『わが街,道頓堀 -OSAKA 1970-』 とEXPO'70の思い出 | to-be-physically-activeのブログ

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 今年最後の観劇となるお芝居は,大阪松竹座開場100周年の掉尾を飾る『わが街,道頓堀 -OSAKA 1970-』でした。関西Jr.出身の浜中文一くんと室龍太くんが主演で,綺咲愛里さんが助演のハートフル・コメディー,様々なジャンル出身の関西系の舞台人によるほのぼのとした物語でした。浜中文一くんは,今月末でSmile-up.を退所することを発表しており,俳優として新たな飛躍を期して舞台に臨んでいるようでした。NHKの『大奥シーズン2』でも阿部正弘の兄・阿部正寧役で出演していましたが,今後も映像よりは舞台での活躍を期待したいと思います。

 綺咲愛里さんについては,今年は出演した舞台のほとんどを劇場でフォローできたと思います。年初の『東京ラブストーリー』に始まり,5-6月の薮宏太くんとの『She Loves Me』,10月の愛知芸術劇場の『Rag Time』,今回の『わが街,道頓堀』まで,それぞれの時代の女性の生き様を表現力豊かに舞台で演じてくれました。個人的には『Rag Time』のイヴリン・ネズビット役が出番は少なくともインパクトの強い役として印象に残りました。『わが街,道頓堀』では,1969-70年を舞台にした作品ということで,衣装も当時のレナウン娘のような格好で,万博をきっかけにデザイナーを目指す短大生をキュートに演じていたと思います。

 プログラムの中で,坂東亜矢子さんが「様々な成果を残した1970年の大阪万博」という解説を書いておられます。53年も前の出来事なので記憶も曖昧ですが,坂東さんの文章の中からEXPO’70のデータを引用(一部改変)すると,

「大阪万博は,“人類の進歩と調和”をデーマに,1970年3月15日から9月13日までの183日間にわたって開催され,77か国からの国際機構や政庁,州,都市,企業などが参加。テーマ館以外に計116の展示館(パビリオン)が広大な会場(約330ヘクタール)に建ち並ぶ,当時の万博史上最大の規模を誇りました。総入場者数は,当初の目標をはるかに超える約6422万人。経済効果も約4兆9509億円にものぼる大成功を収めた」

 とのことです。

 個人的にはEXPO’70のときは中学生でした。父親が万博が好きで,7-8回は会場を訪れた記憶があります。当時はまだ米ソ冷戦時代で,アメリカ館とソ連館が宇宙開発でしのぎを削っていた時代でした。それぞれのパビリオンは連日長蛇の列で人気を集めていましたが,私自身は長時間並んでまで観たい展示ではなかったので,女性の裸の映像が楽しめるワコール・リッカーミシン館やオランダ館に何度も足を運びました。当時は女性解放とヌーディズム全盛時代で,今では考えられないような露出度の高い展示も多かった気がします。中学生にとっては刺激の強すぎる万博でした。

 今回の大阪松竹座の舞台『わが街,道頓堀 -OSAKA 1970-』は,万博開催前夜の道頓堀で暮らす人々の交流を描いたコメディー作品でした。開演前には1969-70年に流行したピンキーとキラーズの「恋の季節」,いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」,由紀さおりの「夜明けのスキャット」がBGMで流されていましたが,私自身が一番心に響いたのはカルメン・マキさんの「時には母のない子のように」です。今回のお芝居の内容にも通じるかもしれませんが,母親と生き別れになった子供の孤独と母の愛情への渇望を歌った歌詞が心に蘇りました。当時中学生や高校生にも人気のあったカルメン・マキさんの歌をもう一度聞き直したいと思います。