水上哲夫のブログ

水上哲夫のブログ

あちこちで話したことなどを書き綴っていきます。おんなじ話を繰り返さないように・・・

パソコンで業務用のソフトを作り始めたころ。伝票を発行したいという依頼を受けて、社長さんを訪ねたことがあった。合計請求書は?と聞くと、あったほうがいいかもという。締日とかあります?と聞いたら、うちは月末締めのお客さんしかいないよ。とつぶやいた。

サンプルを持って訪問すると、経理の担当者が同席した。念のため、締日は末だけですよね?と聞いたら、あれ、20日締めのお客さんいましたよね。そうだっけかと社長。ほら○○さんと××さんは20日締めでしたよね?ああそうだったと社長。結局ソフトは大幅修正を余儀なくされた。

 

別のお客さんでは、数字の桁数を増やしてほしいといわれた。当時はまだMS-DOSの時代で一行は80文字と決まっていた。全部合わせると80文字を超える。これは無理です。というと、そこを何とかするのがあんたの仕事だろうと返された。なんだかんだともめながら結局80文字以内に収めた。

 

お客さんがシステムに近寄ろうとせず、何とかしてくれ。だと作る側の労力は莫大になってくる。結局ソフト開発の費用に反映される。お客さんが一歩歩み寄ると無駄が少なくなる。わかってほしいと思いつつ、無理だろうな。

今年は、コメ不足という。昨年は不作だったことに加え、南海トラフ地震への懸念からコメの購入量が増えた。コメ不足報道で買い占めに走った消費者がいた。などが原因といわれている。もう一つ、インバウンドの影響で外国人がコメを食べるようになったためという話もある。

 

Youtubeでも、Momoka Japanというチャンネルでは、外国人観光客数人のグループに呼びかけ、日本食を食べてもらうという企画を続けている。マンガにもなった。Momokaさんの流暢な英語や、思わずうまいと言いそうになる翻訳の字幕もすごいが、招待された外国人観光客がみなとてもおいしそうに食べる様子が見ていて楽しい。

 

別の、ジュジュワールドというチャンネルは、韓国人のジュジュさんが、韓国の人を日本観光に連れて行ってその反応を楽しむチャンネルだ。最近、北朝鮮から脱北した若い女性を二人、日本に案内する動画がアップされた。鬼の国と恐れていた日本に来て、でも、みんな親切だった。トイレが清潔だった。という話の中に、日本のお米はおいしい。他の国で食べるそれとは段違い。やはり本場は違う。という感想が述べられていた。

 

日本食は、特にお米は世界中のいろんな人たちにとって本当においしいものなんだ。もっと日本人は誇っていい。

最近、キングダムの歴史監修をした鶴間和幸さんの「始皇帝の戦争と将軍たち」という本を読んだ。BS11では「始皇帝 天下統一」という中国ドラマも放映されている。

 

始皇帝のスタッフは、秦以外の出身者が多い。宰相格の李斯(りし)は楚の国。大将軍の蒙驁(もうごう)は斉。水路を作り農業を発展させた鄭国は韓。宦官の趙高は趙。華陽太后の一族昌平君は楚。さらに、始皇帝の誕生に尽力した呂不韋は趙の商人である。彼らは客卿とよばれそれぞれ他国からきて始皇帝のために力を尽くす。むろん秦人の大将軍王翦や王家の一族もこれに協力する。

このチームは、中国全土の模型を配した部屋に集まり議論を尽くす。始皇帝の決定に従いその指示は実行されていく。

 

話は変わるが、最近、企業の活性化策として DEI が注目されている。

D(Diversity=多様性)E(Equity=公平性)I(Inclusion=包括性)の頭文字。

始皇帝のチームは多様な人々の集まりであり。様々な議論を尽くし。始皇帝の決断に従って動く。まさにこの DEI の仕組みに従って動いている。残念ながら始皇帝あってのチームであったと見え、彼の死後、このチームは徐々に崩壊していく。

 

検索やグループウエアなどでよくグーグルにお世話になっている。こんなにいろんなサービスを作りだすことができるのはどんな人たちなのだろうか。その人材戦略に興味があった。インターネットでも関連する記事が出ていればよく読んでいた。

 

グーグルも、最初は有名大学(スタンフォードとか)から採用していたようだが、その人たちは思うような成果を上げなかったらしい。そのあと基準となったのは、新しい技術に貪欲に取り組む人。とか失敗から立ち直った経験のある人。などである。

今はしていないらしいが、その後、自分なりに考えないと答えを出せない設問を出す時期があったと聞く。例えば、「須賀川にあるすべてのガラスを磨くのに必要な見積もりをだしなさい。」という設問で、答えを出すためには、人口や世帯数などから窓の大きさを推計し、単価をかけて答えを出す必要がある。

以前、セブンイレブンの創立者鈴木敏文さんがよく仮説と検証ということを言っていた。この仮説を立てるという作業と共通する部分がある気がする。

 

いずれにしろ優秀な人材とは何かということを考え、思考作業を繰り返し人材を集めている。そういう努力をグーグルという企業は重ねているのではないか。

 

 

岡山県のPTA連合会が解散するという。新聞によってニュアンスは違うが、2つのことが問題になったらしい。一つは少子化などによる子供数の減少やPTAに入会する会員の減少。もう一つはこれに関連するが、単位組織の負担が増えて支えきれないということである。

 

日本中に似たような組織はあると思う。町内会や業種別団体、親睦団体などである。それらは、昭和の時代にでき、高度成長に伴って拡大してきた。いま日本全体が縮小していくとき、そのような組織の在り方が問われている。

 単位となる組織は比較的簡単である。構成員が減ったら縮小し、さらに減ったら解散すればよい。上部組織は政治的な思惑やらメンツやらで縮小がなかなか難しい。市よりも県、県よりも国単位にまとまった組織では上のほうに行くにしたがってなんとなく偉くなったような気がする。自分の代ではなくしたくないと考える人も多い。

 

1978年に発売された「なぜ本社があるのか」という中山諭さんの本を読んだことがある。当時本社への異動が決まってそういうことに関心があった。こういう問題は長い間議論されてきて、今だにこれといった解決方法は見つけられていない。

単位組織に役立つサービスを提供できない本部はただ威張り散らす人を増やすだけの結果になる。言ってしまえばそれだけのことなのだが・・・

以前、イラク戦争でサダムフセインが拘束された。第一次第二次世界大戦のころならば、例えばヒトラーが死ねば戦争が終わるはずとなんとなく思っていた。しかし、戦争終結はなかなか見えない。民族間の紛争が依然として続いていた。

 

そのころ高校の同窓会があり、隣に座った友人がたまたまイスラム法が専門だという。試しに聞いてみた。イラクの敗戦が決定的なのになぜ紛争が絶えないのか。

「中東ではさ、負けるというのはその民族が一人残らずいなくなった時なんだ。一人でも生きている限り彼らは負けたとは考えない。」

 

目からうろこだった。よく考えてみればイラクの国境は欧米列強が勝手に引いたものだから、本来の民族単位にまとまろうとしているのだ。頭を押さえていた蓋が取れて自分勝手に動き出したにすぎない。誰も自分が負けたとは思っていない。

 

チンギスハンは、抵抗した国を徹底的に破壊したという。服属すれば危害は加えない。その歴史的な記憶がどこかに残っているのかもしれない。

大学生に入りたての頃の話。授業に英会話があったので英語が苦手な私は受けてみることにした。同じ考えの人がたくさんいたようで、大教室が満杯だった。先生は、こんなに沢山じゃ教えられない。自由聴講だからすぐに5-6人になるといっていた。

 

そこまで学生が減らない頃、先生が、「日本各地のお城には大きな建物(天守閣のことか)がある。仙台にはお城はあるのにそれがない。納税者としてぜひ作ってもらいたい。」というような話をした(・・・たぶん)そこで私が「仙台にはもともとそのような建物がなかった。」(天守閣のことは、Main Building といった気がする)と説明すると、先生が聞いてきた。

「No Building?」そこで私が「Yes」と答えると、先生は混乱したようで、「No Building?」と再び質問し、わたしが「Yes」と言っているうちに気が付いた。

 

英語では、こんな時「No」と答えなければならないことに。「Yes」と答えると、それは天守閣が存在したことになる。日本人は相手の質問にあわせて答えを言うが、英語では相手の言った事実にあわせて答えを言わなければならない。知識としては持っていてもとっさの時は使えねえもんだと思った次第。

1543年、ポルトガル人宣教師が種子島に流れつく。持っていた鉄砲の威力に着目した領主の種子島時尭が2丁を買い取った。代金は2千両(2億円程度)という。時尭は鍛冶師の八板金兵衛に同じものを作るように指示をした。金兵衛は悪戦苦闘した。とくに当時は「ねじ」という概念がなく銃身のねじの作成に苦労したという。

その後作り方が日本全国に広まった。刀を作るときに使われる錬鉄の技術の普及がその根底にある。引き金を引くと瞬間的に発射される方式や命中精度など改良され、鉄砲は世界に比類のないものとなっていった。

戦国時代には、日本には50万丁の鉄砲があり、ヨーロッパのどの国よりも突出して多かった。

 

秀吉の朝鮮出兵時には、明・朝鮮の飛び道具の中心は弓であった。現代の弓道では的の距離は28m、遠的でも60mであり射程もその辺が限界だ。さらに彼らの使っていた鉄砲は有効射程100m程度であり、もくもくと湧き出る煙や音による威嚇が中心で、数も少ない。それに対して日本軍の鉄砲の有効射程は200mであり、圧倒的に遠くから狙い撃ちできる。

 

明・朝鮮は女真族相手に騎馬を中心に戦いを重ねていた。そこで得た経験をもとに日本軍に対抗しようとしたが、そのような戦闘は、日本軍は桶狭間で経験済みだった。騎馬の突撃は大量の鉄砲に壊滅されることになった。

 

細かな改良でよりよいものを作っていこうという気質が日本人にはあり、それが今でも生きている気がする。

中国の歴代皇帝の多くには似通った特徴がある。まず無学文盲で学がない。激しい軍閥の競争に勝ち抜いたその過程でスタッフを強化していく。そして天下を平定した後は、自分の後釜を狙いそうな武将を粛清していく。

 

こういう流れから抜け出しているのが光武帝である。まず、長安で学び知識と教養がある。スタッフにはその当時からの友人がおおくいる。人の使い方がうまい、総務のスタッフを将軍に任命して才能の幅を広げさせる。失敗しても粛清せず我慢して使っていく。失敗がわかってもそれが糧になるように仕向けて行く。

「仕官するなら執金吾、嫁をめとらば陰麗華」というのが彼の望みだった。儀丈隊のようなかっこいい仕事して、陰麗華のようなきれいな奥さんをもらいたい。項羽が始皇帝を見て「奴にとって代わってやる」といったのに比べてなんと穏やかなことか。

 

現代では、一定程度の知識を蓄えた人々を相手に組織をうまく運営していくことが大事だ。中国の歴史の中で、他の皇帝に比べて、光武帝の言動から学ぶものは多いのではないかと感じる。

 

宮城谷さんの「草原の風」話を読んだ。後漢の光武帝の話だ。

昆陽の戦いで数万の兵で100万の大軍を破った彼は、幽州、冀州(河北 旧満州のすぐ南)へ平定のため派遣される。

最初は順調だった。各地の豪族を味方につけ、味方を増やしていった。

 

ところが、エリア南方の邯鄲に新しく漢の王族と称する男が皇帝を自称し、自分の正当性を唱えた。さらに彼は光武帝に莫大な賞金を懸けたため、豪族たちは動揺しそちらに味方するものが増えた。光武帝は、わずかな兵とともに南の端、信都郡に逃げ込む。そのときは、兵もわずかで寒さと飢餓で疲労困憊していたという。

 

しかし、その後徐々に勢力を拡大し、数十万の兵を擁するようになる。それまで訪問した先で、略奪を許さず、治安を回復し人心を安定させてきた実績が、彼の支持者を増やし、草の根の人々がそのような統治者を求めて動き出したのである。

やるべきことをきちんとしていくことがすべての信用の基礎となる。当然のことだが目先の利益に振り回されやすい人が多いことも事実だ。