祇園と干し柿 20
正しく世界を認識する。そんなことが本当に可能なのだ
ろうかしら。ぼくらは常に偏見から逃れられないのではな
いかと思う。世界などと言わなくても、一個のリンゴを認識
するに、どれほどの言葉を使用すれば事足りるのか、いや
言葉の数よちも、文節のなかみによるものであろうが、こ
んなことを考えると、わけがわからなくなってしまいそうだ。
このへんのところはカントあたりがうまく説明しているのか
もしれないが、あいにく純粋理性批判は買うには買ったが、
現在行方不明になってしまっている。物自体なる概念はた
しかカント氏のものだったと記憶しているけれど、それから
がいけない、あやめもさかぬ、ぬばたまの闇でござる。
てなわけで、身の丈に合わぬ話題は止そう。それがぼく
の結論。やめたやめたムツカシイことを考えることを、いく
ら考えてみてもぼくにはわからない。これはどうやら答えな
んかないことに、答を要求しているようなもんだ。答がない
のに答えを求めるなんて、ばかばかしいことではないか。
果たして、そんな無駄なことに汗をながすよりも、つまり、答
がありそうなことに、わずかなる脳髄の労働をすべきなのか。
さて、その判断が至難の技でありまして、答がない質問な
のか、答が一つなのか、はたまた答えが複数あるのか、そ
れが判然としない。いやはや思考停止あるのみか。