刺激のない現代

 

朝活って、 知ってます?

私、朝活してます。朝活が分からない人がいるかもしれませんよね。

簡単に言えば、朝早い読書会です。毎週行けてないのですが。

この前、久しぶりに朝活に行って、大変なことに気づきました。

ちょっと興奮しているので、うまく説明できるかどうかわかりません。

が、大事なことだと思うので、ブログに記しておこうと思います。

 

梅田のコワーキングスペースOn theで毎週火曜日の730分から815分まで「新しいライフスタイルを創りだす「朝活IKIGAIカフェ」と題して、行なわれています。

 

読んでいるのは、茂木健一郎の『IKIGAI』です。実はこの本、茂木健一郎が、Ken Mogi と名乗って、英語で書かれた本なんです。読書会で読んでいるのはその日本語訳です。なぜ、英語で書かれているのかについては、おいおい。

 

 

茶道の話じゃん!

久しぶりに行くと、結構進んでいました。

千利休の待庵から話は始まりました。そして、茶道の面白さへと。

久しぶりでついていけなかったら、どうしようと思っていました。

茶道の話で良かった。私が勤めている学校は、「茶道」が必修で、学生が催すお茶会に出席します(足がれて立てなくなったことは一度や二度ではないです)し、茶道の話を耳にする機会があるのです。

 

なかでも、読書会で気になったのが、「注意深く部屋の飾りを準備する」という件と、「一期一会」という言葉でした。

 

「注意深く部屋の飾りを準備する」という件で思い出すのが、お茶会の準備をしているときに、何のお花を飾るのか、どう飾るのか、という相談を学生たちと茶道の先生が一生懸命にしているところに出くわせました。

 

内容は忘れてしまいましたが、とても細かいことを話していた時に、つい、あろうことか「そこまでしなくても」と口走ってしまいました。

 

そんな私を茶道の先生は、咎めるどころか、優しい笑顔で、「これが、おもてなしです」とおっしゃいました。

 

まさに、茶道の奥深さに触れた瞬間でした。

 

 

小さな茶道、大きな現代

茶道は、茶室も小さくできています(にじり口で身体をぶつけた経験あり)。しかも、客をもてなす飾りも細かいところにこだわっている。そのおもてなしも、素養が無ければ見逃すかもしれないぐらいです。

 

せっかく、相手のことを想って準備をしているのに見逃されてはたまったものではないな。と思ったとき、現代ではどのように客をもてなしているのか考えてみました。少なくとも、ご馳走を振り舞ったり、何か品物を贈ったりをしたりするのではないでしょうか。とても分かりやすいですね。

 

立命館アジア太平洋大学学長の出口治明氏によると、古代中国では、自国の勢力の誇示のために、敵国に手に入らないようなプレゼントを贈ったとか。

 

それは、さておき、茶道では、よく見ておかないと見逃してしまうような細かいおもてなしを行なうのにたいして、現代では、ご馳走やプレゼントなど見てすぐわかるものをおもてなしとして行っているわけです。

 

気付こうとしなくても気付けるのか、気づこうとしないと気づけないのか。この差は大きいと思います。

 

 

一期一会と橋の落下事故

「一期一会」って、普段でもよく使いますよね。

説明には及ばないとも思いますが、「一生に一度しか出会えない」という意味ですね。

 

「人生の中にある、人や物や出来事とのどんな出会いに関しても、その時にしか存在しない」ということです。

 

どうでしょう。そう考えれば、今日、だらだら過ごしてしまったことがもったいないと思いませんか。(私だけ?)

 

私は時間がもったいないと思う時があります。それは、死を考えたときです。以前こんなことがありました。

 

私は車を使って、通勤しています。あるとき、いつも走っている道路を越える橋が建設されていました。なんと、その建設中の橋が落ちたのです。その橋の下を通ってからしばらくしてからでした。

 

もし、時間がずれていたら、間違いなく死んでいた。そう思うと、こうやって生きているのもいわば偶然だし、いつ死ぬかなんか分からない。もし、今死ぬとすれば、もったいない時間の過ごし方をしたな。とぼんやりと考えていたことを覚えています。

 

ほんとうに、一期一会なんですね。

 

 

この辺から徐々に本題。茶室刀の独自解釈

そうです。一期一会、人生は一度きり、出会いも一度きり。というのは、「死」を前提に考えられていると思うんです。

 

現代はこの「死」をできるだけ遠ざけて来た。自宅で亡くなることが多かった時代、「死」は身近なものでした。祖父母のあるいは父母の「死」に直面しながら、死ぬっていうことはこういうことだ、元気だった人も死ぬ。自分も例外なく死ぬんだ。と死について学んでいたんでないでしょうか。

 

そこから、一期一会の言葉の内実がうまれたのではないかと思います。千利休が活躍した時代は戦国時代です。戦いに次ぐ、戦いで、コロナどころではなく、いつ終わるか分からない死がそこいらじゅうにある状況で、一期一会は生まれたのではないかと思います。

 

「茶室刀」をご存知ですか。茶室に持ち込むことを許されたという「刀」です。護身用とも言われていますが、私はちょっと違うように思います。

 

茶室刀は、生と死が一体になっていることを、死を常に念頭に置いておく必要があることを表しているのではないかと思います。護身用ではなく。

 

ここまでくると、なぜ、気づかないかもしれない細部に徹底的にこだわって、おもてなしをするのか。少し分かるような気がします。だって、もう終わりなんですから。

 

「本当の」一期一会はすごい気迫でしょうね。

 

 

死を遠ざけてしまった不幸

死があることで、死を意識することで、今が充実していたのかもしれません。言い過ぎかもしれませんが、死は生を考えるうえで、とても刺激的だったんだと思います。すごい本気モードで生を考えさせられる…

 

死を遠ざけてしまった今、私たちは、死ぬことを考えない「死なない人」になりました。

 

生を充実させるための、生を考えるためのとても大切な刺激を失ったことになります。生を考えるために、“分かりやすいもの”を頼りにせざるを得ません。

 

そこで「お金」を物差しにするようになったのでしょう。学生たちに「何のために働くと思う?」と聞くと、異口同音に「お金のため」と答えます。また、生の充実度を測るために。お金が十分にない“貧困”が問題になるわけです。

 

 

「道」の大切さ

あくまでも私見ですが、茶道、華道、剣道、柔道…などの「道」とは、人の生き方を示しているのではないでしょうか。

 

死という、生き方を考えるための刺激が遠ざかった今、この「道」に沿っていけば、外れることはないのではないかと思います。

 

それは、いままで「道」を歩んできた日本人が、残してくれた生き方の指針ではないかと思います。勤務校で茶道が必修になっている意味はここにあると思っています。

 

えっ、他に「道」が付くものに、水道もあるぞって。そうですね。

 

水道だけに、間違えていたら、水に流して。

 

 

おまけ 新型コロナウイルスの騒動をこれで読み解くと…

新型コロナウイルスの感染の問題でも、死者が出たとたん、騒ぎに拍車がかかったように思うのは私だけでしょうか。流れてくる情報でも、コロナウイルスの死亡率ばかり取り上げていませんか。

 

新型コロナウイルスに感染しても、死亡者ゼロであれば、マスクも消毒液もなくなっていなかったのではないでしょうか。「死なない人」が死ぬかもしれない。そりゃ、パニックになりますね。

 

ですから、亡くなったのは、「医療が十分に供給されていない中国だから」、「基礎疾患があったから」と自分から死を遠ざけようと懸命なのだと思います。

 

新型コロナウイルスについてもうちょっと考えてみました。次号を待て。