011 ソーシャル・アライアンス株式会社 代表取締役社長 岡根芳樹さん
ソーシャル・アライアンス株式会社 専務取締役 岡根芳樹さんは、
元劇団座長で現役の絵本作家、というご経歴の持ち主。
その半生のドラマと、教育への情熱についてお話を伺いました。
映画監督を目指していた、異端の高校時代
ソーシャル・アライアンス株式会社専務取締役として、日々多く
のセミナーで「売れる営業マン」のノウハウを伝授している岡根氏
には、今年で44才にはみえない若々しさと情熱がみなぎっている。
数々のトップセールス記録を樹立し、現在トレーナーとして活躍する
岡根氏だが、そこに至るまでには想像を絶するドラマがあった。高校
時代を愛知県で有数の進学校で過ごした岡根氏は、校内でただ一人、
有名大学を志望しない異端の生徒だった。生徒ごとに東大をはじめと
する志望校が貼り出される中、岡根氏の志望はなんと「劇団四季」。
「映画監督になるのが夢だったんですよ。それにはまず役者に
ならないといけないと思って。それで日本で一番の劇団を目標に
したんです(笑)。もちろん先生には睨まれましたよ」。
好きなことはとことん追究する性格と自分を分析する岡根氏の原点
はここから始まった。
念願の劇団結成から500万円の借金地獄へ
高校時代は映画漬けの日々を送っていた岡根氏。独立志向が強かった
ため、16歳で一人暮らしを始め、映画館でバイトをしながら最初の
劇団を結成した。名古屋での公演を実現させ、東京を目指す。ところが
名古屋とは違い、すべてが桁違いな東京。
「当時25年前、名古屋だとだいたい一回の公演費用は100万円くらい。
それが東京では約3倍。びっくりしました」。
そんな中、大きな不運が岡根氏を襲う。何と劇団員の中に指名手配中の
詐欺師がおり、公演費用の300万円を持ち逃げされてしまった。すでに
押さえている会場への支払いなど待ったなしの状態で、代表だった19才
の岡根氏は300万円の借金を背負うはめに。
「サラ金では一気に300万円は貸してもらえずヤミ金へ。俗にいうトイチ
の利息だったので、二ヵ月もすると借金は500万円になってました」。
雪だるま式に増えて行く利息に苦しむ中で、奇しくも岡根氏の営業
としてのスタートが切られた。
売れない営業マンとして二ヵ月が経過。胃潰瘍での吐血で得たものとは
なんとか借金を返さなければと思った岡根氏が選んだのは、フルコミッ
ション制の営業だった。フルセットで約100万円の教材を訪問販売、売上
に対して20%ほどが給料となる。三ヶ月で借金を返す! と意気込んで
入社した岡根氏だったが、現場は厳しかった。研修はない。売れないと
上司から罵声を浴びせられる。逃げない精神力とやらなければいけない
理由がある者だけが残る職場だった。一件も契約がとれないまま二ヵ月が
経過した。そしてある日、ストレス性の急性胃潰瘍で路上で吐血、救急車
で運ばれ一ヶ月の入院となった。退院後、魔法のように売れるようになった
岡根氏。何と1000万円/月という前例のない売上をあげるようになった。
「入院中はいろいろ考える時間がありました。最初は商品を信じられず、
売る事に罪悪感があった。でも視点を変えて、親に買ってもらうんじゃ
なく、実際に教材を使う子供をやる気にさせたらどうだろうと。そう考え
たら使命感が沸いてきたんですね」。
売上だけでなく、クーリングオフもゼロという驚異的な営業となった
岡根氏は、無事借金を完済。その後、2002年にこの会社で知り合った
桑原氏とともに、ソーシャル・アライアンス株式会社の立ち上げに携わる
こととなる。
著名な絵本作家としてのもうひとつの顔
そんな岡根氏は、実はもうひとつ別な顔を持っている。それは絵本作家
としての「おかねよしき」だ。もともと映画に興味があった岡根氏は、
クリエイティブな仕事をあきらめなかった。借金を返し、生活のめどが
経った31才で絵本作家になることを決意。当時絵に自信がなかったため、
仕事を一切せず、貯金を切り崩しながら、31才からの3年間を絵の練習に
打ち込んだ。 「妻に貯金を渡し、これでなんとか頼む!と(笑)
この頃は家にいつも近所の子供が遊びにきていて、すごく賑やかでした。
家の壁に絵を書いちゃったり。子供の気持に触れた貴重な時間でしたね」。
そしてできあがった作品「よなかのさんぽ」は、スロバキア共和国で開催
される、2006年 ブラティフラヴァ世界絵本原画展 にて日本代表のひとつに
選ばれた。作品はNHKをはじめ著名なメディアでも紹介され、絵本作家の
おかねよしきが誕生した。 「途中何度もやめようと思いましたが、続けて
いてよかった。昔からのしつこい性格が幸いしたんだと思います(笑)」。
教育で世の中を熱くしたい
トレーナーと絵本作家、双方関係がなさそうだが岡根氏にとっては違う。
「いま興味をもっているテーマは教育。セミナーと絵本に共通するキーワード
です。会社としても、いずれは教育の分野に広く手を伸ばしていきたい」。
いまソーシャル・アライアンスのセミナーで特に注目しているのは
「人間力」。大企業には、学歴はあっても人間力がないため、リーダー
シップを発揮できなかったり、すぐ辞めていく社員が多いという。
「無気力でやらされ感が強かった生徒さんが、セミナーが進むにつれ本気
になっていく、燃えられる体質に変わって行くのを感じられるのは大きな
やりがいですね」
と岡根氏は語る。これまでも自分が熱くなれるものをまっすぐに追究し
続けている岡根氏は、目の前にいる誰とでも本気のコミュニケーション
をとる。本質とは何か? を見つめているからこそ、結果が後からついて
くるのだろうか。いまでも昼はトレーナー、夜は絵本作家というスタイル
の岡根氏。三冊目の絵本が脚光を浴びる日が楽しみだ。
(取材・文:ぱうだー)
<岡根 芳樹さん プロフィール>
1964年和歌山県出身。 ソーシャル・アライアンス株式会社 専務取締役。
同社のシニア・トレーニングディレクターとして、 日本全国を巡ってトレーニングの
日々を過ごしている。その一方、絵本作家・おかねよしきとしても活躍中である。
プロフィール詳細
ソーシャル・アライアンス株式会社
絵本「よなかのさんぽ」 作・絵:おかねよしき
メールマガジン配信日:2008年12月24日
ミニ交流会開催日:2009年 1月19日
元劇団座長で現役の絵本作家、というご経歴の持ち主。
その半生のドラマと、教育への情熱についてお話を伺いました。
映画監督を目指していた、異端の高校時代
ソーシャル・アライアンス株式会社専務取締役として、日々多く
のセミナーで「売れる営業マン」のノウハウを伝授している岡根氏
には、今年で44才にはみえない若々しさと情熱がみなぎっている。
数々のトップセールス記録を樹立し、現在トレーナーとして活躍する
岡根氏だが、そこに至るまでには想像を絶するドラマがあった。高校
時代を愛知県で有数の進学校で過ごした岡根氏は、校内でただ一人、
有名大学を志望しない異端の生徒だった。生徒ごとに東大をはじめと
する志望校が貼り出される中、岡根氏の志望はなんと「劇団四季」。
「映画監督になるのが夢だったんですよ。それにはまず役者に
ならないといけないと思って。それで日本で一番の劇団を目標に
したんです(笑)。もちろん先生には睨まれましたよ」。
好きなことはとことん追究する性格と自分を分析する岡根氏の原点
はここから始まった。
念願の劇団結成から500万円の借金地獄へ
高校時代は映画漬けの日々を送っていた岡根氏。独立志向が強かった
ため、16歳で一人暮らしを始め、映画館でバイトをしながら最初の
劇団を結成した。名古屋での公演を実現させ、東京を目指す。ところが
名古屋とは違い、すべてが桁違いな東京。
「当時25年前、名古屋だとだいたい一回の公演費用は100万円くらい。
それが東京では約3倍。びっくりしました」。
そんな中、大きな不運が岡根氏を襲う。何と劇団員の中に指名手配中の
詐欺師がおり、公演費用の300万円を持ち逃げされてしまった。すでに
押さえている会場への支払いなど待ったなしの状態で、代表だった19才
の岡根氏は300万円の借金を背負うはめに。
「サラ金では一気に300万円は貸してもらえずヤミ金へ。俗にいうトイチ
の利息だったので、二ヵ月もすると借金は500万円になってました」。
雪だるま式に増えて行く利息に苦しむ中で、奇しくも岡根氏の営業
としてのスタートが切られた。
売れない営業マンとして二ヵ月が経過。胃潰瘍での吐血で得たものとは
なんとか借金を返さなければと思った岡根氏が選んだのは、フルコミッ
ション制の営業だった。フルセットで約100万円の教材を訪問販売、売上
に対して20%ほどが給料となる。三ヶ月で借金を返す! と意気込んで
入社した岡根氏だったが、現場は厳しかった。研修はない。売れないと
上司から罵声を浴びせられる。逃げない精神力とやらなければいけない
理由がある者だけが残る職場だった。一件も契約がとれないまま二ヵ月が
経過した。そしてある日、ストレス性の急性胃潰瘍で路上で吐血、救急車
で運ばれ一ヶ月の入院となった。退院後、魔法のように売れるようになった
岡根氏。何と1000万円/月という前例のない売上をあげるようになった。
「入院中はいろいろ考える時間がありました。最初は商品を信じられず、
売る事に罪悪感があった。でも視点を変えて、親に買ってもらうんじゃ
なく、実際に教材を使う子供をやる気にさせたらどうだろうと。そう考え
たら使命感が沸いてきたんですね」。
売上だけでなく、クーリングオフもゼロという驚異的な営業となった
岡根氏は、無事借金を完済。その後、2002年にこの会社で知り合った
桑原氏とともに、ソーシャル・アライアンス株式会社の立ち上げに携わる
こととなる。
著名な絵本作家としてのもうひとつの顔
そんな岡根氏は、実はもうひとつ別な顔を持っている。それは絵本作家
としての「おかねよしき」だ。もともと映画に興味があった岡根氏は、
クリエイティブな仕事をあきらめなかった。借金を返し、生活のめどが
経った31才で絵本作家になることを決意。当時絵に自信がなかったため、
仕事を一切せず、貯金を切り崩しながら、31才からの3年間を絵の練習に
打ち込んだ。 「妻に貯金を渡し、これでなんとか頼む!と(笑)
この頃は家にいつも近所の子供が遊びにきていて、すごく賑やかでした。
家の壁に絵を書いちゃったり。子供の気持に触れた貴重な時間でしたね」。
そしてできあがった作品「よなかのさんぽ」は、スロバキア共和国で開催
される、2006年 ブラティフラヴァ世界絵本原画展 にて日本代表のひとつに
選ばれた。作品はNHKをはじめ著名なメディアでも紹介され、絵本作家の
おかねよしきが誕生した。 「途中何度もやめようと思いましたが、続けて
いてよかった。昔からのしつこい性格が幸いしたんだと思います(笑)」。
教育で世の中を熱くしたい
トレーナーと絵本作家、双方関係がなさそうだが岡根氏にとっては違う。
「いま興味をもっているテーマは教育。セミナーと絵本に共通するキーワード
です。会社としても、いずれは教育の分野に広く手を伸ばしていきたい」。
いまソーシャル・アライアンスのセミナーで特に注目しているのは
「人間力」。大企業には、学歴はあっても人間力がないため、リーダー
シップを発揮できなかったり、すぐ辞めていく社員が多いという。
「無気力でやらされ感が強かった生徒さんが、セミナーが進むにつれ本気
になっていく、燃えられる体質に変わって行くのを感じられるのは大きな
やりがいですね」
と岡根氏は語る。これまでも自分が熱くなれるものをまっすぐに追究し
続けている岡根氏は、目の前にいる誰とでも本気のコミュニケーション
をとる。本質とは何か? を見つめているからこそ、結果が後からついて
くるのだろうか。いまでも昼はトレーナー、夜は絵本作家というスタイル
の岡根氏。三冊目の絵本が脚光を浴びる日が楽しみだ。
(取材・文:ぱうだー)
<岡根 芳樹さん プロフィール>
1964年和歌山県出身。 ソーシャル・アライアンス株式会社 専務取締役。
同社のシニア・トレーニングディレクターとして、 日本全国を巡ってトレーニングの
日々を過ごしている。その一方、絵本作家・おかねよしきとしても活躍中である。
プロフィール詳細
ソーシャル・アライアンス株式会社
絵本「よなかのさんぽ」 作・絵:おかねよしき
メールマガジン配信日:2008年12月24日
ミニ交流会開催日:2009年 1月19日
010 歯とハートクリニック院長 歯科医師 渡邊 和代 先生
「私の仕事は、私が関わった方の笑顔を作ることです。」
歯とハートクリニック院長の渡邊和代先生にお話を伺いました。
歯とハートクリニックは麻布十番の駅前という立地にありながら、
都会の喧騒を忘れる穏やかな雰囲気が漂います。
歯とハートクリニックの開業にかけた思い
五年前のクリニック開業にあたっては、“出入りする人が幸せになれる、
種みたいな場所にしたい”と思った。
「私も患者さんも営業の方も、たまたまいらした方が色々なエネルギー
を置いていってくれる。普段の生活で迷ったり傷ついたりしても、
ここに来ると本来の自分を取り戻せる。そんな場所にしたいと思った時、
私は歯科医師のライセンスを持っているから、そこが歯科クリニック
だったんです。」
一般的に歯科医が話す表情筋の話だけではなく、笑顔がどんなに人の
人生を変える力を持つかといった話から、女性の体に関する相談まで、
訪れた人の心を解きほぐしながらお話くださる先生の魅力に引かれ、
偶然訪れた営業マンも、帰る時には自ずと患者になってしまう。
看護学校講師として-全力投球の授業-
一方で、週の半分は新幹線で通勤しながら、看護学校で教鞭をとる日々
を送る。看護師を目指す生徒に組織学や医療英語を教えるが、理想は
“自分のことや身近なことを通して、意識せずとも学びが得られている”
講義だという。人間を構成する細胞について講義する際は、命のルーツ
に焦点を当てる。
「一番初めの私って何かっていうと、0.2mmの卵。それもたまたま母親
から生涯400くらい排卵される中の1個の卵に、たまたま父親と母親が
奇跡的な確率で出会ってくれて、父親の1つの精子の奇跡的な1個が
0.2mmの卵と出会って、今の私。だから所詮みんなたった0.2mmの単細胞
だったわけ。それがDNAと、神様の力があって分裂していくんです。」
そんな話に、いつの間にか学生は学問の領域を超えて引き込まれる。
学生が覚えやすいよう、よりインスピレーションを喚起できるよう、
毎回精一杯の授業をすると語る渡邊先生からは、どんな立場の相手にも
真剣に向き合う人柄が窺われる。
自分の仕事に面白さを感じるまで、十年
-丁寧な一歩を重ねたことが、夢につながっていた-
そんな渡邊先生だが、歯科医師としての仕事に面白さを感じ始めたのは、
大学を卒業後十年の月日を経た後だったという。「もともと精神科医に
なりたかったのに親に反対され、当時のボーイフレンドが歯科大生だった
ことに後押しされて歯科医の道に進んでしまったんです。」
入学後は大学をやめたいと思うことも多く、卒業後、歯科医として働き
ながらも自分が本当にやるべきことは他にある、という思いが抜け切れ
なかった。そんな中、歯科医として誇りを持てるようになったのは、迷い
ながらも目の前のことにきちんと取り組み続けた結果だった。十年前から
は精神科の患者さんに治療をする機会が訪れ、元々目指していた精神科
での治療に、歯科医というライセンスを通じて関わることが出来た。
自分がやりたいことの集大成は、“自分に関わった人を笑顔にすること”
その手段として、自分には歯科医師という役割が与えられた。卒業して
二十年が経つ頃には、『人生の大きな流れは、知らないうちに自分が成し
得たいことに近づいていた』、という実感が湧いた。
失敗は、小さな流れの曲がり角
夢から逸れたと思っていた道が、実は夢につながる道だった。そんな風に
渡邊先生が思えた背景には、同時に、渡邊先生の人との関わり方の変化が
あった。「10代・20代の頃は、生きていくことは戦いで、辛い事で幸福も
偏差値で表されるかのような意識がありました。でも地球の上のチームの中
で、搾取し合うのではなく、それぞれの個性で出来ることをすればいいんだ、
って思えるようになったんです。」台風のように、物事は起こる時は起こって
しまう。落ち込む度にお風呂で涙を流す日々もあったが、今は起こったこと
に対して、自分がどんな「想い」で関わるかが大切と思えるという。
「歯科大に入った動機も曖昧だし、離婚も経験しているし、一般的には私の
人生の駒はきっと失敗ばかりなんです。でも、失敗があったから気づけた
ことがすごく多くて、今の私を築く大きな財産になっています。」
今は落ち込むことがあっても、小さな流れの曲がり角、その「想い」が
囚われや自我ではなく本当に自分らしく純粋なものであれば大きな流れは
それに近づいていくと感じるそうだ。
今後のクリニックと夢
現在、歯とハートクリニックにはアロマセラピストの方もいらっしゃる。
今後は、もっと色々な分野のプロが集い力を出すことで、「種」としての
クリニックをもっとふくらませたいそうだ。またご自身、今後は障害を持つ
女の子の就業支援となる活動をすることが夢だと語る。
「今までの人生の八割は人に支えられ、一割はラッキー『目にみえないパワー』、
一割はちょっとだけ自分が頑張った。」
たまたま電車で隣に座ってくれた人のエネルギーにも支えられたと語る渡邊先生
に、人への感謝を感じ、ご自身の得意分野をツールとしてその感謝を還元して
いる生き方が感じられた。
<渡邊 和代 先生 プロフィール>
歯科医師。1983年日本歯科大学卒業、日本歯科大学病院勤務後、臨床に携わる。
現在、精神科内科と連携し心療歯科、審美歯科、スマイルセラピー、
アロマセラピーを行なう麻布十番「歯とハートクリニック」院長。
また看護学校にて解剖生理学、口腔外科学講師をつとめる。
■メディア実績
雑誌:Hanako、BOAO、AneCan、25ans (ヴァンサンカン)、MEN’S CLUB など多数
■歯とハートクリニック
〒106-0045 東京都港区麻布十番4-6-8アクティブビル3階
メールマガジン配信日:2008年12月10日
ミニ交流会開催日:2009年 1月16日
歯とハートクリニック院長の渡邊和代先生にお話を伺いました。
歯とハートクリニックは麻布十番の駅前という立地にありながら、
都会の喧騒を忘れる穏やかな雰囲気が漂います。
歯とハートクリニックの開業にかけた思い
五年前のクリニック開業にあたっては、“出入りする人が幸せになれる、
種みたいな場所にしたい”と思った。
「私も患者さんも営業の方も、たまたまいらした方が色々なエネルギー
を置いていってくれる。普段の生活で迷ったり傷ついたりしても、
ここに来ると本来の自分を取り戻せる。そんな場所にしたいと思った時、
私は歯科医師のライセンスを持っているから、そこが歯科クリニック
だったんです。」
一般的に歯科医が話す表情筋の話だけではなく、笑顔がどんなに人の
人生を変える力を持つかといった話から、女性の体に関する相談まで、
訪れた人の心を解きほぐしながらお話くださる先生の魅力に引かれ、
偶然訪れた営業マンも、帰る時には自ずと患者になってしまう。
看護学校講師として-全力投球の授業-
一方で、週の半分は新幹線で通勤しながら、看護学校で教鞭をとる日々
を送る。看護師を目指す生徒に組織学や医療英語を教えるが、理想は
“自分のことや身近なことを通して、意識せずとも学びが得られている”
講義だという。人間を構成する細胞について講義する際は、命のルーツ
に焦点を当てる。
「一番初めの私って何かっていうと、0.2mmの卵。それもたまたま母親
から生涯400くらい排卵される中の1個の卵に、たまたま父親と母親が
奇跡的な確率で出会ってくれて、父親の1つの精子の奇跡的な1個が
0.2mmの卵と出会って、今の私。だから所詮みんなたった0.2mmの単細胞
だったわけ。それがDNAと、神様の力があって分裂していくんです。」
そんな話に、いつの間にか学生は学問の領域を超えて引き込まれる。
学生が覚えやすいよう、よりインスピレーションを喚起できるよう、
毎回精一杯の授業をすると語る渡邊先生からは、どんな立場の相手にも
真剣に向き合う人柄が窺われる。
自分の仕事に面白さを感じるまで、十年
-丁寧な一歩を重ねたことが、夢につながっていた-
そんな渡邊先生だが、歯科医師としての仕事に面白さを感じ始めたのは、
大学を卒業後十年の月日を経た後だったという。「もともと精神科医に
なりたかったのに親に反対され、当時のボーイフレンドが歯科大生だった
ことに後押しされて歯科医の道に進んでしまったんです。」
入学後は大学をやめたいと思うことも多く、卒業後、歯科医として働き
ながらも自分が本当にやるべきことは他にある、という思いが抜け切れ
なかった。そんな中、歯科医として誇りを持てるようになったのは、迷い
ながらも目の前のことにきちんと取り組み続けた結果だった。十年前から
は精神科の患者さんに治療をする機会が訪れ、元々目指していた精神科
での治療に、歯科医というライセンスを通じて関わることが出来た。
自分がやりたいことの集大成は、“自分に関わった人を笑顔にすること”
その手段として、自分には歯科医師という役割が与えられた。卒業して
二十年が経つ頃には、『人生の大きな流れは、知らないうちに自分が成し
得たいことに近づいていた』、という実感が湧いた。
失敗は、小さな流れの曲がり角
夢から逸れたと思っていた道が、実は夢につながる道だった。そんな風に
渡邊先生が思えた背景には、同時に、渡邊先生の人との関わり方の変化が
あった。「10代・20代の頃は、生きていくことは戦いで、辛い事で幸福も
偏差値で表されるかのような意識がありました。でも地球の上のチームの中
で、搾取し合うのではなく、それぞれの個性で出来ることをすればいいんだ、
って思えるようになったんです。」台風のように、物事は起こる時は起こって
しまう。落ち込む度にお風呂で涙を流す日々もあったが、今は起こったこと
に対して、自分がどんな「想い」で関わるかが大切と思えるという。
「歯科大に入った動機も曖昧だし、離婚も経験しているし、一般的には私の
人生の駒はきっと失敗ばかりなんです。でも、失敗があったから気づけた
ことがすごく多くて、今の私を築く大きな財産になっています。」
今は落ち込むことがあっても、小さな流れの曲がり角、その「想い」が
囚われや自我ではなく本当に自分らしく純粋なものであれば大きな流れは
それに近づいていくと感じるそうだ。
今後のクリニックと夢
現在、歯とハートクリニックにはアロマセラピストの方もいらっしゃる。
今後は、もっと色々な分野のプロが集い力を出すことで、「種」としての
クリニックをもっとふくらませたいそうだ。またご自身、今後は障害を持つ
女の子の就業支援となる活動をすることが夢だと語る。
「今までの人生の八割は人に支えられ、一割はラッキー『目にみえないパワー』、
一割はちょっとだけ自分が頑張った。」
たまたま電車で隣に座ってくれた人のエネルギーにも支えられたと語る渡邊先生
に、人への感謝を感じ、ご自身の得意分野をツールとしてその感謝を還元して
いる生き方が感じられた。
<渡邊 和代 先生 プロフィール>
歯科医師。1983年日本歯科大学卒業、日本歯科大学病院勤務後、臨床に携わる。
現在、精神科内科と連携し心療歯科、審美歯科、スマイルセラピー、
アロマセラピーを行なう麻布十番「歯とハートクリニック」院長。
また看護学校にて解剖生理学、口腔外科学講師をつとめる。
■メディア実績
雑誌:Hanako、BOAO、AneCan、25ans (ヴァンサンカン)、MEN’S CLUB など多数
■歯とハートクリニック
〒106-0045 東京都港区麻布十番4-6-8アクティブビル3階
メールマガジン配信日:2008年12月10日
ミニ交流会開催日:2009年 1月16日
009 東洋大学ライフデザイン学部 教授 天沼昭彦さん
ソニー・ヨーロッパデザインセンターを立ち上げ、
ソニーが誇る世界各国のデザインセンターの室長を務めた
天沼昭彦さんに、 ご経験・現在の熱い思いをお伺いしました。
プロダクトデザイン業界を見つめてきた40年
いま東洋大学の教授として、未来のプロダクトデザイナーを育成して
いる天沼氏は、プロダクトデザイン業界一筋40年の大ベテランだ。
天沼氏は美大を卒業後、ソニーに入社。ソニーが世界企業として
急成長するまさにそのとき、プロダクトデザイナーとして数多くの
製品を世に生み出してきた。またソニーが誇る世界各国のデザイン
センターの室長を務め、異なる文化にも受け入れられるプロダクト
デザインの基礎を確立した。55歳でソニーを退職。念願の独立と並行
して天沼氏が教授職を引き受けたのは、ソニーでの体験を若い人たち
に伝えたいという想いからだった。
「ソニー時代、いろいろ勝手なことをやらせてもらったことへの
恩返しをしようと思いましてね(笑)」。
授業を楽しくするため、いつもハイテンションでいるよう心がけて
いる天沼氏だが、これまで元気すぎて学生に「先生、酔ってるのでは」
と誤解されたこともあるそうだ。
入社3年目、ヨーロッパ放浪を申し出る
天沼氏のソニー時代には、貴重なエピソードがたくさん詰まっている。
入社して三年目、天沼氏はヨーロッパを放浪するため、一年間の休職
を申し出る。「ゆっくり海外を見てきたかったんですよね。大学の
卒業旅行が国内だったので、このチャンスを逃したらないと思って」。
急な申し出にも関わらず、上司は了承してくれた。
そのかわりヨーロッパ市場について毎月レポートを出すように命じた。
「きっとあんまり仕事してなかったからOKがでたんですよ」
と笑う天沼氏にとって、この放浪は後に大きな収穫となった。
「現地デパートのディスプレイやオーディオショップの写真、人々
の生活のなどを撮ってレポートとして送っていました。写真が好き
だったので楽しかったのですが、フィルム代がかかってね。上司に
『お金送ってください』と頼んで叱られたりしてました(笑)」。
天沼氏が毎月送るレポートは本社で評判となり、ソニーの創業者であり
当時の社長の盛田氏にも「おもしろい奴がいる」と注目された。
「この頃のソニーは、人と違うことをやる、市場を創るということが
評価される文化が根強かったんです」。
手探りで始めたヨーロッパデザインセンターの立ち上げ
そして35歳のとき、ヨーロッパデザインセンターの立ち上げでドイツへ。
最初はドイツ人の女性秘書と天沼氏、たった二人でのスタートだった。
ソニーデザインセンターの役割のひとつは「売れるデザインの翻訳」。
ヨーロッパで売れるために必要なことを、現地の視点で東京に伝える。
なぜその大きさではだめなのか、なぜその質感がよいのかなど、東京に
いるものづくりチームを説得するのは気が遠くなるような労力を要する。
日本国内でさえ『言葉』でデザインを説明するのはものすごく難しいのに、
そこに文化の違いが加わる。
「前例がない中で手探りでしたが、市場での売上という、結果で成功が
量れる仕事はとてもやりがいがありましたね」
と天沼氏は当時を振り返る。そして五年でドイツのデザインセンターを
軌道に乗せ、40歳でアメリカへ渡った。アメリカでは「My First Sony」
というコンセプトで子供向けの電化製品を開発。子供向けでも中身は
高機能。当時の、子供向け=香港や台湾製というチープなイメージを
払拭する大ヒット商品となった。
小さい頃からものづくりが好きだった
そんな天沼氏は、やはり小さい頃からものづくりに興味があったという。
「幼稚園の頃、父の時計を分解したことがありました。中がどうなって
いるのか気になってね。もちろん分解するだけで元には戻せませんで
したが、なぜか叱られませんでした(笑)」。
小学生の頃は模型づくりに夢中になる。学校では科学模型クラブに
所属し、パワーショベルなどを無心に作っていた。中学では陸上競技
などで優勝者に授与されるトロフィーを、ひとつひとつオリジナルで
作ることもあった。もともと建築家を志望していた天沼氏だが、進路選択
では日本大学芸術学部でプロダクトデザインの道を選ぶことになった。
「なぜプロダクトデザインコースを選んだのか、実はあんまり記憶が
ないんですが、新しい分野だったことが原因であったのかもしれません。
プロダクトデザインの道を選んで、成長時代のソニーでこうして好きな
ことができて、とてもよかったと思っています」
天沼氏に続く若手デザイナーたち
目下天沼氏の関心は、来年卒業を迎える学生達にある。
「私にとっては初めての卒業生。ぜひデザイナーとしてがんばって
ほしいですね。デザイナーでなくとも、企画やマーケティングなど、
デザインに関わる仕事で活躍してくれたらうれしい」。
天沼氏によると、デザインに必要な素質は「体力・説得力・センス」
の順番だという。
「若いデザイナーには、人と違う生き方を通してクリエイティブを
追究してほしい。でもただ人と違っていればよいわけではない。
なぜ自分はその製品を選んだのか? をいつも意識することが大切。
その問いかけで他者への説得力が磨かれる」
と情熱的に語る天沼氏は今年で64歳。
「いつまでも健康で元気でいたい。健康が仕事を充実させてくれる」
として、プライベートではゴルフやマラソン、スキーなど、たくさん
のスポーツに触れる日々を過ごしている。昨年は東京マラソンに出場
し5時間強で見事完走。70歳になったらホノルルマラソンに出場する
予定だという。競技スキーでは、年間10レース近く出場。シニア
クラスとはいえ、練馬区民大会3連覇、軽井沢町民大会3連覇など、
取り組み方も真剣そのもの。いつも自分を開放し、フットワーク軽く
いろいろな事に挑戦し続ける天沼氏。その輝かしい功績や後ろ姿に
刺激されて、これからも魅力ある製品を世に生み出すデザイナーが、
たくさん生まれていくことだろう。
取材・文:ぱうだー
<天沼 昭彦 さん プロフィール>
■ 現在 (2008/11)
・プロダクトデザイナー
・東洋大学 教授
(ライフデザイン学部人間環境デザイン学科 プロダクトデザインコース)
■ 略歴1944年 東京生まれ
1967年 日本大学芸術学部美術学科工業デザインコース 卒業
1967年 ソニー株式会社入社 意匠課配属
1980年 ソニーヨーロッパ デザインセンター赴任
1985年 ソニーアメリカ デザインセンター赴任
1991年 ソニー株式会社クリエイティブセンター
2001年 ソニー退社、 天沼デザインリンクス設立
2006年 東洋大学教授就任
メールマガジン配信日:2008年11月26日
ミニ交流会開催日:2008年12月17日
ソニーが誇る世界各国のデザインセンターの室長を務めた
天沼昭彦さんに、 ご経験・現在の熱い思いをお伺いしました。
プロダクトデザイン業界を見つめてきた40年
いま東洋大学の教授として、未来のプロダクトデザイナーを育成して
いる天沼氏は、プロダクトデザイン業界一筋40年の大ベテランだ。
天沼氏は美大を卒業後、ソニーに入社。ソニーが世界企業として
急成長するまさにそのとき、プロダクトデザイナーとして数多くの
製品を世に生み出してきた。またソニーが誇る世界各国のデザイン
センターの室長を務め、異なる文化にも受け入れられるプロダクト
デザインの基礎を確立した。55歳でソニーを退職。念願の独立と並行
して天沼氏が教授職を引き受けたのは、ソニーでの体験を若い人たち
に伝えたいという想いからだった。
「ソニー時代、いろいろ勝手なことをやらせてもらったことへの
恩返しをしようと思いましてね(笑)」。
授業を楽しくするため、いつもハイテンションでいるよう心がけて
いる天沼氏だが、これまで元気すぎて学生に「先生、酔ってるのでは」
と誤解されたこともあるそうだ。
入社3年目、ヨーロッパ放浪を申し出る
天沼氏のソニー時代には、貴重なエピソードがたくさん詰まっている。
入社して三年目、天沼氏はヨーロッパを放浪するため、一年間の休職
を申し出る。「ゆっくり海外を見てきたかったんですよね。大学の
卒業旅行が国内だったので、このチャンスを逃したらないと思って」。
急な申し出にも関わらず、上司は了承してくれた。
そのかわりヨーロッパ市場について毎月レポートを出すように命じた。
「きっとあんまり仕事してなかったからOKがでたんですよ」
と笑う天沼氏にとって、この放浪は後に大きな収穫となった。
「現地デパートのディスプレイやオーディオショップの写真、人々
の生活のなどを撮ってレポートとして送っていました。写真が好き
だったので楽しかったのですが、フィルム代がかかってね。上司に
『お金送ってください』と頼んで叱られたりしてました(笑)」。
天沼氏が毎月送るレポートは本社で評判となり、ソニーの創業者であり
当時の社長の盛田氏にも「おもしろい奴がいる」と注目された。
「この頃のソニーは、人と違うことをやる、市場を創るということが
評価される文化が根強かったんです」。
手探りで始めたヨーロッパデザインセンターの立ち上げ
そして35歳のとき、ヨーロッパデザインセンターの立ち上げでドイツへ。
最初はドイツ人の女性秘書と天沼氏、たった二人でのスタートだった。
ソニーデザインセンターの役割のひとつは「売れるデザインの翻訳」。
ヨーロッパで売れるために必要なことを、現地の視点で東京に伝える。
なぜその大きさではだめなのか、なぜその質感がよいのかなど、東京に
いるものづくりチームを説得するのは気が遠くなるような労力を要する。
日本国内でさえ『言葉』でデザインを説明するのはものすごく難しいのに、
そこに文化の違いが加わる。
「前例がない中で手探りでしたが、市場での売上という、結果で成功が
量れる仕事はとてもやりがいがありましたね」
と天沼氏は当時を振り返る。そして五年でドイツのデザインセンターを
軌道に乗せ、40歳でアメリカへ渡った。アメリカでは「My First Sony」
というコンセプトで子供向けの電化製品を開発。子供向けでも中身は
高機能。当時の、子供向け=香港や台湾製というチープなイメージを
払拭する大ヒット商品となった。
小さい頃からものづくりが好きだった
そんな天沼氏は、やはり小さい頃からものづくりに興味があったという。
「幼稚園の頃、父の時計を分解したことがありました。中がどうなって
いるのか気になってね。もちろん分解するだけで元には戻せませんで
したが、なぜか叱られませんでした(笑)」。
小学生の頃は模型づくりに夢中になる。学校では科学模型クラブに
所属し、パワーショベルなどを無心に作っていた。中学では陸上競技
などで優勝者に授与されるトロフィーを、ひとつひとつオリジナルで
作ることもあった。もともと建築家を志望していた天沼氏だが、進路選択
では日本大学芸術学部でプロダクトデザインの道を選ぶことになった。
「なぜプロダクトデザインコースを選んだのか、実はあんまり記憶が
ないんですが、新しい分野だったことが原因であったのかもしれません。
プロダクトデザインの道を選んで、成長時代のソニーでこうして好きな
ことができて、とてもよかったと思っています」
天沼氏に続く若手デザイナーたち
目下天沼氏の関心は、来年卒業を迎える学生達にある。
「私にとっては初めての卒業生。ぜひデザイナーとしてがんばって
ほしいですね。デザイナーでなくとも、企画やマーケティングなど、
デザインに関わる仕事で活躍してくれたらうれしい」。
天沼氏によると、デザインに必要な素質は「体力・説得力・センス」
の順番だという。
「若いデザイナーには、人と違う生き方を通してクリエイティブを
追究してほしい。でもただ人と違っていればよいわけではない。
なぜ自分はその製品を選んだのか? をいつも意識することが大切。
その問いかけで他者への説得力が磨かれる」
と情熱的に語る天沼氏は今年で64歳。
「いつまでも健康で元気でいたい。健康が仕事を充実させてくれる」
として、プライベートではゴルフやマラソン、スキーなど、たくさん
のスポーツに触れる日々を過ごしている。昨年は東京マラソンに出場
し5時間強で見事完走。70歳になったらホノルルマラソンに出場する
予定だという。競技スキーでは、年間10レース近く出場。シニア
クラスとはいえ、練馬区民大会3連覇、軽井沢町民大会3連覇など、
取り組み方も真剣そのもの。いつも自分を開放し、フットワーク軽く
いろいろな事に挑戦し続ける天沼氏。その輝かしい功績や後ろ姿に
刺激されて、これからも魅力ある製品を世に生み出すデザイナーが、
たくさん生まれていくことだろう。
取材・文:ぱうだー
<天沼 昭彦 さん プロフィール>
■ 現在 (2008/11)
・プロダクトデザイナー
・東洋大学 教授
(ライフデザイン学部人間環境デザイン学科 プロダクトデザインコース)
■ 略歴1944年 東京生まれ
1967年 日本大学芸術学部美術学科工業デザインコース 卒業
1967年 ソニー株式会社入社 意匠課配属
1980年 ソニーヨーロッパ デザインセンター赴任
1985年 ソニーアメリカ デザインセンター赴任
1991年 ソニー株式会社クリエイティブセンター
2001年 ソニー退社、 天沼デザインリンクス設立
2006年 東洋大学教授就任
メールマガジン配信日:2008年11月26日
ミニ交流会開催日:2008年12月17日

