関係と思われているようだが)は、その「技術」を天から授かりました。

 

そのためか、一方は技術が伴わず宗教的に、もう一方は、高い生産性を誇りますが「肥」の概念から抜けきることができていません。


天が二人に分けて授けたため、少々ややこしいことに。

 

それを更にややこしくしたのが、何も授からなかった?福岡正信です。

 

自身の体験と思考から、農を哲学(自然農)にまで押し上げて(追いやって ^^ )しまいました。

 

泥(哲学)団子は条件(各人)次第で出る芽が違います(解釈の自由度が高い)。

 

その分、精神的な満足感も得られやすく一般受けします。前二者とは対照的で自分自身が農業者です。

 

しかし、原理や技術など実効・実利面では、何も見るべきものはなく「自然農法=猿真似」と人々に信じ込ませた張本人。

 

でも、自然農法の名を世に知ら示した啓蒙者としては最大の功労者(現在では教祖的存在)です。彼なくして自然農法の歴史は語れません。

 

哲学(あくまでも私的定義 ^^; ):
人(地)中心の典型的な天動説思考体系。自然農法とは相容れない自然から最も遠いもの。明らかな答えなど出してはいけない奥ゆかしい学問。自然農法は小学生の算数並、哲学など無用の長物。
福岡正信:
曰く、「この世の歓びも幸せも、すべての物も人間が探求する方向にはなく、もとの道、自然の中に完備していたのであり、人間の希求する健全な肉体、自由な心、豊かな物など一切は人間の手中に自ずから存在していたのである。それに気づかず、人智に驕って、自然のふところから逸脱したときからすべてを見失い、それらの幻影を求めて狂奔するようになったにすぎない」。曰く、「自然は解らない」。


 

日本ではこの三師が自然農法の代表的な先駆者でしょう(それぞれ原理、技術、広報担当)。

 

それ以前に、ルドルフ・シュタイナーがバイオダイナミック農法を説き「基点と捉え方」を示しています。

 

彼もまた、農業者ではありません(霊能者=心の世界をカンニングしている違反者であり、神秘思想家・人智学の創始者)。


しかし、これらのことは“アヒル殺し”の農法の実際を先に知り、関係ありそうだと後から調べている内に分かってきたこと(“アヒル殺し”はシュタイナーや島本覚也、福岡正信の存在すら知らない)。


偉大な先駆者達が部分的に得たものを、プロの農業者としての日々の生産活動を通し、一まとめに得たのが炭素循環農法だと言えます。

 

そのため、巷の自然農法(人の頭が作り出したバラバラの既成概念)とは全く関係ありません。

 

でも、分かってみれば何のことはない、真の自然農法以外の何ものでもなかったのです。


神様が一人に全てを授けなかった理由が、何となく分かるような気がします。

 

入り口はどこからでも構いません。

 

誰でも、普段の生活・営農活動の中から、当たり前のことに気付く。ただ、それだけでよいのです。


実際には何も知らずに、自然農法の原理に則り営農している者は、かなりの数になるものと思われます。

 

その証拠の一例を上げれば通常の施肥栽培では、絶対に得られない低硝酸の農産物(原理を知って言えること)が、普通の市場に入荷されているという事実です。

 

自然農法は、ことさら特別なものではありません。

 

 

こんぴらさんのしめ縄をつくったよ。

昨日は、地区のこんぴらさま。

 

今年も、しめ縄を作りました。

 

昨年一昨年よりうまく出来たかな?

 

 

しばらくなかったのですが、今晩は久しぶり断水しました。

 

これからしばらく寒い日が続くので凍結に注意だよ。

 







 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

炭素循環農法HPより

 

引かれるものは何もない(儲からなければ自然農法ではない)

 自然農法では、微生物の力を借り積極的に引き算をします。

 

しかし、システムに逆らったり、余計なものを加えたりしない限り、自然は足しこそすれ引くことはありません。

 

自然は生かすためのシステムなのですから。


生命現象では、物が低濃度側(生息環境)から高濃度側(生物)へという流れ方(摂食・吸収・固定など)をします(収斂作用)。

 

土壌微生物や植物の生息・生育環境中の養分濃度の方が低くて当たり前。自然なのです。


無施肥で、微生物のエネルギー源として炭素資材を多少使っても、投入窒素量は作物の窒素吸収量の10%前後でしかありません。


ところが、高→低という物(死物)の流れしか見ない慣行的殺し農法では、循環・収斂作用(高→低の流れ)は考えません。

 

作物の窒素吸収量より土壌環境中の方を高くし、吸収量の130%前後(平均的施肥量)にもなっています。

 

硝酸(窒素)による環境汚染から、これを100%にまで減らそうとの指導が行われてはいますが・・・。


その結果、高硝酸塩・腐敗風味農産物、環境汚染・破壊など、何らかの犠牲(マイナス要素)を強いられます。

 

要するに、生物の生存に必要なもの、簡潔に言えば命との引き替えです。

 

殺しの代償として命をもって償っているわけです。

 

100%に減らしたからといって、余計な物を足していることには変わりなく、やはり引かれます。


環境汚染・破壊は論外としても、従来の全ての農法と比較して生産性を犠牲にしたり、経費・労力を余計に要したり、防除が必要(虫や菌による処分の対象)であれば引かれている証拠です。


宇宙(自然界)を構成する個々のものが、全体としては常にプラス方向に進化発展してきたことをみれば明らかなように、生物界全体(その社会も含め)の生産性収支は、自然の理に沿う限りプラスになるようにできています。

 

もし、マイナスになるようであれば、何処かに矛盾(反自然)があり一見、自然に見えても再検討が必要です。


早い話が儲からなければ自然農法ではない

 

真の有機農法は楽して儲かるもの、一般で有機農法と呼ばれ、各国政府が奨励しているのは“まがいもの”です。

 

新海三社神社と龍岡城に行ったよ。

長野では、野辺山以外にも初めての場所をぶらり。

 

新海三社神社は、佐久市田口にあり周りを木に囲まれた神社。

 

東本社、中本社、西本社と三つの神殿があるので

 

新海三社神社と呼ばれているそうです。

 

三重塔もあり神秘的な場所。

 

映画「君の名は。」のモデルという噂も。

 

 












そして、近くにある龍岡城

 

日本にある五稜郭の一つ(もう一つは函館)。

 

今は、城ではなく小学校が建っています。

 

寒さでお堀の水が凍っていました。









今日は大分も寒かったけど、ぶどうの剪定をはじめたよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

炭素循環農法HPより

 

 

自然農法は引き算

 肥効成分を何らかのかたちで土に加える「足し算農法」が慣行的・施肥農法。

 

反対に汚染源である肥効成分を引くのが自然農法です。


「引き算農法」は誰しもが日常経験し、よく知っている自然現象の応用。

 

物は濃い方から薄い方へ(生命現象は逆)、高い方から低い方へ流れるという原理ゆえに、生育環境は引き算でなければならないのです。


あくまでも原理の応用であり、清貧に甘んじようとする過去の精神的?自然農法(断食農法)と混同してはいけません。

 

積極的に養分的・真空状態を作り吸引するのです。


施肥農法のように人が足せば自然が引きます。

 

引かれれば更に足すことになり、生産性を上げようと足し過ぎるから溢れ出すのです。

 

そして結果的には、施肥や防除に伴う環境汚染や自然破壊などの現象として引かれるため、真の生産性も落ちます。


虫の餌をいくら穫ってみても、所詮それは虫の餌。

 

人の食物を得たことにはなりません。

 

逆に人が引けば自然が足します。

 

引けば引くほど、自然は足してきますから生産性は上がります。



要は、生き物的には密、物的には空(から)の状態をどのように作るかです。

 

引き算農法と言えども、何らかのかたちで資材(最低限でも雑草や作物の根部などの有機物)が入ります。

 

これは、引くために必要なエネルギーであり、足しているのではありません。


高炭素資材は微生物を養い、遊離窒素や燐を固定。

 

それらを土から引きます。

 

米糠や木酢液(微生物の微量養分)、ミネラル類などは、その微生物を活性化するためのものです。


微生物相そのものが貧弱(腐敗菌優勢)であれば微生物資材なども必要で、EM菌はドブ掃除専門。

 

引くものは腐敗生成物です(それ以外には役に立たない)。

 

エネルギー源以外は目的を果たせば、それ以上使用する意味はありません。


また、必要なものであっても何を引くためなのか明確にせず、むやみに使ってはなりません。

 

当然のことながら、使い方や時期、量は、足し算農法と違います。

 

糠・粕類などの肥効を発現しやすい物は特に要注意

 

調味料程度の使い方で十分です。

 

同じ資材でも量やタイミング次第で、足し算となりマイナスの結果が現れます。