本郷和人「信長 - ”歴史的人間”とは何か」(2019) | 北条得宗家の鎌倉めぐり

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養老孟司教授の著書に書かれている医療や歴史の他に鎌倉散策の様子などを中心に紹介

 

これは伝記ではない。織田信長という人を誰でも知っているようで、歴史的には誰も知らない。だからか、特にベンチャー企業の社長が織田信長を好きと言ってしまう単純な行為や行動に至る。誰も歴史的に織田信長を知っているようで、実は誰も知らない。

 

 

一言でいうと織田信長は戦国時代を終わらせた人。何をした人?と問われれば、そういうことになる。しかし一方で、どんな人?と問われれば、サイコパスだと言わざるを得ない。残酷な性格は有名で、家臣が「殿!ここはこうではないでしょうか?」などと意見を言おうものなら激高して足蹴り。織田信長の通り道に石を置いたら、その場で斬り捨て。気に入らない女中をなぶり殺し。

 

 

しかも延暦寺焼き討ち事件はどんなものかって、知らない人があまりに多い。当然ながら、織田信長に歯向かった延暦寺を焼くのは当然だけど、火災になれば女子供や僧侶が逃げ惑う。そこを家臣に命令しておよそ4千人もの民衆を虐殺。他に一揆などが起きると延暦寺とは別に1万人ぐらいの民衆をこれまた虐殺。先述のベンチャー企業社長は人殺しが得意な殿に憧れているのだろう。

 

 

私的にも日本のブラック企業のパワハラに似てなくもないと思っている。またそういう性格の日本人は戦後、多発している。正義感よりも事なかれ主義の悪い面が蔓延してしまっている。本郷和人教授が、イエ制度が嫌いだと述べたのは意外だと思ったが、生年月日的にはあり得る。以前は私に「天皇が嫌いなのは若い人だからだ」とおかしなことを述べた人がいたけど、歴史も知らないし、そもそも相手の立場を考えていない。天皇が嫌いなのは今に始まったことではなく、織田信長もそうだし、団塊世代もそう。

 

 

つまり織田信長は「ひとつにする」という思想だった。中国文化を熱心に研究していた織田信長は天下を取るべく模索していた。

 

 

要するに戦後の現代人とあまり変わらないということだ。ここから日本が徐々に都市化していく。脳の極端化でイジメがやめられない中毒性のある思考回路なのと同じように、他者から見れば、いい加減にしろ!と言いたくなるのが戦国時代らしいところ。見かねた武田信玄が手紙を出すと、第六天魔王と自称して返すフザケぶり。戦国時代の武士道は感じられない。心も魂もない人物であるため、堕天使ルシファーもまたビックリ仰天の大魔王ぶり。そういった悪い面もあれば、都市化という一面も持っている。のちに豊臣秀吉が同じ路線を引き継いで天下布武と同時に約束を果たすことになるのだが、平和路線が織田信長を欲したのである。

 

 

織田信長が勝手に世の中を作ったのではなく、世間が織田信長を欲したということになる。それはやはり、戦国時代を一刻も早く終わらせたかったからだろう。ところが、先述のように家臣を人間とは思わず道具扱いで、明智光秀のように恨まれる面もある。

 

 

荘園とは公的支配を受けない一定規模の私的所有地であるが、それを推し進めたのも織田信長である。ベンチャー企業の社長が好きそうな賭けに出て、吉と出るか、凶と出るか、といったところ。しかし、今現在の我々が家を購入して、土地も家も自分のものだと言えるのは、織田信長のおかげなのである。公地公民を反対した人物でもある。つまり、それは天皇を否定したことになる。

 

 

私も本郷和人教授と同じく、織田信長が好きと言っているわけではなく、むしろ苦手な方なのだが、そういう好き嫌いではなく、なぜ鎌倉幕府が成立したか?というところから歴史の冒険が始まり、平安時代で平家の行き過ぎた傲慢政治を修正すべく鎌倉幕府は成立したのであり、京都を中心とした西日本とは別に、鎌倉を中心とした東日本の国家を作ろうというのが武家政権の始まりだったわけで、日本はもともと一つではないところからスタートしなければ、織田信長のことはよく分からない。そこから再び修正を図ろうと模索し続けたのが織田信長なのだ。私的に鎌倉・北条氏に室町・足利氏の方が好きというのは、今現在が行き過ぎた都市化であることは言うまでもない。方丈記みたく、緑や紅葉が映える森や、川のせせらぎや、昆虫や小動物の鳴き声などが好き。

 

 

そういうの嫌いって人いないでしょ。なぜ中高年のオッサンがイライラしているかったら、都市化で人がくっつき過ぎなのだ。ヨーロッパに行けば、日本の過疎地が普通だったりする。日本はもともと都市の国ではない。山が多いから都市に向いてないのだ。

 

 

とはいえ人間の脳の影響からか、いずれは都市化するんだけど限度ってものがある。その織田信長の登場から徳川家康率いる江戸幕府までも、やっぱり都市。あれは鎌倉幕府や室町幕府などとは、同じ幕府でも意味合いが違う。織田信長とはそういう人で、武士がサラリーマン化していくのも、やっぱり織田信長。トップダウン型なのだろう。地方の藩に行って来い!と言われれば素直にヘヘーッ!と返事して行かざるを得ない。今現在の出張と同じ。また現在の岐阜県や滋賀県にあたる場所を開拓して、京都の地下水が限界を迎えた頃に、見事に生きる知恵を民衆に与えた面もある。今現在みたく、いちいち地下を掘って水があとどのぐらい持つか?なんて考察しなくても、だいたい感覚で分かる。当時は数学の知識がないので、感覚で分からなければ、生きていけない。

 

 

長篠の戦いにおいては、初めて鉄砲を使った戦でもあることで知られ、本当か噓かは別として、織田信長の他、織田信忠、織田信雄、柴田勝家、丹羽長秀、豊臣秀吉、明智光秀、前田利家、らは私でも何となく知っている。意外に家臣が多いのも特徴なのだ。

 

 

徳川家康の他、松平信康、松平信一、松平定勝、本多忠勝、本田重次、本多正重、酒井忠次、酒井家次、松平清宗、松平康親、本多康重、などなど江戸幕府でも活躍する大名が目白押し。このように連合軍を率いたのも織田信長だからこそ出来たのであろう。

 

 

せっかくだから武田勝頼の他、武田信廉、真田信綱、真田昌幸、などとコチラはやはり我々、素人でも知っている大名は少ない。

 

 

この長篠の戦いによって戦国時代が終焉を迎えた。つまり織田信長が戦国時代を終わらせた。徳川家康は平和主義者だから、恐らく、ついて行ったのだろう。この戦いさえ終われば平和になると最初から踏んでいた。のちに安土城を築くのは、ご存知の通りだが、この終盤戦によって織田信長の名前が日本中に轟くというのは意外と知られていない。実は織田信長は当時、最初から有名人だったわけではなく、有名人になるべくしてなったものの、その存在が全国の大名に知られるのは、岐阜城から安土城に拠点を鞍替えするか否か、ぐらいの時であり、また民衆に知られるのは戦なのだ。結果的に平和をもたらした人物として英雄という間違った印象が植え付けられることになった。明治維新より前にすでに都市化を達成することになる織田信長。二重人格の第六天魔王。

 

【ニューソース】

株式会社トランスビュー 公式サイト

織田信長の安土城址と摠見寺 公式サイト

天台宗総本山・比叡山延暦寺 公式サイト