御茶ノ水の予備校に通っていた頃,神田方面に下って行った先に(旧)文化学院の建物があった。アーチ状の入り口や蔦の絡まる瀟洒な建物が印象的であった。現在も文化財として残されているようなので機会があれば訪ねてみたい。文化学院は,1921年,大正ロマン華やかなりし頃に西村伊作らによって創設された専修学校であり,自由主義と個人の独創性を重んじる教育方針として掲げた歴史的なユニークな学校であった。西村の思想に共鳴して,与謝野晶子・鉄幹夫妻も教師として参加していた。
女性の自己鍛錬,自己修養,人格陶冶を理想として活動した作家・与謝野晶子は,社会活動や教育などに熱心に取り組む一方で,42才まで12回のお産を経験し11人の子どもを育てた鉄女でもある。与謝野晶子の詩集というと『みだれ髪』が有名だが,女性の自立や子育て,教育充実のための実践的活動の歩みについてもっと知りたいと思う。
与謝野晶子の評論活動のことに触れている宗教家の宗正元さんの随筆があったので,本文を下記に引用した。出産と子育ての間も休みなく「人としての立場から思想し」てきた晶子の旺盛な作家活動の歴史が垣間見える。
参考文献:与謝野晶子・著「文化学院の設立について」(青空文庫)
引用文献:宗正元・著『遊歩道記』(63)(1999年発行)
『乱れ髪』に始まる歌人としての与謝野晶子については,これまでも注目していたが,「人とは何か」と尋ね求め続けていった,その生涯については,殆ど関心をはらっていなかったことに,最近,たまたま晶子の評論随筆集を読んで気がついた。
晶子が残している評論随筆集は十冊あるが,その題名をみると,そこに晶子の生涯がそのまま刻まれているようである。
七人の子をかかえていた34才の時に初めて書かれたものが,『一隅より』,次いで『雑記帳』,さらに十人の子持ちになった39才の時には『人及び女として』,
そして十一人目の子を産んだものの生後二日で亡くした40才の時には『我等何を求むるか』『愛・理性及勇気』,次には『若き友へ』,その後12人目の子を産んだ42才の時には『心頭礼拝』『激動の中を行く』,それから『女人創造』『人間礼拝』と続いている。
晶子は,「私は事毎に女性であることを自覚して制作することを望む者では無いのです。・・・出来るだけ“人”としての立場から思想することに由って,男子に対して,良人に対して,我が子に対し,社会人類に対する自分の義務と権利とを誤らないやうにしなければなりません」と『文学を志す若き婦人達に』呼びかけている。
『心頭礼拝』『激動の中を行く』という評論随筆集を出した時に書いた歌集が『火の鳥』だが,その中で,
後の世を 無しとする身も この世にて
またあり得ざる幻(まぼろし)を描く
と歌っている。
旧文化学院正門(Wikepediaより引用)
