くだらないことですが、

今年は、忘れてはいいけない1年、というか

忘れられない1年となったので、

「忘年会」というもの一切出席しなかった。

自分の会社の忘年会も行わず、新年会に繰り越した。

ただ、厳密にいうと、1件だけ「忘年会」に出席した。

それは、南相馬でお世話になった方々の忘年会。

12月23日に行われた。

車で南相馬を目指した。

飯館村を通過して、八木沢峠を下ると

南相馬市だ。

今年は何回ここを往復したことだろう。

最初に訪れたのは、4月の初め、

まだ、寒さが身に染みる時期だった。


八木沢峠は冬場は凍結する。

僕の借りたレンタカーはノーマルタイヤ。

道路に設置された温度計は、-2℃を示していたが、

路面は乾いていて、凍結の心配はないようだ。

もし、雪でも不老ものなら、コーナーを曲がりきれずに

谷底へまっさかさまという展開は、

簡単に想像できる。そんな山道を下る。


そう。飯舘村はとても高いところにあるのだ。

標高は400mを超える高原地帯。のどかな

山村という形容がふさわしい。


3月の原発事故直後、上空に舞い上がった

放射能は風に乗ってこの地に降り注いだ。


政府のSPEEDIは、その様子を的確に予想していた。

にもかかわらず、それは避難支持には一切

利用されることはなかった。

その結果、この周辺の住民は相当の被曝をした

と想像される。

当事者でなくとも怒りに身が震える思いだ。


そして、行き交う車以のほか、人影はほとんど目にすることがない。


原発20キロ圏に入って

「死の街」と表現した大臣がいた。

それがもとで首になるわけだが、

彼の表現が決して的外れではないことは、

飯館村の今の状況を見ても容易に想像がつく。


かつて人間の生活した空間に、

いまは、人の気配を感じない。

それを「死の街」と呼ばずして

なんと呼ぶのだろうか?

「懐かしいふるさと」とでも呼べばよいのか?

そこを故郷に持つ人が、もし、

そう口にするのであれば、それは、

本当に悲しい響きになるだろう。


そんなことを考えながら、

南相馬に到着。


お世話になっているYさんのお宅へ向かう。

すでに準備は万端。

鍋にさしみに、煮物にモチに・・・

座卓の上には、所狭しと料理や酒が並ぶ。

クリスマスを通り越してすでに正月の様相


忘年会は、笑いに包まれていた。

みんなよく笑う。

馬鹿話に花が咲く。酔いつぶれる御仁もいる。

どこにでもある忘年会の風景だ。

しかし、ここに集まった人たちは、

皆、避難民。原発から20キロ圏内に

家があり、中には津波で跡形もなく

家を持っていかれたご家族も

数家族いる。


彼らにだけは、今年を忘れる権利があるように

思えた。もちろん忘れられるわけはないのだが・・・


印象に残ったはなしがある。

彼らは、自分たちが、元の土地に帰れるとは

思っていない。

それよりも、政府が、20キロ圏内の土地を

買い上げるなり借り上げるなりして

「普天間基地を移転したらいい」

と言うのだ。


米軍基地問題と原発問題、構造が似ているのだから、

喜んで基地を受け入れるという。


やがて政府は除染を進めて、住民に

「元の土地に帰る」ことを薦めるであろう。


「人体にただちに影響を与える放射線量ではないので、

生活するにはもんだいありません」とか言って。


ならば、そこに普天間基地を移設したらいいだろう。


でなければ、

東京電力の本社機能と

経済産業省、環境省の一部機能を、

双葉町か大熊町にまず、移設すべきだ。


そんなことを思いながら、南相馬をはなれ東京に戻った。


*年末に書きかけて、アップし忘れていたものをアップしました。













先日、大学時代の後輩から、突然電話があった。
「今晩、飲めますか?」

間髪を入れず、
「うん、20時すぎなら・・・」

ということで、20時は随分回ってしまったが、
新宿へ

靖国通りの歩道は、忘年会の人であろう、
人でごった返していた。

信号が青になり、道の反対側から大勢の人波が、
こちらへ渡ってくる。
その中に、手をふる禿頭。

両脇には、同じく懐かしい後輩が。
3人は、えらく陽気な顔で、ニコニコしている。

かれこれ、4,5年ぶりに会う。

昔、僕がバイトしていたやきとり屋へ、腰を落ち着けて、
近況報告から、昔話。
昔話は、もう何度も同じ話をした気もするが、
何遍話しても、楽しい。

3人は、僕に会えて嬉しいと
言ってくれる。

だけど、それは、こっちのせりふだ。
思い出してくれて、声を掛けてくれる後輩。
本当にうれしかった。

みんな、もう40代半ば。
それぞれ人生の急カーブをを、
大きくドリフトしながら逆ハンドル切ったりしつつある。
それは、案外深刻なことかもしれないが、
人生40年も生きてくると、
腹も据わってくるものだ。

それぞれの、人生に幸あれと願う。

学生時代の先輩後輩とはいえ、
年は、ひとつ、二つしか違わない。
もう、何の差もないのに。
やはり「先輩」として立ててくれる。
だから「先輩」ぶっておごる。
悪くない。
ホントにうれしい夜でした。


今日はうれしいことがもひとつあったけれども

それは、また今度・・・

先日、とてもうれしいことがあった。

4年前、心臓移植をするお母さん=Sさんとその家族、支援する人たちを

取材させていただいたことがある。

Sさんは、募金が集まり、ドイツに渡って無事に移植を受けて帰国した。

彼女と彼女の家族を支えた「救う会」がこのたび、みごとに!解散することになり、

その宴会に、お誘いいただいたのである。

取材後もお付き合いをさせていただけるというのは、このような仕事を

していて、何よりうれしく思えることである。


ところで、移植を受けたご当人は、病床の当時の姿からは想像もできないほど

お元気になり、いまではパートに出たり、ご自身で車を運転したりもしている

ということ。

つまり、心臓移植さえできれば、日常生活を取り戻すことができる

ということ、身を以て証明なさっている。

集まった募金で、渡航から、手術費用までを賄い、

余った募金を、慎重に検討を重ねながら、別の「救う会」に寄付。

これを以て、会を解散するに至ったという。

大きなお金を扱う活動、しかも人の善意に依るお金を扱うわけで、

こういった活動には、とかくトラブルがついて回るものだが、

この会は、本当にみごとと言っていいほど、清廉にことを

成し遂げた。ほんとに、素晴らしかった。


私事になるが、僕は、この時うまで、

「高みから天下国家を論じるような」番組の制作に

携わってきた。Sさんたちと出会のはちょうど、僕がその番組を

やめることになった時だった。


その当時、僕はこんな風に思っていた。

「いくら、わかったつもりで天下国家を論じても、何もよくなりはしないではないか?

心臓移植の是非をいくら論じてみても、目の前のこの人を救うことはできないではないか?そんな仕事になんの意味があるのか?」

僕は、Sさんのケースを取材することで、募金が集まれば、いい。

ただそう思って、取材した。

しかし、結果は、「個別の募金活動に資するようなことはできない」

ということで、放送は、募金が目標額に達したあとということになってしまった。

*当然と言えば当然なのかもしれないが・・・


つまり、取材を受ける側にとっては何のメリットもないということになったのだ。

しかし、Sさんやご家族、支援する団体の皆さんは、そのままこころよく取材に

応じつづけてくれた。

結局、「移植への旅立ち」「移植」「帰国」と3回に分けて放送することになった。

みんな喜んでくれた。

そして、今回の解散にあたって「何の役にも立たなかった」僕たちにまで

わざわざ声をかけてくれた。

心底うれしかった。

こういうことがあると、心が揺れる。


この会については、まだまだ、書きたいこともあるのだが、

それは、また回を改めて・・・