岩佐美咲「アキラ」聖地巡礼1 3/12五稜郭~立待岬~函館山~函館からアキラの思い出の地を巡る~ | KONCHAN 音楽プロデューサ-のよもやま話

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岩佐美咲「アキラ」2021年10月6日発売

 

【初回生産限定盤】

[CD+DVD]TKCA-74991 / ¥1,636+税 (税込¥1,800)
[CD]
1. アキラ
2. ありがとう(いきものがかり)
3. アキラ<オリジナルカラオケ>
4. ありがとう<オリジナルカラオケ>
[DVD]
1. アキラ  MUSIC VIDEO
2. アキラ  MAKING VIDEO



【通常盤】 

[CD] TKCA-74992 / ¥1,227+税 (税込¥1,350)
[CD]
1. アキラ
2. ETERNAL WIND~ほほえみは光る風の中~(森口博子)
3. アキラ<オリジナルカラオケ>
4. ETERNAL WIND~ほほえみは光る風の中~<オリジナルカラオケ>

 

岩佐美咲「アキラ」レポ 楽曲レビュー&感想

~聖地函館からアキラの思い出を巡る~

 

岩佐美咲さん2021年のコメント

ジャケット写真ではもっとだいぶ寄ってますがそれの引いた、たそがれバージョン。笑 もう、ほぼ言っているようなものですが歌の舞台である函館で撮影したものになります。どんなMVになっているか楽しみに待っていて下さいね。早くお話ししたい事がたくさんありますよ。函館で食べてみたかったものも今回食べられたんだ〜さあ、一体なんでしょうか?諸々落ち着いたらいつの日か、函館の皆さんの前でもアキラを歌わせて頂きたいなあ。その時は函館のイカ刺し食べて帰ろうね。笑 ああ北海道へ行きたい。。一度は観てみたいラベンダー畑が今年も見られませんでした。ラベンダー畑は逃げないから、いつの日かね。(岩佐美咲ブログより)

以下岩佐美咲さんおが写っている画像は徳間ジャパン岩佐美咲「アキラ」MVから引用させていただきました。

 

岩佐美咲「アキラ」発売一カ月にあたり 

 

岩佐美咲さんの「アキラ」21/10/6に発売以来2年以上たちました。発売週オリコン演歌歌謡部門で1位をいただき出だし好調1カ月たっても有線リクエストで好位置をキープするなど、まずますの成功を収めたように思います。とはいえそれからが本当の勝負、演歌歌謡曲の真の評価は、時間がたっても色あせることなく長期間にわたってヒットし続けること。できるだけ多くの方の耳に届き、愛される歌になること、その目標のためにさらに歌い続けなければなりません。また岩佐さんにとっては新曲の発売が期待されるところでもあります。今回私は「アキラ」の聖地である函館の旅行を計画しました。2年以上たちアキラ整理巡礼、函館旅行を機にこの曲のすばらしさを再認識し、岩佐美咲さんの今後の展開につなげていければ幸いです。この「アキラ」についての楽曲レビューと1カ月を経過して感想を書かせて頂きましたので、その時の文章を元にまずはこの楽曲についての説明をし、そのあと「アキラ」聖地巡礼のレポートを2回に分けて書かせて頂きます。そして今回の皆様もいろいろな感想をお持ちだと思いますが、新たな発見の機会になればうれしいです。

 

「アキラ」という楽曲

 

「アキラ」の初披露は8/13 10周年神コンサートの時でした。内容については認識が足らなかったのですが、サビのところの ねえアキラ♪というフレーズが耳に残り、さすが秋元康先生作詞、人を惹きつけるインパクトのある曲だと思いました。それと同時に古くからあるような演歌調の雰囲気も感じられ、歌謡曲としてもクラシカルなわかりやすい曲だと思いました。「アキラ」はAメロとサビと大サビで構成され、サビ以外は同じメロディーが坦々と続くシンプルな曲です。インパクトはありますが非常に単純な曲で、現代の早くて複雑な展開の歌が多い中で正直このオーソドックスな曲が受け入れられるかどうかは未知数だったのです。しかしポップスにとってシンプルで聴きやすいことはよいことでもあると思います。岩佐さんの素直な歌い方やキャッチ―なフレーズがより多くの方に受け入れていただける要素を含んでいる歌だと思います。、、

歌詞は函館で付き合っていた二人が別れてしまって、一人東京で暮らす女性。しかしアキラという男性のことが忘れられす、年に何度か函館を訪れて思い出での地を巡る女性が主人公の曲です。一言で言って歌謡曲路線は引き継いでいるものの、歌詞の内容的には昭和演歌的な要素も取り入れ、函館という舞台とともに、情緒あふれる雰囲気をもった曲に仕上がっていると思いました。秋元先生らしいアイディアも随所に見られ、サビのねえ、アキラ・・・というフレーズや振り付けなど、聴く人に印象づけるようによく工夫された曲だと思います。岩佐さん以前はこういう大人の曲を歌うと挑戦の曲だとよく言われておりましたが、彼女ももう26歳、立派な大人の女性であり、こういう曲を歌わせても、聴く人のみならず彼女自身違和感なく受け止めてられるようになっているようです。デビューしたての頃は秋元先生が10年、20年後を見据えて作詞していたのが、岩佐さんの成長とともに歌が年齢相応になってきたということでしょう。

前奏で指を一本ずつ、親指、人差し指と9本折り曲げていきます。親指内を意味するのか全く予想がつかない展開。函館は今も一番好きな街よ♪ああ函館が舞台の唄なのだなあということがわかります。何度訪れたって変わらないから♪函館に深い思い出があったのでしょう、函館の美しい情景とともに、なにか恋の物語があったことを想像させます。坂道の途中海が見えて来る度、あの頃の潮風が吹き抜けてく♪始まりから坦々と続くメロディーの繰り返し、どことなく寂しげな曲調ですが決して暗くなることないリズミカルな伴奏、坂道が多く、歩いていると海が見えてきて、潮風が吹き抜ける。函館の美し以情景と絡めて、女性のさびしい感情をよく表現しています。

そして突然、ねえアキラ、ねえアキラ♪と霧が開けるように感情をぶつけます。それまでの坦々としたメロディーはここで思い切り感情を表現するための戦略だったのか?岩佐さんも「アキラ」を歌うポイントとして最初は坦々と歌い、一気にアキラ♪と表現することとお話しされていました。坦々とした部分を抑えめに歌うことで、さらにこのサビの部分のインパクトが増し、アキラという単純な構成の歌の中にも、強弱の抑揚をつけることに成功しているのです。いや単純な構成だからこそ聴く人の耳に残る聴きやすい歌になっているといえましょう。

この坦々と進みながらもサビのところを強調する戦略は前作「右手と左手のブルース」でもみられましたが、前半の坦々と歌う場面で音程が不安定にある場面もあり、その点では今回のほうが岩佐さんにとって、歌いやすい音程と適度な抑揚感があると思います。同じ悲恋を描いた歌謡曲路線とはいえ、作詞者も違い、前作のような重々しささは薄れ、より軽快で受け入れられやすい歌のような印象を受けます。岩佐さん「アキラ」初歌唱の時からかなりの線をいっていたと思いますが、その後の歌唱でも回数を重ねていないにもかかわらず、高い完成度で歌われています。前作はドロドロとした内容でダイレレクトな表現も多く、意図的に声を低く抑えて歌っていたように思いますが、途中からは本来の岩佐さんの歌い方に戻り、この歌でも素直に自分の歌いやすい歌い方で歌われて、作為的な窮屈感がなくなったと思います。

 

岩佐美咲「アキラ」聖地巡礼1 五稜郭~立待岬~函館山

~函館からアキラの思い出の地を巡る~2024年3月12日

 

函館は毎年500万人近い観光客が訪れる観光都市となっており、市町村の魅力度ランキング調査で1位にランクインする都市になっている 。室町時代の享徳3年(1454年)、津軽の豪族河野政通が函館山の北斜面にあたる宇須岸(ウスケシ、アイヌ語で「湾の端」という意味)に館を築き、形が箱に似ていることから「箱館」と呼ばれるようになった。このほか、アイヌ語の「ハチャシ」(浅い・砦)に由来する説もある]。明治2年(1869年)に蝦夷地が北海道となり箱館も「函館」と改称された。一説には北海道開拓使の長官に着任した東久世通禧が漢字に造詣が深く「箱」の字を気に入らず「函」に改めたという]

函館は北海道の南部に位置します。北海道の中でも冬は雪が少なく、夏も過ごしやすいのが特徴です。1859年の箱館開港より、西洋文化をいち早く取り入れて独特のモダンでレトロな雰囲気は、今の函館にそのまま残っています。アキラのことが忘れられない主人公の女性は、このようなロマンチックな街を一人の男性のことを思ってさすらい歩いたのだと思います。函館の街といえば美しい夜景。アキラの舞台として、恋愛情緒たっぷりに夜の街函館の物語を彩ってくれます。

 

 
東京駅から新函館r北斗駅へ
 
3/12当日は3時半起きで地元の私鉄始発に乗り、5:45頃東京駅に着きました。東京駅弁祭はすでに開いていて、お弁当を買い、新幹線のホーム向かいました。早く東京駅に行ったのは、いろいろな新幹線の写真を撮りたかったからです。ホームには東北新幹線のやまびこ、北陸、上越新幹線、山形新幹線翼つばさなどが次々に入線し、旅路のはじまりの高揚感を演出してくれます。
私が乗車するのは6:32発はやぶさ1号、秋田新幹線こまちを連結して姿を現しました。私はJR東日本の乗り放題1万円のキュンパスを利用して東京から新青森まで行き、同じ列車で北海道新幹線の新函館北斗まで行きます。そこからはこだてライナーに乗り継ぎ、函館に11:20の到着する予定でした。
 
はやぶさの車窓からは雪をかぶった数々の名山の峰々を見る事ができました。大宮、仙台、盛岡を過ぎ、八戸などを過ぎ、新青森到着、ここからは座席を変えて、奥津軽いまべつ駅を過ぎるといよいよ青函トンネルです。速度を落としてかなり長い時間青函トンネル内を走り続け、ついに北海道上陸、あたりは一面の雪化粧でした。北海道へ来たという感動を覚え、右手に函館湾を見ながらしばらくすると、新函館北斗駅到着。はこだてライナーへの乗り換えは10分程度と短いのですが、ここはスムーズに抜け函館へ向かいました。そして11:20函館へ到着しました。
 
 
函館駅到着
 
 
函館駅はホームがカーブになっているのが特徴ですね。駅舎は比較的新しいおしゃれな建物でした。まだ雪が残っているところもありましたが、雨が降っていたので、かなり溶けてシャーベット状になっていました。函館は思ったより寒くなく、関東の寒い日くらいの気温でした。
 
函館朝市
 
私はまず駅のすぐ近くの朝市を見学しました。東京で言えば築地場外市場のような場所でしょうか?海産物が所狭しと並べられ、イカの釣り堀がにぎわっていました。ここで海鮮どんぶりを食べたいところなのですが、時間がなかったのですぐ市電に乗り、五稜郭へと向かいました。

約250軒の店舗が軒を連ねる函館朝市は、海産物をはじめ野菜、果物、お菓子、珍味など、函館のありとあらゆる味覚が集まる巨大な市場。函館駅から徒歩1分でアクセスもしやすく、函館旅行には外せない観光スポットでもあります。朝市大通り、朝市仲通り、巴通りといった路面店の集まっている通りのほか、どんぶり横丁市場、駅二市場、函館朝市ひろばといった施設もそれぞれに特徴があります。函館朝市のルーツは、終戦直後に近隣町村の農家が野菜や果物を持ち込んで行った函館駅前での立ち売り。昭和22年には現在の市役所付近に移りましたが、規模の拡大に伴って昭和31年に現在地に移転。以降、函館の食の一大流通拠点として栄えてきました。

 
 
 
五稜郭到着
 
市電函館駅前から五稜郭公園前駅までは15分ほど、そこから五稜郭タワーまで10分ほど歩きます。しなし、ここはまだ先が長いということで、時間を節約して五稜郭タワーには上りませんでした。
 
 
五稜郭タワーのすぐ目の前にラッキーピエロがありました。
 
 

 

五稜郭

 

かつて戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争で、榎本武揚、土方歳三らが率いる旧幕府軍にとって最後の砦となった五稜郭。国の特別史跡に指定され、一般的には五稜郭公園の名で親しまれています。2010年には、郭内にあった江戸幕府の役所である箱館奉行所が復元されました。多くの木々と堀に囲まれた星型の城郭は、夏は緑、秋は赤や黄色、冬は白、そして5月の大型連休ごろには桜色へと彩りを変えます。現在では約1530本が花を咲かせています。函館のサクラの開花状況は、裏門の橋付近の標本木(ソメイヨシノ)で観測されます。また、散り際には堀の水面が花びらで覆い尽くされる「花筏(はないかだ)」も見られ、開花時とはひと味違った趣を楽しめます。(はこぶらより引用)

五稜郭タワーから五稜郭を眺めたところですね。メイキング映像に出てきます、

MVの最後に五稜郭の奉公所が出てきます。岩佐さん函館の歴史の重みをひしひしと感じられたようです。フルバージョンではさらに多くの景観が楽しめますのでぜひご覧ください。

 
五稜郭内は雪が多く残っていて、「アキラ」MV 撮影時の夏の様子とは違っていました。橋をまたって右側のスペースは広場になっていて、MV時には草花も咲いていましたが、この時は一面の雪、北海道の冬の厳しさを感じる光景でした。
 
広場から見る五稜郭タワー、岩佐さんはタワーをソルトミルに見立ててぐりぐりやっていましたね。それにしても木々の葉の様子が随分違いますね。
 
 
箱館奉行所
 

市民や観光で訪れる人の憩いの場である五稜郭公園のほぼ中央に、解体から約140年を経て部分復元された箱館奉行所。マツの木に囲まれながらたたずむ姿は、幕末の時代にタイムスリップしたような威厳をたたえています。箱館奉行の最初の設置は1802(享和2)年。奉行所の建物は、その翌年、当初は函館山の山麓(現在の元町公園付近)に建てられました。その後、江戸時代末期のペリー来航に伴って同じ場所に再設置されましたが、1864(元治元)年、防衛上等の理由で、ヨーロッパの城塞都市を手本に蘭学者・武田斐三郎が設計した、星形の五稜郭へ新築移転します。江戸幕府の崩壊とともに明治新政府へ引き継がれますが、蝦夷地開拓をめざして上陸した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠。激戦の末に箱館を制圧した新政府軍からの艦砲射撃で被弾し、1871(明治4)年には開拓使の札幌移転にともない解体されます。その後、昭和後期になると、復元の待望論が持ち上がり、綿密な発掘調査、文献研究が進められた結果、 2010(平成22)年7月、見事によみがえりました。

アキラの最後の場面でこの箱館奉行所の荘厳な姿が映し出されています。岩佐さん間近で見てその威容に圧倒されていたようです。内部には展示物もあり歴史を語る建物物として、五稜郭の象徴となっています。
 

 

五稜郭を後にした私は市電で谷地頭に向かいました。谷地頭までは役30分、13:15頃に到着。
 
谷地頭駅から見る函館山もきれいですね。ここから立待岬へ向かったのですが、道を間違えいったん海の方へ出てしまいました。そこから引き返して立待岬へと向かう道へと出ました。駅から立待岬までは役1km,徒歩で15分近くかかります。
立待岬へと向かう道は3月下旬まで車両通行止めで歩いてゆくしかありません。結構な坂道で息を切らしながら登りましたが、幸い雪はほとんど凍っていなかったので、滑ることはありませんでした。途中石川啄木一族のお墓がありました。

「死ぬ時は函館で死ぬ」。石川啄木は、義弟の宮崎郁雨へ宛てた手紙の一節にこう書き残しています。26歳だった1912(明治45)年に、東京で病死した啄木。彼を慕う郁雨と、市立函館図書館の初代館長・岡田健蔵は、函館を啄木の永眠の地にすることで悲願を叶えます。函館山の南端にある立待岬へ向かう坂の途中に、石川啄木一族の墓として建立。墓面に「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」の一首が刻まれているように、この短歌の舞台とされる大森浜を一望できる高台に選んだのは、啄木を尊敬する2人による精一杯のはからいだったに違いありません。北に正面を向ける墓石は、将棋の駒を思わせる個性的な形。樺太の北緯50度線に設けられていた日露境界標石を模したのだそう。ロシアに強い関心を抱いていた啄木の心情を象徴するものかもしれません。(はこぶらより引用)

視界が開け立待岬が見えてきました。
 
 
立待岬
 

市街地から見て函館山の左端に位置する立待岬は、海に突き出る形で海抜約30mの断崖がそそり立ちます。大森浜から湯の川温泉街へと通じる海岸線 と、津軽海峡を一望できる絶景の場所で、かつて、寛永年間には北方警備のため異国船の往来を監視する台場、明治時代には函館要塞の背後を防御する要塞が築かれました。「立待」という名は、一説でアイヌ語の「ピウス」(岩の上で魚を待ち伏せして、ヤスで獲る場所)を意訳したとされています。岬一帯の岩は、斜長石や角閃石などからなり、縞模様に見え、五稜郭築城の際、石垣の一部に使用されました。広場の一角は「はまなす公園」として整備され、北海道の花であるハマナスがたくさん植えられて、夏には香りのいいピンク色の花で楽しませてくれます。その名も「はまなす」という売店もありますが、営業は夏の間のみです。また、岬の手前のほうには与謝野寛・晶子の歌碑が建てられています。市立函館博物館の創設者だった岡田健蔵の功績を称えるため、1957(昭和32)年8月に建立。寛が岡田氏の親友・宮崎郁雨を読んだ「濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土」、晶子による「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと」との短歌が刻まれています。(はこぶらより引用)

 

アキラのMVの冒頭に函館の東側海岸沿い「立待岬」からの映像が流れます。

立待岬の東側、太平洋を望む海沿いの街並みがよく見えます。

はまなす公園と言われるように、MVを撮影した夏にははまなすの花が咲き誇っていましたが、春の足音もまだ遠い立待岬の情景は、まだ厳しい冬の装いだったかもしれません。

今回のr旅行の天気は曇り、MV撮影時とほぼ同じところはこの曇りがちの天気というところでしたが、ここ立待岬では雨も降ってきて、肌寒さを感じる場所でした。

立待岬は恋人と過ごした思い出に浸れる一番ロマンチックな場所ですね。

 

 
 

 


 

少しアングルが千葉いますが、岩佐さんが函館山を背景にベンチに座って海を眺めるシーンはここで撮影されたと思います。

 

私が次に向かったのは函館公園です。立待岬から函館山ロープウェイ山麓駅までは徒歩で30分くらいあり、市電を使うと遠回りになるので徒歩で行くことにし、その途中にある函館公園に立ち寄りました。函館公園には動物園やこどものくにという小さな遊園地もあり、結構広い敷地になっています。動物園は保護された鳥たちや猛禽類などが飼育されていますが、寒い冬はどう過ごされているだろうかと思うところがありました。

 

 

函館公園

 

豊かな草木に覆われた函館山のふもとに、函館公園があります。「病人に病院が必要なように、健康な人間には休養する場所が必要」と、当時の函館駐在英国領事リチャード・ユースデンが提言したのを受けて、市内の実業家4人が中心となって寄付金を集め、市民も全面的に協力。着工から1年7カ月を経て、1879(明治12)年に開園しました。日本で最も早い時期に設置された都市公園のひとつで、今も当時の姿をとどめる貴重な存在です。国登録文化財の登録記念物(名勝地)に指定。函館公園は、桜の名所としても知られています。1889(明治22)年から5年にわたって、地元の商人・逸見小右衛門が、函館公園を奈良県の吉野山のようにしたいと、自らの手でサクラとウメの木5280本を植栽。昭和初期までの大火でその樹木のほとんどが焼失しましたが、現在はソメイヨシノを中心に約400本のサクラの木が植えられています。

日本最古の観覧車。登録有形文化財にも指定されているレトロな観覧車です。

 

 

函館護国神社

 

1869(明治2)年に箱館戦争で殉難した政府軍兵士を祀る招魂社として創建され、1939(昭和14)年に函館護國神社と改称されました。昭和17年に造営された社殿は、旧内務省制定の護國神社様式で、流れるようなカーブを描いた屋根が特徴です。神社では珍しい朱色の大鳥居からは函館市街や津軽海峡を眺望することができます(はこぶらより引用)

 

函館公園を出て午護国神社に立ち寄りしばらく歩くと、函館山ロープウェイ山麓駅に到着しました。インフォメーションでこの日は山頂から函館の町は見えないということでしたが、せっかく来たのだからロープウェイに乗ることにしました。時刻は14:15です。

 

函館山ロープウェイ

 

函館観光ガイドより引用

函館山山頂へのアクセス手段の中でも、利用者が多いのが函館山ロープウェイです。山麓駅と山頂駅の間を3分で結び、旅行ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン改定第2版」で三つ星として紹介された「函館山からの眺望」を手軽に楽しむための足として、活躍中。125人乗りのゴンドラは2014年11月にリニューアルされ、景観に溶け込む新デザインが採用されています。全面のガラス窓がさらに大きくなり、視界は抜群。高度が上がるにつれて、山麓の街並みや教会群、津軽海峡や函館湾などを、山頂からとは一味違う角度で楽しむことができます。(はこぶらより引用)

アキラMVでは函館山ロープウェイから撮影された映像も登場。岩佐さんが座った後方の椅子から函館の街を眺めます。人がいた関係で全く同アングルでの撮影はできませんでしたが、雪交じりの悪天候の中でも上る途中には絶景が見えました。ロープウェイは15分間隔で運行、山頂までは役3分で着きます。

 

展望台からの眺めは晴れた日は上記のように素晴らしいですが、この日は想像通りくっきりと街並みが見えない状況。雪もちらついて山頂はかなり寒かったです。函館の夜景を眺める展望台も恋人たちの思い出に焼き付いた場所だと思います。

 

 

函館山山頂からの夜景

 

函館山からの眺めは絶景です。昼間もいいですが、一番は夜景。まるで宝石を散りばめたような様子に時間を忘れて見入ってしまいます。風が強いので寒い日は防寒対策を。2階の展望台には函館山のモニュメントが設置されています。1階の展望台と反対側には漁火公園があり、鉄塔もたっているのが見えました。函館山は、今から約100万年前の海底火山の噴出物が土台となり、その後の噴火で隆起や沈下を繰り返して、大きな島として出現しました。海流や風雨で削られて孤島になり、流出した土砂が堆積して砂州となり、約5000年前に北海道と陸続きに(陸繋島)。尖っていた山頂は明治時代の要塞工事で削られて、現在の姿になりました。終戦後、要塞地帯だった函館山が約50年ぶりに一般開放されるようになり、1953(昭和28)年に山頂に展望台が開設され、1958(昭和33)年にはロープウェイが開業。1988(昭和63)年には125人乗りの新ゴンドラ導入、そして北海道新幹線開業を控えた2015(平成27)年秋には展望台がリニューアルされました。

 

 

悪天候もあって山頂にいたのは15分ほど、すぐに山麓駅に降りてきました。山麓駅の駅舎内にはFM いるかの放送局があります。山麓駅から見る函館山もきれいですね。

以上アキラ函館聖地巡礼レポ1は終了。この後は八幡坂、元町公園を通りベイエリア、金森レンガ倉庫へ向かいます。ご興味のある方は次回レポートをご覧いただけたらと思います。ありがとうございました。