何をやっているのか、よくは、わからない。
けれど、どこか、少し深いところで、
強く興味のアンテナみたいのが、
フルフルして仕方がないです。
いつも、多言語の自然習得グループで
話すと、そんな感じになります。
毎週、集いがあります。
今は、zoomのことも多いです。
私は、
ことばってどこからきた?
どうやってはじまった?
いったいそれは何?
ということに、とても興味があります。
昨晩のzoomで、メンバーの一人が、新聞に掲載された、多和田葉子さんのインタヴュー?のことをしゃべっていました。
ドイツ在住で、確か、ドイツ語でも日本語でも書く、作家さんです。
母語で考えたり、しゃべったりすることの、不自由さ、ということを多和田さんは言っているようでした。
? 母語でしゃべるのに、不自由?
日本語の思考パタンみたいなことがあります。
そして、日本語というのは、日本という国家の括りを明快にしています。
「日本語」というものをくっきり分けることによって「国家」というものが成り立たっているのです(ここ、説明不足ですが、そのままいきます)。
日本語で説明を、表現を、する、
ということ自体が、実は、日本という国家のものの見方、とならざるを得ない面があります。
「不自由」とは、
この見方から、逃れることができないこと。
何を言ったとしても
「日本人」が言ったことになってしまうのと、
日本語の思考パタンでの考えになってしまうこと。
人間は(いや、私は)
いろんなことを、ああ、こういうことなんだ、
と、わかりたいのです。
その気持ちは、
何かを、パッと、理解する瞬間はとても嬉しい。「わかった!」って。
すごく嬉しいけれど、その瞬間に、
世界は、もう、そうとしか見えなくなる、
わけです。
私の見方が変わった、
見方がわかった、
としても、多分、
世界はそんなには変わらないんですけどね。
救いは、いろんな見方がある、っていうこと。
意識の仕組み?は、一度にひとつの見方しかできないこと、なのではないか、と思います。
人間は、生物としては、
勝手に息をして、
消化をしていて、
血は巡っていて、
生きてます。
全てが同時進行してるけど、
意識は、この書いてることだけをしてます。
マルチタスクをこなす、というけれど、
生き物はそもそも、
マルチそのものというか、全体しかないです。
「シングルタスク」をすることが、
意識ということとすると、
その意識がマルチタスクをこなす、
とは、
実はすごいスピードで切り替えてる、
という話なのでは、と疑ったりします。
余談に入りすぎました。
多分、多和田さんは、ドイツ語で書く、という体験によって、「不自由さ」と「自由さ」に気づいてるのだと思います。
同じことを
日本語で書こうとしたり、ドイツ語で書こうとしたりした時、
どうしようもない気持ちの違いみたいのを、
ひしひしと実感なさったことがあるに違いないです。だからこそ、書いている、のかもしれないです。
そこで、言語が国家(という一つの支配の形)を作っている、ということを、すごく実感されたのではないか、と思うのです。
そもそも、「同じことを」書く、と表現しましたが、
その「同じこと」がそう簡単に同じなのか、
そこからして、疑わしいです。
そして、私は、普段、日本語で話すとこに、不自由を感じていません。あまりにも当たり前、意味がわかるのが当たり前だから、そのことについて考えもしないですから。
で、コロナになっての日常で、多言語グループの活動は何をやっているのか、というと、
ともかくみんなで、本を読んでいるのですよね。
「易」(本田濟 著、朝日新聞社)
「統辞構造論」(チョムスキー著、福井直樹・辻子美保子訳、岩波文庫)
「部分と全体」(ハイゼンベルク著、山崎和夫訳、みすず書房)
など。
単に面白くてやっているので、何をしてるのか、そんなに自覚はないですが、
わかった気になって、書いてみれば、
古今東西の
「見方」
を味わってるのだと思うのです。
世界は、いろんなふうに見れるんだな、
という感覚が、段々に感じれてくるのです。
先端的な物理学では、世界はこのように見られてるらしい、とか、風水でビルの建て方から何からちゃんと構成している、とか、呪術師のおまじないが日常に(まるで、日本の陰陽師の時代のように)当たり前にある、とか、神様を信じてるにしても、実に色々のがあって、、、それぞれ、その人にとっては当たり前な見方なわけですよね、私が日本の日常を当たり前に、生きているように。
他人になってみたい。っていう根深い衝動があるような気がします。(大林宣彦監督の『転校生』(原作は山中恒『おれがあいつであいつがおれで』とか。)
中国人になって、世界を感じたら、いったいどんなふうに見えるんだろう、とか。
このところを、今、意識の上で、考えて、書いてるのですが、体感したい、という気持ちが強いのです。
確かに本を読んで、見方を知る(外側からなぞる)をすれば「そういうものだ」ということは、とてもわかります。
でも実感したいのです。
いくら美味しい料理の描写を読んでも、実感したかのような気にはなるけど、味わいそのものは、ことばに書けないのは、当たり前ですよね。
それで、多言語自然習得したいんだな、と思うのです。
音には味わいしかないのですから。
四の五の言わずに、食ってみな、ということです。それで、多言語自然習得のグループでは、音源をそのまま真似る、ということをします。
誰かの口真似、モノマネをする時って「その人」のフィーリングを出そうとしてます。
うまくできると、自分も周りも楽しい。なんかそんな感じで、多言語の音を真似て声をだしてるのです。
これだって、ちゃんとやろうとしたら、相当に難しい「芸」ですけど、ドイツ語で書いてみようとすることよりは、はるかにハードルが低いです。
音源があれば、辞書も何も要らないです。それでいて「自分が、声に出して、味わってみる」という「現物の味見」はできるのです。
で、わかる、のは、ものすごくうれしいんだけど、味見してるのが、なんとも楽しい、。
上に挙げた、
特にチョムスキー「統辞構造論」なんか、
なにやら、やたらに、ちんぷんかんぷんです。
しかし、わからなくても、味見はできるんです、声に出して、みんなでしゃべりながら読めば、
この学問の雰囲気がわかります。
(声に出す、ってすごいな、と実感してます。日本の古くからの学び方に素読ってありますよね。あれもこれだと思います。)
一人の門外漢が『統辞構造論』っていう、専門家以外はタイトルしか知らないような、本を通読したことがある、ってすごいと思います(まだ読み終わってないです。。。)
そして、ここには、私の興味
ことばっていったい何?
っていうことの、
理解の一つの粋
みたいのが入ってることだけは、
確かっぽいのです。
(随分前の、去年の12月くらい?のブログにチョムスキー、チョムスキーって書いてるのは、そう思ってるからです。)
料理いろいろ食べてみたくなる、作ってみたくなります。それと、同じですね。
ガイドブックだけ読んで満足する、はありえないですね。
そして、人は、パンのみにて生くるにあらず、です。(どうしても、いろいろ考えてしまう。。。もちろん、パンを得るためにも。。。)
以下、余談です。
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多和田さんは、ご自分への依頼の、上手い例を出して、説明されてました。
私は、記事の話を聞いただけなので、ちゃんと読んでいなく、私のイメージだけで書いています。
ちょっと横道にそれちゃうのですが、私の基本姿勢みたいのに、
そのときに感じたこと、をだいじにする、
というのがあります。
最近そうなってきました。
誤読だとしても、その誤読をした、その時の自分の感覚を、書いたり言ったりする、ということです。
そのことで、自分をどう見たか、が残り、自分についての認知が、明快になっていくと思います。
まあ、あらゆる読解は、誤読、
というと大袈裟すぎるけれども
読解は、「自分はどう読んだか、どう受け取ったか」でしかないと思っているので。
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冒頭の写真は『ふわっふわ』という「糸綴じアクリル屏風」の作品です。たたんだり、ひらいたり、どっちから光が来るかによって、いろいろな姿になるので、このブログの内容とも合うかな、と思ってのせました。7月に個展予定。