養老孟司・内田樹「逆立ち日本論」(2007) | 養老孟司と鎌倉

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養老孟司教授の著書にある医療や歴史の他に鎌倉散策の様子などを中心に紹介

 

忙しくて、まだ読んでいなかった養老孟司シリーズ第3弾。ペルーのフジモリ大統領は日本人か否か。実は、日本に戸籍があって、滞在もしたことがあるらしい。しかし、日本には現在、住んでいない。コレ非常に難しい問題なのだが、簡単な問題でもある。どっちでもいい。おしまいだ。

 

 

いったんユダヤ人に話が飛ぶ。実は、どっちでもいい、という概念は、どうやら日本人だけではないらしい。ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』という有名な本がある。名著として知られている。ユダヤ人であるフランクルもナチス・ドイツに収容所へ連れて行かれた。その時の様子だが、とてもリアルに描かれている。100人ものユダヤ人が、そのガス室に送り込まれる。フランクルは101人目だったから…実は助かったのだ。

 

 

なぜフランクルは助かったのか。それは収容所の所長が、良い人だったからに、他ならないのだが、それをいちいち自ら述べることはない。なぜなら、こういうことはタブーになっている。事実として、のちに日本のテレビ番組でインタビューしていたことがあったとか。いくらナチス・ドイツが悪いと知っていて、質問しようにも、フランクルは絶対に答えなかった。日本的に言えば「空気読めよ!」ということだ。ユダヤとは、一体…。

 

 

ユダヤ人と一言でいっても、誰のことか分からない。つまり、民族でも、人種でも、宗教でも、何でもない。これがユダヤ人だという、顔を持っているわけでもない。つまり、彼らは、神に選ばれた人たちなのだという。君はユダヤ人ね。だから、ユダヤ人だというのだ。神に名指しされた存在なのである。こういう感覚は何となく、日本の世間に似ている。まず共同代があって、そこにヒトが存在する。つまりは主体性がないのだと。

 

 

旧約聖書には、ユダヤ人はエルサレムの地に帰る、とある。そして、そのエルサレムの地はパレスチナにあると書かれている。だからイスラエルを建国した。それはそれで間違いではないのだが、なぜそれをヨーロッパが許したのか。穿った見方をすれば、ユダヤ人はヨーロッパ大陸から出ていけ!ということにも、取れないか。だから彼らは、迫害されるべき存在なのだと。そして、なぜ迫害されなければいけないのかだな。

 

 

エルサレムには嘆きの壁がある。ローマ帝国が2000年前に徹底的に破壊した城壁。10階ほどのビルの高さがあるという。そんな城がかつて存在したのだ。共同体であるユダヤ人としては、ローマ帝国とりわけキリスト教徒に恨みを持ってやしないか。だから忌まわしい憎き存在だと当時のキリスト教徒は、常に感じていたようだ。何となく中国の反日運動に似ていなくもないし、その気になれば、勝つために犠牲を払うかも。

 

 

アメリカは、取り敢えず多民族国家として受け入れるので、ヨーロッパ大陸を追われたユダヤ人も、住んでいる。2007年当時で、アメリカには600万人、イスラエルには500万人、世界の中で1330万人のうち、それぞれユダヤ人が居住している。サイモン&ガーファンクルなんかは代表的だし、ハリウッド映画の8社のうち、7社はユダヤ人が創業。シャガールの絵に現れるように、視覚的ではなく、聴覚的に絵を描くため、良いのだという。視覚のモノは、ユダヤ教では一切、禁止。だから彫刻家はおらず、神という偶像崇拝もない。シュールな絵は…こうして生まれた。

 

 

ユダヤ教は、誰も神を知らない。一人の司祭が神の名を知っていて、誰もいないところで名前を呼ぶ。しかし、現在は2000年前のようには、いかないのだ。キリスト教では、救い主がイエスだと決まっているが、ユダヤ教は、救い主待ちである。従って、墓地を移動させることは、極めて困難であるし、超正統派を貫かなければ、神の声は聴こえて来ない。もともと、キリスト教とイスラム教は、ユダヤ教を母体にしており、同じ神を信じているハズである。それならば、一致させなければいけないのか、と思いきや、そうでもない。だって人それぞれ考え方いろいろだしね。

 

 

日本人も、何となく同じだったハズ。例えば、おのれ、手前ども、は、自分を指すか、相手を指すか、文脈による。今現在の人々の感覚にはない。少なくとも戦後世代の我々は「私」「自分」「私的には~」とか言いだす始末にゃ、養老孟司教授も内田樹教授も「気持ち悪い!」とか「寒いからやめて!」などと、言いたくなるようだ。気持ちは分からなくもない。2020年時点で、50代~60代前後にもなった人たち。つまり1960年代から1970年代生まれの人たちは、抽象的な概念を信じて疑わない。だからホリエモンこと堀江貴文(1972年生まれ)は逮捕された。分かるかな。

 

 

村上春樹の小説は反対に、感覚の世界へ誘う。ジャズバーを経営していた影響で、トイレのトイレットペーパーまで完全にセットしていたり、客目線で、どうやったら使いやすいかを、把握している。接客業の経験が、小説に活かされている。ページをめくると「いらっしゃいませ!」という声が聞こえるのだそう。私は、借りて読んだことがあるけど、途中で断念した。難しい。だけれども、感覚の世界観は、何となく分かるようだな。

 

 

感覚の世界を、さらに延長させたのが小泉純一郎。マスコミは変人とするだけで一刀両断した。しかし、これは中選挙区制の時に選ばれた人物であり、票田は川崎。川崎、横須賀、鎌倉、逗子、などである。まして横須賀となれば米軍基地がある。靖国神社参拝は、公に、反米アピールをしたのである。実は、自民党がエセ保守主義と言われるのは、ココにある。彼らは保守主義を演じている。そこが私も自民党嫌いの理由だったりするのだが、100円預けたら29円返ってくる東京23区、横浜市、大阪市、あたりは、冗談じゃないと言いたくなる。だから都市は革新派だった。1960年代に革新派ブームが巻き起こってからずーっとそう。なぜ秋田や島根の人を助けなきゃならんのだ。そこだけは一致している。

 

 

長野県知事だった田中康夫がダム建設を中止した時に、わざわざ恩恵を断念する奴がどこにいるんだと、怒った側近や議員がいたとか。分からなくもないけれども、その恩恵は誰のお金だよ、ってこと。こうして日本は、右か左か、しか、政治感覚がなかったから、無駄遣いが多かったのである。今現在の人々は、政治すら興味がないと思う。それでいて、若い人は、と偉そうに上から目線の中高年。いいから、選挙行けよ。

 

 

これだけ全共闘に拘るの養老孟司教授ぐらいですな。だって、医者だから、患者は見捨てられない。他の人はすっぽかしてワーワーやっている。この非常事態というけれども、全員が全員でなくても、良いのでは。結果として、あの革命運動は、何でもなかったでしょう。特に共産主義体制が確立されたわけでもない。それどころか、内田樹教授の同級生も、ウチダ勉強の邪魔するな、という高校生活から、ウチダ革命運動を邪魔するな、という大学生活を送る。なぜか彼らは、左派系を標榜していたのに、官僚など良いところへ就職してしまった。資本主義の最先端を行ってしまった。原理主義は時として、こういう危ない一面を見せる。だからこそ、マトモな感覚って重要なんですな。日本は逆さまだしねえ。

 

【ニューソース】

新潮社・新潮選書 公式サイト

戸隠観光協会公式ホームページ

長野県軽井沢町公式ホームページ