(『国家と人権』より)

「今の時代は面白い。興味深い時代であるだけに、何らかの革命を起こさねばなりません。倫理的、政治的な大変革です。そうでもしなければ破滅が運命づけられていると私は感じています。」

「従来の知恵では不十分ですね。西洋の、または東洋の教えによれば、「自分の内側を見つめなさい」ということになります。とんでもない。そうすれば、ずたずたになった先人の思想に直面するだけです。賢明な名言が説くのは、「何をしようが、自然は不変だ。命は受け継がれる。」という自然界への信頼ですが、現在では生活世界そのものが脅威にさらされています。何しろ、私たちは自然を破壊するかもしれないのですから。」

「ヨーロッパにおいては通常、自然は調和がとれた閉回路である、人間が異常なのだ、という対立概念が浸透しています。とんでもない。自然界の歴史こそ、大惨事の物語です。悲劇など珍しくありません。人類だって大規模な異変のあとを生きている事実を、私たちはどれだけ意識しているでしょうか。」

「私達の主なエネルギー源は石油です。石油とは何でしょうか?アラブ諸国に石油があるということは何を意味するのでしょう?私好みのパラノイア的な仮説は、地軸が変わり、北極が別の場所にあったというものです。...人類について、単純な進化論的な説を展開しがちですが、そうではありません。環境に激しく左右されてきたのです。異変によって滅びた多様性があったのではないでしょうか。私達こそ、滅亡が決定づけられた行き止まりの一つでないとも言い切れません。」

「まずすべきことは、私たちの存在がいかに条件次第であるのかを自覚することです。私たちは世界の中心になどいません。誕生が偶然だったのですから、間違って消えてしまうかもしれないのです。そのことを受け止めるべきです。」

「自らの偶然性を把握するというのはラカン派の理論における、「大文字の他者は存在しない」ということですね。我々の成功は保証されず、目的などない。これこそがラディカルな唯物主義が行き着く先ではないでしょうか。唯物主義とは、物質的発展へのナイーブな信頼などではなく、現実の完全な偶然性を受け入れることだと思います。今の状況はこのようなものだが、全く違っていたのかもしれません。」

「私にとっては、量子力学でさえ、非常に唯物主義的に思えるのです。均衡が失われたことから宇宙そのものが始まったという基本概念に基づいていますね。ほんの少し調和を乱すだけで、非対称から全てが生まれたというのは、壮大な計算違いということになりませんか。ここから学ぶことは重要だと思います。」

 才色兼備のサラ・オットがカメラの前でベートーベンのワルトシュタインソナタを弾き始めます。と突然誰の声かと思うようなおばちゃんボイスが割り込んできますが、これが何とアリス・サラの地声でした。ちょっとイメージ違いました。天は二物を与えても、三物も四物も与えるわけではないということでしょうか。まぁ二物ですでに十分過ぎですが。
http://www.youtube.com/watch?v=pGg3VZPYieM
 自分というのはひょっとしたら自分の中というよりむしろ自分の外にあるものなのではないか。自分が本当にやりたいこと、自分が本当に求めているものは何なんだろうか、ということを突き詰めて考えてみると、実は何にもないこと、自分というものが実は空っぽなものであることを思い知らされます。だから結婚したり、子供を作ったりするんでしょう。(最初はカミさんのために頑張る、カミさんに対する幻想が崩れた後は子供のために頑張る。)家族のためとか子供のため、なんていう支えがないと、自分自身が働いたり、生き続けていくことができなくなることを意識的にか無意識的にか知っているのでしょう。家族のため(とか会社のため)なんていう一種の言い訳を剥ぎ取った後、自分に残るものって一体何なんでしょう。

 私がジジェクを読んで面白いと思うのは、彼がこうした人間という存在(人間の欲望)の外在性、といったものを前提に議論を進めているからです。人間の欲望というものは根本的に他者への欲望、他者の欲望、他者としての自分の欲望であり、言ってみれば他人への羨望、嫉妬、ジェラシーに基くもので、自分自身とか本当の自分なんてものを突き詰めて考えてみれば、驚く程空虚なもののように思えます。本当の自分なんてどこにいるのでしょうか?
 前回に引き続き、彼の『国家と人権』からいくつか引用してみます。

「ルソーにとって、悪人とは、自身の利益だけを考えるエゴイストではない。真のエゴイストは自分にとっての善を追求するのに手一杯で、他人に不幸をもたらす暇などない。悪人の主たる悪徳とは、まさに自身ではなく他者への思いに捕われている点なのである。...もはや自分自身の幸福によってではなく、他人の不幸によってのみ満足させられるのです。」

「対象へのリビドー備給(対象を求める自身の欲望)が、対象物の(他者による)入手を妨げることへと転換する。平等主義を額面通り受け取るべきではない理由はここにある。「私には自制する覚悟ができている。他者もまた対象物を手にしない(できない)ように!」私の犠牲によって他者の享楽を奪うことができるのならば、自らの福利さえも無視する決心ができるのだ。」

「イスラム原理主義のテロルは、自らの優越性を信じ、グローバルな消費主義の文明から文化的、宗教的アイデンティティを守り抜こうというテロリストの信念に根ざしているのではない。彼ら自身が密かに劣等感を抱いていることにあるのだ。そのため、「優越感などもっていない」と我々が見下すように彼らにポリティカリー・コレクトな言葉を向けたところで、彼らは一層立腹するだけであり、ルサンチマンの火に油を注ぐことになってしまう。」

「問題は文化的な差異ではなく、正反対の事柄である。もはや彼らも我々と同類であり、こちらの基準をこっそりと採用し、自らに適用している。原理主義者らが本当に欠いているのは、自らの優越性を信じるための「真の意味で人種差別的」な要素である。」

「エゴイストの自己愛と本当に対立するのは、公共の善を考慮する利他主義ではなく、自身の利益を損なわせるような羨望やルサンチマンなのだ。フロイトはこれをわかっていた。「死の欲動」は現実原則だけでなく快楽原則にも対立している。真の悪(=死の欲動)は、自己破壊を含み、自身の利益を妨害する方向に行動を引き起こすのだ。」

「人間の欲望が孕んでいる問題は、ラカンが言ったように、主体の属格と客体の属格の双方の意味における「他者の欲望」である。他者への欲望、他者の欲望の対象になりたい欲望、そしてとりわけ、他者の欲望の対象への欲望。羨望とルサンチマンは、こうして人間の欲望の構成要素といえる。」

「(善意の魔女に選択の機会を与えられたスロヴェニアの農民に関する逸話。)彼に牛を一頭与えた上で隣人に2頭与えるか、彼から一頭奪った上で隣人から2頭奪うかという選択肢を与えられた農民は、瞬時に後者を選択する。更におぞましいバージョンにおいて、魔女は彼に告げる。「あなたのために何でもしてあげますが、ただし隣人にはそれを二度して差し上げますよ。」農夫は狡賢い笑いを浮かべながら答える。「私の目を一つえぐり取ってください。」

「ニーチェとフロイトが共有している考えは、平等としての正義が羨望に基づいているというものである。それは、我々が持っていないものを独占している他者への羨望である。即ち、正義の要求とは最終的に、享楽へのアクセスが誰にとっても平等になるよう他者の過剰な享楽を抑制してくれという要求になる。当然のことながら、この結果は禁欲主義的なものにならざるを得ない。平等な享楽を押し付けることは不可能であるため、禁止の共有を課すしかないのだ。」

「今日、何でもありの(あらゆることが許容される)我々の社会では、この禁欲主義は正反対の形をとって表れる。「楽しめ(享楽せよ)!という超自我の命令下に皆が置かれている結果、快楽は一層妨げられているのだ。ナルシシズム的な自己満足と、ジョギングや栄養食といった禁欲的規律とを組み合わせるヤッピーの姿を思い浮かべてほしい。これ(ヤッピーの快楽主義的禁欲主義)こそが「末人」というニーチェの概念かもしれない。」

「一体、羨望とは何だろうか?アウグズティヌスの語る、母親の乳房をしゃぶる弟を妬む幼児の光景に立ち戻りたい。主体は、他者による宝物の占有そのものではなく、他者が対象物を享受している姿を羨望している。そのため、対象物を奪って自ら所持するだけでは満足できない。真の目的は、対象物を楽しむ他者の能力を破壊することにあるのだ。」

「羨望は、吝嗇や憂鬱と並んで、対象物を享受できない3形態のうちに数えられるべきである。(勿論、不可能性そのものを味わっていることになるわけだが。)吝嗇家は、対象物を占有しているものの享受、消費できない。所有下におき、聖なる不可触もしくは禁制物として奉り上げることに満足感を得る。対象物の消費を妨げる障害こそが欲望の対象としての位置を占めるのだ。憂鬱な主体は、吝嗇家同様対象物を所有しているが、欲求を抱く原因を喪失している。最も悲劇的なこの人物は、欲しい物が何でも手に入るものの、決して満足できないのだ。」

「羨望の過剰こそが、ルソーによる「自己愛」と「利己心」の区別を決定する。後者は、他者に対して自己を優先することを歪めた形であり、目的達成のためではなく、間に横たわる障害を破壊することに執念を燃やすのである。」

 近所の市立図書館で借りたスラヴォイ・ジジェクの『人権と国家』を読んでみた、というか出た当時一度ぱらぱらとは読んだことがあったのですが、こないだ偶然図書館で見つけ何とはなしに読み返してみました。予想以上に面白かった。この本が出版されたのは2006年です。震災前どころかリーマンショックよりも以前です。そうこじつけてみればよくあること、と言えばよくあることですが、今にして思えばその後の出来事を予言しているかのような箇所が幾つもあり余計面白く感じられたので、ノート代わりの意味も込めて、興味深いところをちょっと抜き出してみたいと思います。(客観的に言っても、ジジェクの関心や主張が良くまとまった本(インタビュー)だと思いました。)
 出版されて暫くしてから(出版当時とは)別のコンテキストの中で(更に言えば後知恵をもって)読んでみる、というのも古本を読む醍醐味ですね。

 ジジェクは、現代の資本主義と市場万能論の問題点に関して、(こじつけて考えれば)あたかも日本の原発事故を予見していたかのごとく、次のように述べています。

「労働者階級のレーニン主義的反乱ではなく、それ自体の論理に従って、現在の資本主義は膠着状態に陥ると思います。...環境問題や大事故について、リベラル派が準備している解答は、環境面への脅威を市場価格に組み込めばよいというものです。(そういえば、昔自動車嫌いの宇沢弘文が自動車の社会的費用、とか言ってましたねぇ-筆者)ところがそれは、極端な危険には対応しません。例えば原子力エネルギーをどう扱えばよいのか?」

「破局的な災害が降りかかった場合に国を丸々復興させる費用を、ある会社に支払わせるのでしょうか。市場価格を論じるなど無意味です。誰かが決定を下さねばなりません。」

というわけであえて全体主義者を名乗る社会主義者、ヘーゲル主義者であるジジェクは国家(しかも世界的規模での国家)の重要性、必要性を説きます。そしてこの国家は必要なことを「暴力」的に遂行する「テロリスト」的国家であるとさえ明言します。

 今日のニュースでは中国から吹き付ける黄砂が、PM2.5と絡めて大きく報道されていました。現在西日本に在住する私にとっては他人事ではありません。実際遠くは明らかに黄砂のせいで霞んで見えます。まさかジジェクがPM2.5まで予見していたとは思えませんが、こんな中で次のような箇所を読むのもまた楽しからずや。

「環境面などを考えれば、我々が直面している究極の選択が浮き彫りになります。誰もが気付いているはずですが、中国には、「発展してはならない、世界を滅ぼしてしまうから。」と告げなければなりません。しかし、逆に、「アメリカはどうなのか。彼らにそう言う権利があるのか。」と返されてしまいます。いくら中国が発展していても、一人当たりのエネルギー消費量を見れば、アメリカがはるかに上回っているのですから。中国はそれなら一人当たりの消費量を定めよう、と反論すべきです。原理的にはアメリカも従わなければなりませんが、無視するでしょう。危機は非常に深刻です。」

「(我々は)理性的には、大惨事の危険性を認識しているのに、腹の底では信じていない。外を見よ、太陽が輝き、自然があるではないか。実際に起きるとは思っていないという構造的な盲点があるのです。」

「ホロコーストはナチスの仕業だ。グーラグ(ソ連の強制収容所)はスターリンのせいだ、と責任を特定するのは容易ですが、資本主義の惨事については、「流してしまおう」と言われる。」

「今日のエネルギーや環境の問題を考えて下さい。ローカルな次元ではとても対応できません。私は強大な世界秩序が求められていると思います。テロリスト的な側面さえ併せ持つかもしれませんが、受け入れるしかないのです。...このまま無限に突き進むことはできない。ある時点でブレイクダウンが起きてしまいます。私にとって真のユートピアとは、「今も悪くないが、もっと良い時代を想像しよう」というものではなく、絶望と関わるものです。現在の状況を続けていては生存できないため、ユートピアを実施するほかないのです。」

 ジジェクはアメリカの大学で講義をしていた頃、よく学生から彼らのプライベートに関わるアドヴァイスを求められ嫌になったそうです。「私は狂人なんだ。狂った人間にそんなこと聞いてどうするんだ。」そんなこと言ってるインタビュー動画を見たことがあります。

(続く)

 
 今日は何故か、ずっと昔に買ったまま殆ど聞いていなかったミカエル・レヴィナス(哲学者エマニュエル・レヴィナスの息子)のベートーベンのピアノソナタ全集を1番から聞いていました。ピアニストのミカエル・レヴィナスは本業作曲家ですが、音響学の専門家ということです。そのためかピアノの原音に何かデジタル処理でも加えているのではないかと思える程の超美音です。(彼のCDは他にバッハの平均律とスクリャービンの前奏曲集をもっていますが、いずれも透き通るような音響美に満ちています。まさに美音に溺れるといった感じです。)
 そんなこんなで今まで聴いたこともなかったピアノソナタの3番を聴くことになったのですが、予想外のすばらしさというか、特にアダージョの美しさは涙ものでした。というわけでyoutubeで3番のビデオを幾つかちらちら眺めてみました。ミケランジェリの映像とかもありましたが、あまり画質(音質)が良くなかったので、短いですが音も画面も(そして何よりピアニストが)美しいアリス・サラ・オットの映像を貼っておきます。とってつけたような宣伝用の映像ですが、美しいものは美しい。1分40秒あたりのカメラ目線に吸い込まれます。
http://www.youtube.com/watch?v=lzDVbXj8Qk8
 
 明けましておめでとうございます。

 テレビではウィーンフィルのニューイヤーコンサート(あ、はっぴーにゅーいやーん、というギャグが何故か頭に浮かびました。)をやっているところです。でも何か物足りない、もっとはっきり言ってしまえば退屈だなぁ、と感じているのは私だけ?今思えば、昔このニューイヤーコンサートでカルロス・クライバーの指揮姿を初めて見た時は衝撃でした。もうあんな経験をすることは二度とないのだろうな、なんて思うと寂しい気もします。
 そう言えば一昔前までは、こんなウィーンフィルのニューイヤーコンサートみたいな「ブルジョア」向けのイベントはけしからん,と言って会場の外で抗議のデモをする若者なんかもいたものですが、今はもうそんなことする学生もいなくなったんでしょうね。それはそれでこれまた寂しいことではあります。「ブルジョア」向けの悪趣味なイベントであることには違いないんでしょうからね。もうこんなこと止めれば良いのに、と内心では思っている人も少なくないんでしょうが、それでも「紅白」のように惰性で続いて行くし、これまた惰性で見ちゃう人も少なくないという。終わりなき日常に終わりが来るのはいつの日のことなのか...
 取りあえずテレビはつけっぱなしですが、時間の無駄のようなつまらない演奏が続いています。(あれっ?何故か突然ヴェルディのドンカルロのバレエ音楽が始まりました。いつの間にかこんな曲も挟むようになってたのね。やってる方もシュトラウスのワルツばかりでは退屈してきたのか。)というわけでシュトラウスのワルツに退屈してきたあなたにシェーンベルクによる編曲バージョン、「皇帝円舞曲」。こっちの方がウィーンフィルのテレビよりずっと面白いという。(と言っているうちにテレビ画面ではバレエが始まりました。これまたなんだかなぁ。)
 https://www.youtube.com/watch?v=K7FXLlCNZUw
P.S.
美しく青きドナウが冒頭観客の拍手で中断されてからのGutes Neujahr、からのラデツキー行進曲、からの手拍子。お約束は健在です。抜群の安定感(なのか何なのか)。これがやりたい、これが見たい、という理由で毎年続いてるんでしょうね。何でこんなことがやりたいんだろう。何でお正月にはこれが見たいんだろう。人間と言うのは不思議な(馬鹿げた)生き物ですね。
 落ちぶれて行く国を象徴するような物心ついて以来最悪の選挙でした。結果以前に、この選挙戦自体に対し虚無感と嫌悪感を感じました。(日本の未来の選択肢ってこんなもんしかないんだ。)
 何より日本という国が益々余裕を失って行くのを感じます。気がついてみると、この国は、取り戻せない何かを決定的に失ってしまっていた...(それは単に民主党だけのせいでも自民党だけのせいでもありませんが...)
 ラヴィ・シャンカールさんが亡くなったとのことです。92歳だったとか。ご冥福をお祈りしたします。ヴァイオリンのメニューインさんとのコラボアルバムを出していたとは知りませんでした。メニューインはグールドとのコラボでも有名ですが、心が広いというか自分の境界を広げていくことに貪欲な人だったんですね。ユダヤというのも西洋から見れば東洋ですからね。メニューインのヴァイオリンとシャンカールのシタール。妙にしっくりきています。
http://www.youtube.com/watch?v=z1yEZ_RIQHU&list=AL94UKMTqg-9CPjKgW3JloeIgXbY3Uiy0E&index=11
 ノンヴィブラートのメンコンなんて...と聞かず嫌いなあなた。是非ともイブラギモヴァちゃんによるこの演奏を聞いてみて下さい。指揮はお馴染みのトンボ親父ことヘレベッヘさんです。出来るだけ高音質で聞いてね。切れ味と疾走感で勝負です。また繊細でもあり情熱的でもあります。これが21世紀的演奏なんでしょう。新しい感性で聞き古した曲から今までとは違った魅力を引き出しています。彼女のバイオリンは明らかに「きれい」とか「豊か」っていう音色ではありませんからね。それでもこれだけ聞かせるってのは大したものです。普通のバイオリニストとは別の土俵で闘っています。
 でもまぁ、こんな薄くてささくれ立った音はやっぱり駄目、という人もいるでしょうね。その気持ちも分からないではありません。
http://www.youtube.com/watch?v=b0EhBqVihEU
 タチアナ・ヴァシリエヴァの演奏をもう一つ。チャイコフスキーのロココの主題による変奏曲。指揮は御大フェドセーエフですが、(ですが、というのもなんですが)文字通りロココ風の軽快なチャイコフスキーです。魅力的なチェロ奏者です。
https://www.youtube.com/watch?v=wsWnOgv6RG8