ポーランドの誇るナクソス系指揮者アントニ・ヴィト。ここんとこ私の中でのヘビーローテーションです。少し前にもペンデレツキのようなマーラー云々とか書きましたが、今日はペンデレツキのようなチャイコフスキー。悲愴の最終楽章。特に7分当たりからのクライマックスは、聞いたこともないような壮絶な響きです。現代(ポーランド)音楽のエキスパートならではの音響と言えるのではないでしょうか。
http://www.youtube.com/watch?v=KZqQipeOzpU
 本田のPKを止められなかったオーストラリアのキーパーの談話が出ていました。本田のPKは(当然)研究していて、真ん中に蹴ってくるのは分っていたけど、(自分ではない何かの力に押されるように)飛んでしまった、だって。 
 あのPKの場面というのは何とも不思議な時空上の特異点であったかのようです。敵も味方も、現地のサポーターもテレビの前の視聴者も、敵のゴールキーパーも含めて、当事者みんなが真ん中に蹴ってくると分っていて、案の定真ん中に蹴りこんで、それでも決まってしまったという。それを「本田の強心臓が日本を救った」とは何たる後付け。

 何で人間というのは、全くの偶然(説明のしようのない出来事)を、(確固たる)原因と(その必然的な)結果という枠組みに押し込んで話を作ってしまうのでしょう。およそ出来事というものは、ある必然として起るものなのか、偶然の連鎖にしか過ぎないものを、人は「原因(目的)と結果」という枠へと押し込んで見ようとする傾向があるのか?ヒュームやカント以来の哲学的難問をあらためて突きつけられたかのようです。

(閑話休題)

 『将棋世界』の最新号にコンピュータ将棋選手権(電王戦)を戦った(そして敗れた)船江、佐藤両棋士のインタビューが載っていました。深いところまで誠実に話してくれていて非常に好感が持てる内容でした。プロ棋士がコンピュータの指し手をどう感じているかが良く分ります。

 船江氏の言葉で印象に残ったのが、「コンピュータは勝負手を指さない。」というものでした。勝負手をくり出す、というのは、少し不利になった方が、このまま普通の手を指し続けても挽回の可能性がない、と悟った時、(相手が間違えてくれることも期待して)普通の読み筋にはないような手(恐らく最善手ではないんだろうけども局面を混沌とさせるような手)を選択することを意味します。
 こうした所謂勝負手は、ある意味無理を承知で指す手であり、相手に最善手で応接された場合にはむしろ負けをはっきりさせることになる手でもあります。有利を自覚している相手をヒヤッとさせたり焦らせたりすることで逆転を狙おうとする、いわば人間の心理に働きかける手であり、心を持つ人間同士の戦いならではの手であると言えます。

 心を持たないコンピュータは、当然、自ら負けを早めるような手(相手に最善手を指されたならば悪手にしかならない手-コンピュータは当然相手は最善手で応対してくることを予想している)を選択することはありません。コンピュータは、人間ならばあまりに受け一方で屈辱的なためとても指す気にはなれないような手(所謂「土下座をするような手」)でも平気で指してくる(その手がその局面で最善と計算されるならば)ということです。

 コンピュータが「最善」と判断する手は、勝つ「可能性」が一番高い手です。(プロ棋士の実戦譜を「学習」して、勝つ確率が一番高くなる手を計算するようプログラミングされています。)また、概して、コンピュータソフトは「攻め好き」です。人間(プロ棋士)から見ると、ちょっと無理なのでは?、と思えるような強引な攻めを平気で仕掛けてきます。これが意味することは、将棋は攻めている方が勝つ確率が高い、ということなのでしょう。そしてこのことは、「攻めている方が勝ち易い」というプロ棋士の感覚とも一致しています。

 そもそもコンピュータは、プロ棋士の棋譜を見て勉強してきたわけで、そこから「攻めている方が勝つ可能性が高い」という「教訓」を学んだとしても、ある意味何の不思議もありません。勿論、コンピュータも、この攻め(仕掛け)はうまくいかない(「切れてしまう」)、と判断すれば決して仕掛けては行きません。そんな時は、人間だと(プライドが邪魔をして)なかなか出来ないような「露骨な」手待ちを繰り返して平然としていることもあります。 

 (今のソフトは大体20手先の局面まで計算しているということです。全くの素人の私の推測に過ぎませんが、もし20手先の局面で攻めが続いていれば(攻め続けることが出来ていれば有利なポジションにいるということになるので)、ソフトは仕掛ける結論を下すのではないでしょうか。)

 攻めて勝てないことがはっきりしていれば、コンピュータは決して攻めることはありません。徹底的に受けに回ってチャンス(相手のミス)を伺います。ただし、コンピュータのファーストチョイスはあくまで「攻め」である以上、コンピュータが受けに回ってきたことは自らの不利を自覚していることを意味します。そうなった時自信を持って攻めきれるか、が人間がコンピュータに勝つ秘訣だ、とはまた船江氏の言葉です。

 ここで面白いのは、攻めている方が有利、というプロの「感覚」は、客観的な「棋理」によるもの、というよりは、むしろ人間的な要因に基づくものであるということです。
 このことに関して、渡辺竜王がつい最近、角換わり腰掛銀について言っていたことが印象に残っています。角換わり腰掛銀の将棋というのは、先手の攻めがやや強引で細く見えるにも拘らず先手の勝率が高い戦型です。竜王は、はっきりと、この戦型では、仕掛けた瞬間の先手番の攻めは少し無理気味で、一旦は先手不利になる、と言っていました。後手が最善の応接をすれば、恐らく先手の攻めは切れているという判断のようでした。
 (ただ後手側の「最善の応接」の具体的な手順を明確に見出しているわけではないようです。それが何かを今はっきりと示すことは出来ないが、「もし」後手が最善の手順で応接すれば、という話です。)

 しかし、とここからが面白いところですが、実戦においては、先手の攻めは(ある程度)続くので、後手がどこかで受け間違う確率が高くなる、よって(「将棋」というよりも)「勝負」の結果としては先手の勝率が高くなる、というのが超現実主義者である渡辺竜王の見方です。(理論的に厳密に言えば無理なんだろう(不利になるんだろう)、と内心思いながらもこの戦型で先手番を持って仕掛けて行く竜王の姿を想像するのも楽しいものです。)

 角換わりは元々王様の守りが薄いので一手の誤りが負けに直結しやすい戦型です。もし最善手で応接し続けることができるならば後手が有利になるんだろうけど、実際には先手の攻めをノーミスで受けきることは困難なので、勝率という観点からは先手が有利となる、というのは、「棋理」ではなく相手の間違え易さという要因(人間とは間違えるものであるという現実)を重視した、ある意味極めて人間的な判断です。

 しかし、どこか矛盾しているようでもありますが、これはコンピュータソフトの判断でもあるのです。コンピュータが「最善手」を判断する基準が、勝つ「確率」の一番高い手というものであり、その最善手の判断方法はプロ棋士の棋譜から学んだもので、大元となるプロの実戦では攻勢を取った方の勝率が高い、ということになれば、コンピュータが攻撃的な棋風となることは論理的なこととも言えます。

 攻撃側が有利、という現実にあえて理屈をつければ、受けている側というのは大抵自分の王様の近くで相手の攻め駒に応対しているわけで、もし一手悪手を指して受け間違うとたちまち王様が危険に晒されることになるが、それに対して、攻めている側は、通常自分の王様からは離れた攻め駒で相手の王様を追い詰めて行くので、仮に攻め手順を間違えても、それで自分の王様が危うくなるわけではない、などと言ってみることはできるでしょう。
 (コンピュータにしたところで、常に「最善手」で受け続けることができるとは限りません。受け間違う、あるいは最善とは言えない手で応接する可能性は少なからずあるわけです。コンピュータが計算する「最善手」は、あくまで最善である可能性(勝利に結びつく可能性)が一番高いと推測される手であり、その手が、神のみぞ知りえるその局面における絶対的最善手と一致しているのかどうかは、人間たる我々には勿論、コンピュータにしてみたところで、知る由はありません。)

 しかし、この理屈に対しては、攻撃側が取ることなる「リスク」を強調して反論することもできそうです。サッカーでも格闘技でも攻勢を取る側は同時にリスクをしょいこみます。攻めに出た瞬間一番守りが手薄になり、相手のカウンターを食らう危険は高まります。将棋でも同じです。攻めて行く側は、自らの陣形を崩し、先に駒損をすることになります。

 将来コンピュータ将棋が更に強くなり、人間のレベルを遥かに超えてしまったら、もう人間の棋譜から学ぶことはなくなり、コンピュータ同士の対戦から学んだコンピュータ独自といってよい手ばかり指すようになったならば、その時コンピュータの棋風はどのようなものになっているのでしょうか?(その時にも今のような攻撃型の棋風のままでいるのでしょうか?)その時コンピュータによる「最善手」の判断基準はいかなるものとなっているのでしょう?

 昔大山名人は、将棋とは良い手を指した方が勝つゲームなのではなく、悪い手を指した方が負けるゲームなのだ、と言いました。(将棋というのは、お互い最善手を指し続けると、実は引き分け、っていうゲームなのかもしれない。そんな気がしてきた今日この頃です。)
 とりあえずブラジル行けてよかったです。結果オーライ、ってところはありましたけど。とりあえず。
 それにしても本田がボールを取ってPK蹴りに行った時には正直嫌な予感がしました。こいつはまた絶対ど真ん中に蹴るんだろうな、って思いましたもん。と思ってあのPKに関するネット民のコメントをちょっと見てみると、みんな、俺も真ん中蹴ると思ってた、と言っているようです。どうもあの場面で、オーストラリアのキーパー以外は全員真ん中に蹴ってくると思っていたようです。完全に読まれてましたね、キーパー以外には。
 あそこでど真ん中に蹴りこめる本田のメンタルは凄い、なんてコメントを寄せてる人もいましたが、あれはメンタルが強い、っていうことなんでしょうか?まぁあそこで、俺が蹴る、って出ていけるってのは凄いと言えば凄いけど、それもメンタルが強いってことなのかどうか。出て行ってはみたものの、って感が漂ってましたもんね。あそこで、右にせよ左にせよ、隅を狙って枠内に収める「メンタル」が本当にあったのかどうかは定かではない、ってのが真相に近いような気がします。取りあえず枠内に収めるには真ん中蹴るしかなかったみたいな。まぁ良かれ悪しかれあそこでど真ん中に思いっきり蹴り込めるのは本田だけでしょうけどね。
 オーストラリアチームの誰かが冷静に、本田はこんな時真ん中にしか蹴れない、とキーパーにアドバイスしていたら結果は変わっていたかもしれません。真ん中にしか蹴れないところで真ん中に蹴って、それでヒーローになっちゃうんだから、やっぱり「持ってる」人なんでしょうね。ブラフがはまる人です。
 それにしても、ワールドカップに行ける、行けないの境目がこんなところにあったのかと思うと恐ろしくなる限りです。物凄く危ない橋渡っちゃってたんだなって感じですね。正直あの時は遠藤に蹴ってもらいたいと思ってました。(まぁ彼も前はずしてるけど。)なんてこと言っても、全ては結果オーライってことになっちゃうんですが。でも次は遠藤蹴ってね。本田は心臓に悪いから。(まぁこれは本田への賛辞ともなるわけですが。)
 (かたや、今頃オーストラリアのキーパーは、俺何で飛んじゃったんだろう、って思ってんのかも知れません。冷静に考えりゃ、本田があそこで隅狙って蹴れるわけねぇじゃねぇかって。畜生あの野郎はったりかましやがって、なんてね。)
 昨夜BSで、ラトル、ベルリンフィルがザルツブルグからバーデンバーデンへとお国変えして初めてとなるイースター音楽祭で上演した『魔笛』をやっていました。演出はロバート・カーセンでした。
 カーセンの演出では今まで『フィガロ』や『サロメ』なんかを見たことがありましたが、照明を綺麗に使ったスタイリッシュな舞台、という印象しかありませんでした。近年人気、評価ともに急上昇中の演出家なんでしょうが、ステージ作りの美しさ以外の部分で、作品解釈上の斬新さといったものに感銘することはなかったということです。(ひょっとしたらいろんなポイントを見逃して来たのかもしれませんが。)ところが今回の魔笛の演出は、この混然として首尾一貫性を欠くように思えるオペラに、妙にすっきりとした一貫性を与える独特のものとなっていました。それが良いのかどうかは別問題として。
 カーセンの解釈では、夜の女王とザラストロはオペラの最初から最後までずっとグルで、二人してタミーノとパミーナに試練を与え、成長した(啓蒙された)両名からなるカップルを作り上げ、自分たちの共同体(あるいは「階級」)に迎え入れるという計画を遂行していたのだ、ということになっています。夜の女王の国とザラストロの神殿は別個のものではなく、同じ住人からなっています。全ては若者を啓蒙し成長させるためのプログラムで、例えばザラストロを殺すように娘(パミーナ)にナイフを渡して迫る有名な夜の女王のアリアのシーンも、(母親の)不当な命令に自分の意思で背き自律した人間へと成長することを目的として仕組まれた一種の教育プラン、ということになります。このように全ての試練(事件)がザラストロと夜の女王との間で予め策定されていた教育プログラムに沿うものであった、と解釈すると、この魔笛というまとまりの悪いオペラが驚くほど整合性を持つもの見えてきます。これは大きな発見でした。
 この夜の女王とザラストロが実はグルだった説、というのがカーセンのオリジナルかどうかは知りません。しかしそう考えるとすっきりする部分が多くあるのは事実で、その点ではそう考える手があったか、と納得(感心)させられた演出であったことは確かです。しかし、こうして得られた首尾一貫性にもかかわらず、今回の演出による上演は、このオペラにまつわるまた別の問題点(矛盾点)を目立たせる結果に終わっていました。
 (続く)
 昨日の夜中にBSでカラヤンのドキュメンタリーをやってました。特に見るつもりはなかったのに見始めると面白くてついつい最後まで見てしまいました。カルロス・クライバーのドキュメンタリー(これもBSでやってましたが)を作った人が、その評判が良かったためか、同じような手法を今度はカラヤンに応用してみた、ということでした。生前のカラヤンのいろんなVTRを様々な関係者達(一緒に仕事をした録音技師やベルリンフィルのメンバー、アンネ・ゾフィー・ムターなど)に見せて彼らのコメント(リアクション)を繋げていくというやり方です。
 恐ろしく細かいところまで録音の調整(修正)にこだわるカラヤンの完璧主義者(あるいは偏執的なまでのコントロールフリーク)ぶりにはある種の感動を覚えました。見栄っ張りは見栄っ張りだったようですが、常人とは比較にならない高いレベルの矜持をもって仕事をしていたことは事実のようです。鼻持ちならない自信家ではありましたが、それを正当化するに十分なエネルギーと情熱を注ぎ込んでいました。それだけに彼の晩年のインタビューやエピソードには痛ましいものがありました。健康の悪化とそれによる能力の低下、かつて出来たことがもう出来なくなってきたという自覚は、これまた常人の想像を超える程に彼の内面を破壊してしまったようです。
 晩年のカラヤンは自らがもう自信を失ってしまったことを隠そうとしていませんでした。彼が行った最後の練習についてのエピソードを語っていた人がいました。その時カラヤンは最後の音が消えた後も固まってしまったかのように暫く指揮棒を動かさず、そのままバトンを落とし、異常に気付いた団員が人を呼びに行ったそうで、次の練習にはもう現れなかったとのことでした。これが「帝王」の最後だったとは。最近はカラヤンを聞くこともありませんが、久し振りにいろいろ聞いてみたくなりました。残念ながら、カラヤンは今では、死んでから聞かれなくなった演奏家の一人という位置付けになってしまっているようです。いつの日か再びカラヤンブームが起こることがあるのでしょうか。まぁあの豪華絢爛絶頂期のカラヤン・ベルリンフィルサウンドを折に触れ懐かしんで聞いてみたくなる人は少なくないのでは、とは思われます。
 ムターが語っていたのですが、カラヤンの生誕100年を記念したコンサートが催され、小澤とムターとベルリンフィルが共演したそうです。小澤がカラヤンのような音を出していた、とムターが言っていましたが、これは素直に褒め言葉ととっていいのかどうか?そのコンサートの映像がありました。これだけではカラヤンの音かどうかは判別のしようがありませんが。
 http://www.youtube.com/watch?v=cUPxjneFEMY
 ここんとこ昔買いだめしていたナクソスのルトスワスキシリーズ(ヴィト指揮)を聞くことが多くなっています。ヴィトの作り出す音響とルトスワスキのマッチングが絶妙だなぁと感嘆することしきりの毎日なのですが、今日偶然見つけたサロネン指揮、ルトスワスキ交響曲第4番のライブ映像もまた神ががり入魂演奏でした。サロネンは来日公演でもこの演目を披露したかのように承っておりますが、これは是非とも生で聞きたかった。ヴィトよりも洗練されたスマートな響きですが決して軟弱ではありません。ヴィトが鉈でなぎ倒していくようなタイプとすると、サロネンは剃刀の切れ味、ってところでしょうか。それにしてもサロネンもさすがに歳をとってきたなぁ。さすがに味のあるじじいになってきました。かっこいいです。
https://www.youtube.com/watch?v=STq69crFq5g
 ウゴルスキがメシアンの鳥のカタログを演奏している動画を見つけました。
 七色の音色、、蛸吸盤奏法、ピアノ界のお茶の水博士といった異名とともに一世を風靡したウゴルスキが、彼の若き日に夢中になって弾いていたという鳥のカタログのライブ映像です。今は昔大阪に住んでいた私は、このレパートリーを聞きたくて鎌倉まで出かけていった思い出があります。懐かしい。七色どころか何色あるのか分らない音の洪水です。音色の幅の広さ、という点では傑出したピアニストだと思います。是非聞いてみてください。かなりの衝撃映像ではないでしょうか。常人ではありません。

 http://www.youtube.com/watch?v=u31jEOm0IjM
ヴィト、ワルシャワフィルのポーランド軍団がキーシンを支えるショパンのピアノ協奏曲第2番。お国もの、なんて言葉から想像されるような牧歌的な演奏ではありません。19世紀、20世紀と大国ドイツ(プロシア)、ロシア(ソ連)に翻弄され続けたポーランドの近現代史に思いを馳せざるをえない政治的演奏(?)ではないでしょうか。戦車のようなロシア人ピアニストを支えるポーランドのオケと指揮者、という作ったような構図。これも歴史の狡知というものでしょうか。歴史と政治から完全に切り離された純粋な「音楽」なんてものが有り得るんだろうか、などという形而上学的問いを突きつきているかのようでもあります。
https://www.youtube.com/watch?v=G6hz88RL9pI
 昔、結構CDを買いまくっていた頃、何かのきっかけで気に入った演奏者ができると集中的に買い集めたりしてました。たまたま聴いたナクソスのマーラー6番が良かったので(その頃はマーラーの6番ばかり聞いていたような)その指揮者だったヴィトの他のCDも結構集めて聞きました。と言ってももっぱらナクソスでしたが。マーラーでは5番とか8番とか。あとお国もの(ポーランド)のルトスワスキとかペンデレツキとか。
 最近ひょんなきっかけから聞き直しているのですが、実に良いです。ちょっとしたマイブームです。もっと買っときゃよかった。
 ルトスワスキとかペンデレツキとか20世紀の荒波に弄ばれたポーランドを象徴するような現代作曲家の作品を多く取り上げていることもあるのでしょうが(勿論ナクソスの企画なんでしょうがヴィト本人の思い入れとか使命感も込められているように思います)、非常に「厳しい」音響が特徴です。妥協のない音と音のせめぎ合い、という感じです。同じ現代音楽系と言ってもよいかもしれませんがギーレンなんかと感じが似ているような気がします。ただ現代音楽系といっても(因みにロヴィツキの弟子筋ということです。)スクロバほど上品じゃないし、ギーレンほども洗練されていません。もっと野卑って感じでしょうかね。よい意味で。野暮でも素朴でもありません。剥き出しの現代ポーランド、なんでしょうね。
 マーラーの8番の最後のところがありました。ペンデレツキのようなマーラーです。

http://www.youtube.com/watch?v=qMiNk54qPno
 
『国家と人権』(集英社新書)は、素人が聞き手を務めるインタビューと書き下ろしエッセイを取りまとめた安易と言えば安易な作りの本ではありますが、ジジェクが扱ってきたトピックがほぼ網羅された絶好の入門書のように思えます。

 ジジェクにとってのポストモダン社会とは、今のアメリカに代表される「何でもアリ」となった(あらゆるタブーがなくなり、全てが許されることになった)社会のことです。全てが許される、というよりも、更に、自由であることが強制されている社会、と言ってもよいかもしれません。サルトルの言葉を借りれば、主体が「自由の刑に処せられている」社会ということになるのでしょう。

 中・近世の身分制が打倒され、近代(モダン)が始まった当初には、「自由」は熱狂的にもてはやされた価値でした。しかし、近代が進展し、「自由」が次々と伝統的な価値規範を破壊していくにつれ、私たちは自分自身がよって立つ確固とした基盤をも掘り崩していったのです。
 ポストモダン時代の私たちは、自由を求める以前にもう既に自由であり、そうあることを強制される社会の中に生きて(投げ込まれ、生かされて)います。表面上は(建前としては)「自由」は、いまだに「善い」言葉です。しかし、本音では(無意識的には)私たちは自由であることにもう疲れてしまっているのでないでしょうか。全てが自由であるということは、全てを自分で「選択」しなくてはならないということです。その選択が正しい、という保証も自信もないままに。
 『国家と人権』から引いてみます。

「頼りがいのある確固たる基礎を提供するような「自然」や「伝統」など存在しない。最も内面的な衝動(性的嗜好など)さえ、選択的なものとして経験されるという傾向が強まっている。子供を養い教育し、性的誘惑を行い、何をどのように食べ、いかなる方法でリラックスし娯楽に興じるかといった分野は、日に日に反省され、教訓を得た上で決定するものとして体験される。しかし、知識と決断のギャップにこの社会の最終的な行き詰まりが潜んでいる。」

「我々は常に、確固たる知識を持たずに人生を運命づけるような事柄について決定を迫られる。自由な決定という義務は、解放的な気分を与えてくれるどころか、不安を呼び起こすギャンブルのような体験になる。私は状況をきちんと把握しないまま迫られた決断について責任を問われるのである。...こうして主体は、何に対して責めを負っているのか(そもそも罪を負っているのだとすれば)さえ理解できない、というカフカ的状況に置かれていることに気付く。」

「(ポストモダン社会の)主体が享受する選択の自由とは、運命を自在に決定することの出来る者の自由ではなく、引き起こす結果を知らずに判断を強制された者が不安を駆り立てられるような自由なのだ。」

 にもかかわらず、私たちは自由を強制され続ける。この問題と関連して、アベノミクスが進めようとする「雇用形態の自由化」対してジジェクが先取り的に批判しているともみなせるところを最後に引いておきましょう。

「統治的(支配的)イデオロギーは、福祉国家の解体によって引き起こされる不安感を、新たな自由が得られる機会として売りつけようとしている。「長期的に安定した職に代わって短期契約に頼り、毎年のように仕事を変えなければならない(という不安をかんじるのですか)?」「それなら、固定した職という束縛から解放されることで何度でも自分を再啓発し、隠されていた自分の可能性を見つけ、発展させるチャンスとして捉えてみたらどうですか。」」

「安定した職を失うという窮地に立たされて不安を感じるあなたを、ポストモダンの思想家は間髪入れずに批判するだろう。完全なる自由を受け入れることが出来ず、自由から逃避し、変動しない古い形に幼稚にも固執していると。(この部分では思わず宇野常寛のことを思い浮かべてしまいました-筆者)このように批判された時、主体は、自分が市場の力によってはじき飛ばされているという事実ではなく、「自由」であろうとしない自分の人間性の方に問題があるのだ、と解釈してしまうのである。」