細川護熙という人を知らない、という人は、ほとんどいないのではないだろうか。私は、もちろん首相当時を覚えていない。かつて日本新党を率いて、自民党による55年体制を終わらせた。熊本藩主の家系に生まれ、上智大学を卒業し朝日新聞に入社。その後、政治家に転身する。
肥後細川家は、清和源氏足利氏の支流である。初代・熊本藩主は、細川忠興。妻は、明智光秀の娘である玉子、つまり細川ガラシャである。
細川護熙の母親は、近衛文麿の次女・温子である。近衛家とは、藤原五摂家のひとつ。そして近衛文麿は、近衛家の第30代当主であり、後陽成天皇の第12代世子孫にあたる。ちなみに公家で近衛家第四世子孫に近衛家熙という人物が存在するが…ここから一字取ったのだろう。
日本新党は「新自由主義・保守主義・政治改革」を掲げた右翼思想の政党であったが、結局は、反自民として、のちに小沢一郎が起ち上げた新進党に合流する。90年代の国政は離散集合を繰り返すなど、茶番劇が繰り広げられていたためか、政党が増えすぎたために、国民からすると理解できないよね!ってことで、文字通り一つに纏まり、当時としては、日本社会党を超える議員数を抱えた大所帯になったものの、見事に破滅した。破滅したというより、ご存知、小沢一郎という人物が「政界の壊し屋」として名を馳せているだけなのだが、だから、いかんのだよ。
2014年には、小泉純一郎・元首相の応援のもと、東京都知事選にも出馬した。私は「は?」と思ったが、のちに振り返れば、恐らくキッカケは、2011年に端を発した東日本大震災の影響で、環境問題に本当の意味で気づいたのだろう。余裕が出ると、悪い言い方をすれば、ヒマができると、気づくようになる。だから、かねてより、哲学はヒマな学問だと言われてきた。政治なんて、本当は茶番劇に過ぎない。実際には、政治家に問うても、例えば「”自民党”と”さきがけ”と、どう違うんですか?」と聞けば…返ってきた答えは「私もよく分かりません…」だったらしいのだ。
私の母方の親戚が、政治家をやっていた時に、まさにそんな感じだった。私が今現在「オジサン、あの時は、どうだったんですか?」と問うたとしても、返ってくる答えは、決まって一緒。つまり、右翼も左翼も、離散集合を繰り返しただけ。この時から「自分のことしか考えていない」連中の宝庫だったようだ。細川護熙が政界を引退し、ヒマができたことで、もう一度、振り返ることが出来たのだろう。時に人は、年齢が上だと経験は尊い、というが、あながち、そうでもないようだ。60歳までなら、ただ単に忙しいだけ。大手町あたりでも、黒い鞄を持った時間泥棒が現れる毎日なら、時間に追われてばかりで、世間とは何だ?なんて、考えているヒマは恐らくない。陶芸や水墨画は、無心になれるから良いのだな。
東京都新宿区や愛知県名古屋市で、見たことある人も。ホラ、やっぱりバラバラじゃないか。それはともかく、本当は、遊びが政治で、世間が実体であったということ、細川護熙の年齢になれば、分かるかもね。70歳を過ぎて、80歳を過ぎる。とはいえ、養老孟司教授と同学年だったからこそ、そういう考えに至ったのかもしれないが、元から知らなかったわけでも、あるまい。だから、湯河原で隠居生活をしているのだと思うな。
真面目な遊びでも、趣味が高じれば、仕事となる。茶碗ひとつ20万円ほど。壺は、10万円ほどから。生き生きした書と、本格派の陶芸なのだ。
欲無ければ一切足り
求むるあれば萬事窮す
(良寛)
政をなすの著眼は情の一字にあり
(佐藤一斎)
聖書やプラトン、道元、良寛、白洲正子、自らの小学校教師の言葉など全50本。細川護熙いわく「若いときから本を読んで気に入った章句があると、できるだけメモを取るようにしていた。何度も何度もその章句を読んで心の襞に焼き付けておくことによって、何か問題にぶつかったときに、ハッと悟って、その語録が行動指針となる」そうだ。ただ単に章句の紹介に留まらず、自身の経験、政治家時代の体験、細川家に伝わる貴重な史料に残るエピソードなどを交えたエッセイである。実際には、この方が現実的だと思う。都市では、こうするべきというアドバイスだ。
【ニューソース】