スピーチを考えていると直面する課題のひとつに、自分の体験談や考えにウソを入れても良いのだろうか?というものが有ります。

 ウソを入れてはいけないのは、相手をだまして利益を得ることが目的の時です。相手をだましてやろうという気持ちで話すのは論外です。
 この手のスピーチには特徴が有ります。
 内容が偏っていることもそうですが、そこに加えて必要以上の自信が垣間見えること、変に早口であること、声が変に張ること。共通しているのは自然ではなく、不自然なこと。

 どこかで違和感を感じたら、その感性を大切にしてください。
 詐欺に引っ掛かる人と言うのは自信の無い人と言いますが、引っ掛かる展開は決まっていて、最初から最後までだます側の話を信じ込むことは無く、なにか引っかかると折角自分のアンテナで気付いた違和感を「いやいやそんなはずはない」と否定してしまうことで陥ってしまうものです。

 一方で、話の筋をまとめて分かりやすく理解してもらうことを目的としてあえて、ウソを入れる場合も有ります。この辺は以前にも記事にしました。
 ”伝える”を考える_分かりやすく、かたる

 さて、難しいのが、自分をだます人。
 何故なら、相手をだますつもりならそこにだまそうとする事実にある意味腹をくくっての覚悟を持つのですが、自分をだますことはもはや腹をくくる覚悟すらなく。事実から目を背けてしまっている状態だからです。

 「(本当はやりたくはないが)この仕事をとことん突き詰めて成果を出してみせます!」

 しかしこれは、単に「自分をだますことを止めるべきだ」と言っている訳ではありません。これは、なぜそんな風に自分をもだますのかを考えると分かります。
 
 自分へのウソ、そこには自分の感情と相反する自分の価値観が在り、その価値観の大切さが自分の感情の大切さを上回っているからでもあります。
 こう書くと分かりにくいですが、自分の感情=私心・本音、自分の価値観=公共心・建前と考えるとしっくりくるのではないでしょうか。

 日本の神話も天岩戸神話や国譲り神話など、「本当にそんな作り話の様に綺麗に話がまとまったの?アマテラスは閉じ込められたのでは?オオクニヌシは戦いに敗れて亡くなったのでは?」という疑問符が大いにつくものです。
 しかし、ここで大事なのはこれらの日本神話は遠い昔の事実を描いている可能性は低いものの、その当時の人々が持っていた”こうあって欲しい”という価値観・公共心が色濃く反映されているという意味で大いに価値のあるものであるということです。
 
 それは神話に留まらず、現代の我々の心の中にも”こうありたい自分”とそうではない自分の正直な気持ちの葛藤として今も続いています。

 古来よりそんな文化の中にいる我々が伝えるお話は「ものがたり」と言われています。「かたる」は「語る」と書けると同時に「騙る」とも書けます。
 語りは同時に騙りである、そういう前提で我々のご先祖は「ものがたり」に事実のみならず、価値観をも含めて受け止めていたのではないでしょうか。そこには、多少のウソや誇張は寛容な心にて許されたのでしょう。

 仏教では真実へ導く教えのためにあえて取る仮の言葉、つまり仏様のつくウソを方便と呼びます。「かたる」ことは、その方便も含めることをも考えていくべきものなのでしょう。

 そう考えると、話に入るウソは一概に良し悪しと言い切れるものではないのかもしれませんね。
 
  
 


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