中野信子「ペルソナ -脳に潜む闇-」(2020) | 養老孟司と鎌倉(医療から歴史ネタまで)

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中野信子先生、自身初の自伝。これまでは『サイコパス』(2016)や『不倫』(2018)や『人はなぜ、他人を許せないのか』(2020)など危険なタイトルを冠した著書を次々と出版してきたために旧来の知人から「あんたって危険人物だよね!」と言われ続けてきた。これこそ脳内のシャーデンフロイデなのである。以前は他者の脳内の分析であったが、本書では自分のどうかしてしまっている脳内を分析して振り返えるというわけ。

 

世の中には他人を年齢で差別する人もいるが、本質的には変わらない。自分を変えたくないからピラミッドが出来たし、ミイラも死後、永遠に生き続けるために加工している。このように変化のないのが普通だと”思い込んで”いる。しかし、ちょっと待った!なのだ。永遠に変わらない人などいるだろうか。中野信子先生だって夢を見た瞬間から変化しているという(あくまで中野信子先生の解釈だが)。もちろん、朝起きたら昨日の自分と別になっている、というのは養老孟司教授とまったく同じ解釈だが、これが分かっていない人も少なくない。人間は常に変化する。

 

 

キメラ(複数の顔を持つ)でない人なんかこの世にいるはずがない。コイツがこういう奴とみんな決めつけるけれども、それは裏の顔かもしれない。色んな人がいるのは当たり前のことで、一人の中にも複数の顔を持っているのが当然なのだ。よくあるのは「俺もお前も天使と悪魔の両方の顔を持っている」というモノのだが、これが最も正しい。世の中に正解とか不正解とかないけれども、それが当たり前。特にインターネットは1989年に中野信子先生が思春期だった頃、産声を上げた。当時の中野信子先生は中学生。小学校入学前に僅かな間ながら茨城県に住んでいたことがあって、田畑を耕してこんがり日焼けしている農家の子供達に対し、色白であまり外に出るのが好きではない中野信子先生が「種なしの野菜ってどうやって作るの?」と問うたら、一斉にサーっと退かれてしまったことがある。また小学校でも仲間を作ってワイワイするのがあまり好きではないため、一人、図書室に閉じこもる日々を送っていた中野信子先生の通信簿に、必ず「利己的」と書かれてしまった。

 

 

そんなこんなだけに中学生だった中野信子先生は、中学時代の先生をキッカケに東大を本格的に目指すようになる。受け入れてくれる人は、必ずどこかにいる。家が貧乏ないわゆるボンビーガールなので、そこまで上位の高校に行くほどの競争力もないが、塾に行かずとも、東大に行けるギリギリ受かりそうな高校を探して受験し合格。私立の高校に行くため東京の祖父母の家から通っていたという…涙が出ますな。

 

 

私なんて誰も聞きたくないかもしれないけれども、中学・高校と私立でしたから、あまり楽しい思いではありません。サッカーだって中学で断念せざるを得なくなったし、境遇は違えど、みんな苦労は多少なりともあるわけで、まったく苦労なく平和に暮らしている人なんていないでしょう。

 

まあ、そっから東大に行くわけですね。工学部を選んだ。東大は1年・2年次は教養学部で、そこから学部を選ぶことになる。つまり東大は入ってから学部を選べる。しかし、理系なので周りは男ばかり。この時、法学部の1学年上に裏切り者・山尾志桜里(立憲民主党 → 国民民主党)とハゲ頭の大好きな豊田真由子様(自民党)が在籍していた。そして机を並べて共に過ごした成績優秀者の女子学生がもう一人いた。その女子学生は東大を卒業したのち、しばらく生活していたことは耳に入っていたが、ある日、突然、飛び込んできたのは自殺という最悪の事態。

 

 

たいてい言われるのは「あんなに明るかった人が!」である。そう、明るく振る舞っている人ほど心に闇を抱えている。ブラック上司は過去を詮索されたくないので、一方的に「お前がおかしい!」とか「お前は普通じゃない!」を連発するが、それと似たような感覚で、自分をよく見せたがる人ほど危険人物だったりするのだ。これは著書にもしっかり記載されているけれども、特にブログやSNSなどのインターネットで「友達がたくさんいまーす!」とか「仲良し家族でーっす!」とか言ってパシャパシャ写真撮ってアップする人。本当は上手くいっていないから口だけ先に出る。私は自分がただ単に思い込んでいるわけではなく、昔は「口だけ野郎とよく言ったもんだ」の言いだしっぺは養老孟司教授だしね。

 

 

※注:闇を抱えたアーティスト

 

私だって同じく心に闇を抱えたX JAPANというアーティストに惹かれた節がある。中学でサッカーは断念した。図書室に行ってみると、図書館司書の資格を持った「図書室の先生」がいて、その人が落語好きだったので、昼休みにほぼ毎日、簡易的な落語会を開催していた。落語なんて噺家が出てくる笑点ぐらいしか知らなかったクチだけど好きになった。この頃でも音楽は聴きまくっていた。ピアノを習ったことがあるし、ならば音楽は大学で未経験者でも大歓迎の好きな人だけが集まるサークルに入ろうと心に決めた。軽音楽部ではなく軽音楽サークルなのだ。

 

私は中野信子先生とは反対に頭悪いので青山学院大学だけど女子ばかりだった。データを見るとちょうど半数だが、私ぐらいの頃でも40%ぐらいはいたんじゃないかと思う。まして第二外国語でフランス語を取った暁には、周りはほぼ女子だらけだった。大学だけに、コチラから来るなオーラを出さない限りは、女はおしゃべり好き。女友達が出来た。まして青山学院大学ぐらいまでいくと差別はそれほどでもないし、そもそも他人に関心を持つと言って、悪い意味ではあまりない。だから「コレコレ、昨日買ってきたんだけど、どう?」と聞かれれば褒めざるを得ないから、ただ単に褒めていると実は本心では言っていないことに気づく。ここでアタマの悪い奴なら本気で喜ぶんだろうが、いちいち疲れるんだよ。

 

 

我が家では姉がたまに『CanCam』を買ってきて研究していたことがあった。私も同伴で姉の買い物に付いていくようになった。すると、やっぱり「アレどうかな? コレどうかな?」などと聞いてくる。もう少し、あーした方がいい、こーした方がいい、とアドバイスが上手くなってくる。目が肥えてきた。つまり女友達とも普通に会話が出来るようになった。これで「空気を読んでも従わない」ことを学んだ。学びってのは、自分が変わることなんですよ。インターネットって他人に褒められたら嬉しいでしょ? それは動いていない本人ほど気づいていない。これ、今でも活きてる。

 

私がメイクアップとかの分野でウロウロしていたら、知らない人にとっては変かもしれないね。自分的に変だとは思わないんだけれども、私ぐらいの頃だったらビジュアル系ロックバンドみたいに中性的な男子が増えて、たいていヴィジュアル系の最初のアーティストのメンバーらの生年月日を見ると「1976年生まれ」「1977年生まれ」「1978年生まれ」「1979年生まれ」前後ぐらいになっている。ぜんぜんおかしいと思わない。

 

 

私みたいに赤裸々に語った方が、実は本当で、脳がたびたびウソをつくというのは、やはり「自分はスゴイ(自信がない)!」とか「仲良し家族でーっす(優しい性格だと思われたい)!」という方が多いらしい。中野信子先生がそう言っているけど、実際、自信がないからよく見せようとするというのは心理学的によくあることでしょう。そして、そういう人たちこそ本当の危険人物だということが、インターネット上だと本性を見ようとしないから、あっこの人!となるとそこにワーッと集まる。本書にもそうあるけれども、オウム真理教の信者と同じ構造だし、またある意味で人を動かすというのも才の一つではあるが、麻原彰晃だってあれだけの人間を動かしたんだもんね。別に才能って本書では褒めていないし。

 

 

必ず物事は表裏一体で成り立っていて、同じく人間も「オモテの顔」と「ウラの顔」がある。能ではお面を「オモテ」と言うしね。そんな感じじゃないかな。能というのは恐らくだけど、オモテ(お面)を取ったら反対だから「ウラの顔(本性が暴かれる)」になるんですよ。公式アカウントでやっている人の中でも「あー今日は疲れた…」とか「子供の授業参観行かなくちゃ…」とか少しのブツブツなら、それが普通なんですよ。もちろんボロクソに吐き出した挙句、他人に八つ当たりするのは問題だけれども、上手くいかないことがあってブツブツ言うのは当たり前のことなんだし。

 

 

良くいってもダメ、悪く言ってもダメ、じゃあどうすればいいんだ?ってのは、それは自分で考えることなんでしょうが、私的に自分で考えて行動してきたから、そういう方こそむしろ変なんだよね。承認欲求を得たいために他人に同調圧力をかけて押し付けるわりに、例えば「新型コロナウィルスが蔓延した地域に行かなければならないんだけど、どうしたらいいんですか?」ってのは、自分で考えることじゃないですか。どうせコチラから状況をハッキリ見ることなんて不可能なんだから、北海道でも九州でも、どこへ行ったって感染する可能性はゼロではないわけで、いかに同居して暮らすかでしょう。だいたい「除菌アルコール」があったって口の中の1万匹の菌はなくなりませんよ。良い菌は残した方がいいに決まってるのであって、養老孟司教授のところでも散々、述べたけれども現代人は「すべて排除だ!」となるから他人と上手くいかないわけ。

 

人間嫌いだからインターネットばかりやっている。インターネットが「便利」というのは大嘘です。人間とベタベタしていたら「お前アッチ行けよ!」ってなるでしょう。くっつきまわっていたら、たいていはイヤなんです。中野信子先生が突出しているだけの話であって、脳の中で「誰かの足音がする…」と言い始めたら、中野信子先生の母親が「この子はアタマがおかしくなった」と思って病院に連れて行かれ、実際にMRIで検査してみたら脳の松果体という場所に嚢胞が出来ていた。慢性的な頭痛に悩まされ、ひどい時は耳鳴りや眩暈がすることもある。同級生に「ウロチョロしないで!」と怒鳴りつけてサーっと退かれたこともある。理解されていないと、なかなか難しい問題でしょうな。苦労が絶えない。

 

 

通称「第三の目」と呼ばれる場所なんだそうです。ここが普段は閉じている。敏感だと別の問題が関わってくる。だから昔の人は「天才とバカは紙一重」とよく言った。だいたい脳のすべてなんて理解できない。実は宇宙空間は脳のメカニズムと同じなんだそうです。パソコンは「電脳」であって、新しい知識が入ってきたら、ファイルとして保存されますよね。不要なものは消しますが、取り敢えず以前のモノを消さない限り一方的に増えてきます。するとどうなりますか? 遅くなりませんか? 実は本当に頭がいい人って鈍間(のろま)なんです。アインシュタインもそうだし、養老孟司教授も普段はボーっとっしているという記述があるし、これまた母親が知能検査に連れて行った経験から、たぶん中国語でパソコンを「電脳」と書くのは正しい。知識を本当の意味で詰め込むと、取り出すのに時間がかかるから、自分にとって都合の悪いことは忘れるように出来ている。これが忘れられないと、取り出すのに時間がかかるので起動が遅くなるか、オーバーヒートして壊れるんです。それが脳だ。

 

 

私的に方法論はあまり好きではないんだけど、唯一スッキリする真っ当な方法があるんです。これを実践するかどうかは、人によりますけど。

 

1.週に一度、敢えて苦手な分野に挑戦してみる

2.週に一度(give)することを自分に義務付ける

(ボランティア活動などで結構)

 

これだけでいいんです。相手に与えて喜ぶと、自分が損すると思っている。違うんです。人間は世間の役に立つために生きているので、他人がどうあろうと、まず自分が動けるかどうか?を先に考えなければいけない。それでも他人を動かして自慢して喜んでいるというのは、退行の現象であり、思春期の逆で、幼稚園児に戻っている、というのが現在の精神科・心療内科でもハッキリと分かっている。要するにストレートに言うと「自己愛性パーソナリティ障害」というヤツ。インターネットで自分を良く見せようとする背景には、この自己愛性パーソナリティが切っても切れない関係にあり、2010年代中盤あたりから問題視されてきた。なぜ2010年代も中盤になって?というのは…恐らくスマホのカメラ機能。

 

 

俗に言う「キレるオッサン」とか、本性を現している時って、それが本当の姿であり、大なり小なりみんな仮面をかぶって生きていて、それを上手く外せるかどうかの問題なんだよね。上手く外せる人は、ちゃんと自分の弱みを赤裸々に語り見つめ直せる。見つめ直せない人、自分が動きたくない人ほど、他人に対して上から目線で偉そうに「他人を変えるより自分を変えた方がいい」って口で言うんだよ。だって「言うは易し 行うは難し」だもんね。誰もまったく問題なく生きている人なんていませんよ。毎日毎日がワンダフルで爽快な日々なんてまずあり得ません。自分なりに悟ってれば結構です。中野信子先生も明石家さんまに育てられたのはラッキーですね。だって話し上手とは…聞き上手ですからね。

 

 

コミュニケーション能力が低く、中学で美術部に入るなど、絵が上手かったわけでもないけど、一人で何かをコツコツと仕上げるのが好きだったという中野信子先生。その気持ち、よく分かります。そういう人、少なくとも学年に一人いますからね。練馬区の小学校から公立中学に行ったのち鉄道高校に行った同級生がいたらしく、私的に「もしかして…アイツかな?」ってぐらい鉄道模型を学校に持ってきては、休み時間に動かしている同級生がいましたよ。私も営業は苦手ですから、話は私がするより、コチラのサイトに来てもらって引き出してもらった方いい。恐らく「コメント入れてくれるなら、もっと説明してくれ!」的な人もいて、私がきちんと説明できると思い込んでいるかもしれないけど、そういうの苦手なんです。だから当サイトに記事で長々と綴っている。中野信子先生も、本を書くのが好きですからね。その辺は似た傾向かもしれません。

 

【ニューソース】

講談社・講談社現代新書 公式サイト