最近瞑想のテーマがよく幼児期の頃です。

昨日は水子で流れてしまった4人兄弟の3番目の子のこと。

今日思い出したのは、末っ子の弟が生まれて数ヶ月の赤ちゃんの頃、弟を抱いたまま母が転んで弟が骨折して入院した時のことや

弟2人を乗せて母が居眠り運転をして、ひどい交通事故を起こして3人とも大怪我した時のこと。

私は両方ともその場に居なくて、だから見てないんだけども、何故かはっきりと映像で憶えている。母が丸まったカーペットに躓いて転ぶところとか、事故でフロントガラスが割れて助手席に座ってた下の弟がボンネットに飛び出したとか。

なんだかよく分からない罪悪感と悲しさで今さら大泣きです。

こんな感情を持ってたんだなぁ。てか、実は昔いろいろあったなぁ。

これを直接経験している母の罪悪感は、きっとものすごい。

そして、とても不思議なことに、私の子供の頃の記憶には、父が不在。ずっと家に居たはずですけど。

父といえば思い出すのは、母が入院している時に父と2人で食べに行った豚カツ屋さんの定食についてたシジミの味噌汁。シジミはアサリじゃないからいちいち食べなくていいって教わったこと。でも確かあの時母は虫垂炎で入院してた。

私が6歳で下の弟が生まれて、すぐに骨が折れて、その後交通事故があって、その後はおじいちゃんが倒れて介護、おばあちゃんも倒れて介護。母は常に睡眠不足でいっぱいいっぱいって感じだったなぁ。

私は小学校の低学年の頃はグズでのろまで、そこから妙に勉強ができて高学年になるにつれ優等生、でも6年生の頃にはすっかり自尊心がなくなってた。もしかしたらメンタル的にはグズでのろまのままだったのかも。

それにしても、父の存在感が薄い。
いわゆる昔の大学教員だったから、週に3日くらいしか仕事に行ってなかったイメージなんだけど。

私の心の何が出てきてるんでしょうか。
よく分からないけど、ま、いいか。



私の言葉は届かない

胸よりも上だけで話しているから。

言葉に根がはっていないのだ。

肚からの声は胸のあたりで堰き止められていて

そこで溢れそうになっている。

肚と繋がろう。





もう探さなくてもいいって

すごく安心。

ここに在るんだって思えることは

私を柔らかく強くする。


私が私に還る。

私が私になる。










自分探しの旅をずっとしてきました。

いろんなものや人に出会って、ちょっとずつ学んで

いろんなワークショップとかリトリートに参加してきたわけです。

人生は前よりもずいぶんと楽にはなったのだけど、まだここに在るってことが出来なくて、なんだかまだ自分のことが本当に好きって思えなくて。

そういうの、なんて言うんでしたっけ?
知識はどんどん増えてくけど、そんな幸せになってないスピな人達のこと。私もそういう人なのかもしれないと思っているのですが

もしかしたら、自分がずっと欲しかったものを見つけたかもしれないです。

アシュタンガです。

私いま猛烈にアシュタンガヨガがしたいです。

毎日毎日練習して、いろんなアーサナが出来る人になりたいです。

そのためには朝5時から1時間ちょっと運転して通うというハードルの高さなのですが、やってみたい😍😍😍

めちゃやってみたいです。

これさえできたら、自分探しの旅が彷徨いの旅から方向性がはっきりした成長の道になるんじゃないかという期待がある。

そんな期待を抱えながら、まずは試してみようと思います。





 
最近ちょっと元気です。
 
毎日太陽礼拝と瞑想してます。
 
ご飯もいい感じ。
 
今ご飯を食べ過ぎないでいられるポイントはタイトルの言葉
 
 
私のお腹はごみ箱じゃない。
 
大切なお腹には、本当に入れたいものをちょうどいい量で入れたい。
 
そう思ったら、食べる量が減った。食べることにケチになった。
 
今のところは、朝ごはんは食べないほうが心地良いってわかった。
 
 
 
何かを埋めるように詰め込むのを止めると、生活全体が軽くなる。
 
また欠乏感がわいて詰め込みたくなったら、そうしない選択もあると知りつつ、詰め込むことが私の心地良さならば、それを選ぼうと思う。
 
自分に優しく自分を大事にの意味が、ちょっと分かった気がした。