425年目の真実 | 40歳過ぎたので何か考える

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今から425年前というと、1592年になります。

この1592年に何があったか?

日本史を勉強していた方なら名前ぐらいは覚えているであろう、文禄の役が始まった年です。

この文禄の役でのエピソードに、

立花宗茂(たちばな・むねしげ)が部下の小野成幸(おの・なりゆき)に、

鎧の袖を与えたという話があります。

今まではうわさ話程度の認識だったのですが、

この袖が見つかった、というお話。

 

「文禄の役」って何ぞや?

大雑把に言うと天下を統一した太閤・豊臣秀吉が大明帝国(今の中国)を征服・支配しようと考え、

手始めに大明帝国に従属していた李氏朝鮮(今の韓国及び北朝鮮)へ服属を強要。

李氏朝鮮は秀吉への従属を拒んだため、秀吉が朝鮮半島へ遠征軍を送り戦争となった事件です。

1592年に始まり、翌1593年に休戦したのが「文禄の役」

講和交渉が決裂した1597年に再び戦争が始まり(慶長の役)ますが、

翌1598年に豊臣秀吉が亡くなったため日本軍が撤退して終了します。

日本史ではこの2つをあわせて「文禄・慶長の役」と言いますね。

 

この文禄の役では25万とも30万とも言われる兵士が動員され、

そのうち15万人が実際に朝鮮に渡り戦ったそうです。

当時の日本の石高から考えると動員できる兵士は50万~60万程度が限界と言われています。

全兵力の半分をつぎ込んだ戦いと言うことですね。

 

この文禄の役で活躍した武将に小野成幸という人物がいます。

あまりメジャーではない、どちらかと言うとマイナーな武将です。

彼は立花宗茂という武将に仕えていました。

立花宗茂も学校の授業ではほとんど名前が出ることの無い武将ですが、

日本史(戦国史)好きで知らない人はいないと言える武将です。

 

立花家も色々と面白いエピソードがあるのですが、今回のお話は小野成幸です。

実はこの立花家の小野氏はもう1人有名な小野鎮幸(おの・しげゆき)という人物がいます。

元々大友家に仕えていたのですが、

立花家の家老 由布惟信(ゆふ・これのぶ)に見出され立花家に仕えた武将です。

由布惟信は立花家の家老になるために自身の家督を弟に譲ったという変わり者で、

「生涯で65回の合戦に参加し、65箇所の傷を受け、70枚の感状を賜った」

と言われる武勇を誇る一方で、政治手腕にも優れた人物です。

立花四天王筆頭と言われています。

 

この惟信に見出された小野鎮幸も「剛勇にして智謀あり」と言われた知勇兼備の武将で、

「生涯に22回の大戦、数え切れないほどの小戦に参加し、

全身に67箇所の傷を受け、68枚の感状を賜った」と言われています。

鎮幸も立花四天王の1人として名高い人物なのですが、

後に豊臣秀吉が賞賛した「日本槍柱7本」と呼ばれる7人に選ばれています。

この日本槍柱7人は「家康に過ぎたるもの」と言われた本多忠勝(ほんだ・ただかつ)や、

大阪の陣で活躍し昨年の大河ドラマでも有名な後藤又兵衛(ごとう・またべえ)、

2009年の大河ドラマや「愛」の兜で有名な直江兼続(なおえ・かねつぐ)など、

そうそうたるメンバーですから鎮幸ももっと評価されてもいい武将だと思います。

 

なお、由布惟信と小野鎮幸の2人は「立花双璧」と呼ばれた立花家の重臣です。

彼らが仕えた立花宗茂は関が原の戦いで西軍(石田三成側)で戦ったため改易され、

各地を放浪しながら浪人生活を送ることになります。

立花双璧の1人である由布惟信は主人・宗茂に従い放浪生活を続けます。

徳川家康にその才能を認められていた宗茂は江戸で家康の嫡男・秀忠の側近となり、

後に陸奥棚倉藩主(今の福島県白河郡棚倉町)となりますが、

江戸で秀忠の傍に仕える主人に代わり、棚倉藩の行政を担当したのが由布惟信です。

息子の惟次(これつぐ)は宗茂が筑後柳川藩主(今の福岡県柳川市)となると、

柳川藩の内政・外交の担当として重きを成し、由布家は立花家の重臣として代々仕えることになります。

 

立花双璧のもう1人、小野鎮幸は主人・宗茂に従わず九州に残ります。

ただ、これにはきちんとした理由があります。

関が原の戦いで負け、浪人となった宗茂は家臣を養うことができなくなります。

ほとんどの家臣が新たな主人である加藤清正(かとう・きよまさ)へ仕えることになりますが、

この清正に仕えた元立花家臣団のまとめ役が鎮幸だったわけです。

鎮幸は各地を放浪していた主人・宗茂に度々金を送っていたそうですから、

やはり立花家重臣だった事は忘れれなかったのでしょう。

鎮幸はそのま清正の家臣として亡くなりますが、

宗茂が柳川藩主として九州に帰ってくると鎮幸の子孫は柳川藩に呼び戻され、

代々家老を世襲したそうです。

 

で、今回の話題だった小野成幸(おの・なりゆき)は小野鎮幸の従兄弟で、

1593年の文禄の役における碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)で亡くなった武将です。

朝鮮を奪還しようと南下してきた明軍と、

その明軍を迎え撃った小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)率いる日本軍の戦いだったのですが、

この迎撃の先鋒を担ったのが立花宗茂が率いる立花軍です。

立花軍における先鋒隊長が小野成幸で、いわば真っ先に敵兵に突撃する切込み隊長です。

この戦いは苛烈だったようで、

成幸は傷を受け邪魔になった鎧の袖を切り落としてまで戦いました。

この袖なしで戦っていた成幸を見た宗茂が「袖がない具足(鎧)は見苦しい」と言って、

自分が使用していた鎧の袖を成幸に与えたそうです。

これが今までは「そういう話があったらしい」と言われていた件なのですが、

今回の発見により事実だった事が証明されたわけですね。

 

なお、宗茂は「見苦しい」と言ってはいますが、

実際には激戦に身をおく成幸を思いやってのことだと思います。

なにせこの鎧の袖、安物の鎧の袖ではありません。

立花家の主人である大友宗麟(おおとも・そうりん)が、

宗茂の父である立花道雪(たちばな・どうせつ)に与えた具足で、

「金白檀塗色々威壺袖(きんびゃくだんぬりいろいろおどしつぼそで)」という物です。

この具足は大友家が柞原(ゆすはら)八幡宮へ寄進した重要文化財の、

「金白檀小札浅葱糸威腹巻(こざねあさぎいとおどしはらまき)」と作り方が同じ物。

もし袖だけではなく胴体の部分もあれば、重要文化財になると言われています。

 

立花宗茂はもっと評価されても良い武将だと思うのですが、

伊達政宗と同じように戦国時代の後半から活躍しだした武将のため、

どうしても織田、豊臣、徳川の3人に知名度で負けてしまいます。

伊達政宗のように大名であれば少しは違ったのでしょうが、

立花宗茂は大友家の家臣ですからね。

その更に家臣である小野氏の事なんて、物好きしか知らないような武将です。

ただ、エピソードは色々あるんですよね。

正直ね、大河ドラマでやったらどうだろう?と思うんですよ。

大友、竜造寺、島津の3大名を扱った九州三大名とかね。
まぁ大友家は戦国中期から後半に差し掛かるぐらいで事実上の滅亡ですから、

そこから立花家のエピソードに変えるとか?

今の大河ドラマも悪くは無いのですが、

元々井伊直虎には大した話題やエピソードがありませんからね。

何だか無理して薄い話を一生懸命引き伸ばしているようにしか見えません。

何せ地元の浜松市民だって、大河ドラマになるまで直虎なんて知らない人ばかりでした。

間違いなく、大河ドラマが終わったら忘れられるキャラですよね。

篤姫が何をした人だか、詳細に覚えている人はどれぐらいいるでしょう?

新島八重とか杉文って誰だか覚えています?

篤姫と新島八重の間には江姫がいたのですが、覚えていますか?

ただ、10年前の「巧妙が辻」の千代は覚えていますから、

題材よりも脚本の問題も大きいとは思いますけどね。

最近の大河ドラマでもファンタジー要素が多すぎる作品は面白くないですからね。

まぁ、真面目に平清盛を作ったら「画面が汚い」(華やかさが足りない)と評価が低かったみたいですが、

結局のところ大河ドラマを見る層の歴史に対する知識レベルが低すぎて、

真面目に作ると難解すぎて理解できないのでしょう。

残念ですが、それが現実。