一日遅れとなりましたが、新年の挨拶をさせていただきます。
年頭に当たって、今年が良い年となりますよう、心からお祈りするものです。

私のような法曹の仕事は、法的な争いごとの代理人となってその依頼者の利益を代弁することが多いですが、無益な争いを生まないこと、適正な解決を目指すことを通じて、良い年の実現に貢献したいと思います。

今年は、物事を根本的に深く考えることを心がけて、日々努力して行きたいと思います。
皆様、何卒よろしくお願い申し上げます。

実際には真実と違うところがあっても,書面(特に警察などの公的機関の作成にかかるもの)になってしまえばこれを覆すことが極めて難しいことをこれまで述べてきましたが,そのように覆すのが難しくなる背景事情として,裁判所が「どうして今になってそのようなことをいうのか?」という目で見るということがあるのではないかと思います。

 

実況見分調書などに記載された事故状況と事故の実態が異なることを強く主張する被害者は,基本的に権利意識が強い人,あるいは物事の白黒をはっきりつけたい人であろうと裁判所は考えるでしょう。当該事故について強い関心を持っている人です。そうすると今度は,「それほど強い関心があるのなら,どうして調書が作成される段階で,警察にもはっきりと言わなかったのか?」という疑問が生じます。

そこで,調書作成段階で主張をしなかった(できなかった)合理的な理由を説明できればよいのですが,特別な理由もない場合,「後からの主張は,真実と合致するものとは認めがたい。」と裁判所は考えるのだろうと思います。嘘をついているとまではいえなくても,記憶の変遷などによって実際とは異なることを真実と思い込んでしまっていると認定されてしまうことは十分にあると思います。私自身,調書と異なる事故状況を主張したケースで,調停委員に「あなたの依頼者は,後から記憶がすり替わっているのではありませんか?」?という趣旨のことを言われた経験があります。

逆に,調書を覆すことに成功した例もありますが,そのときは①被害者の方が調書作成段階は入院中で,けがの痛みもあって十分な主張ができなかったことを説明し,さらに②工学関係の大学の先生に意見書を書いていただくということも行いました。②だけでは調書を覆すことに成功していたかどうか,わかりません。

少し前に、実況見分調書や医師の診断書など、書面として確定した証拠が、裁判の事実認定の上で重視されることと、それが行き過ぎた場合の問題点をお話しましたが、書かれたものが重視されるのは、特に類型的に信用できる書面の場合、それに沿って認定しておけば、大きな間違いはないだろうという意識が、裁判官にはあると思われます。

ですから、同じ「書かれたもの」であっても、より客観的な証拠と明らかに矛盾する記載があれば、それは排斥されます。例えば、肩関節の可動域について、半分しか上がらないと記載された診断書があるにもかかわらず、同時期に同一人物が、腕を真上にまで上げている(それも複数回、苦もなく)ヴィデオが証拠として提出された場合、診断書の記載は可動域の実態に反すると認定されるでしょう。
また、給与明細書も、官公庁や大企業などの発行するものは信用性が高いとされますが、中小零細企業や個人事業主の発行するものは一応疑って見られることも少なくないようです。

書かれたもののうちでも、「類型的に信用できるものか?」という観点からの選別は事実上、大きな意味を持つと思われます。

近年、最高裁判例の注目すべき変更が幾つも見られますが、新しい判例はすでに、下級審の判決で採用され、あるいは学説で主張されてきた論理構成や結論であることが多いように思われます。
また、明確な判例変更とは行かないものの、下級審や学説のいうところに一定の理解を示すケースも少なくありません。
交通事故関係でいえば、逸失利益に関する差額説を修正した昭和56年判例が後者の例といえましょう。

このように見てきますと、実務法曹にとって最高裁判例は重要なものですが、絶対的なもの、金科玉条ではないといえるでしょう。
最高裁判例をベースにしつつも、時代や社会情勢に応じて修正、漸進していくというのが、意義のある行き方であるように思います。
車両の速度や衝突の衝撃を推定するために、数学や物理の公式を用いることは先日お話しましたが、いろいろと仕事で使っているうちに、非常に興味深く思えてきて、「あっ、こういう使い方があったんだ!」、「こんな結果が出るのか!」などと、新たな発見が何度もあります。

そして、複雑な計算をしていて、うまく結果が出たときや、数学的な分析によって主張の裏付けができたときの嬉しさは、なかなか譬えようがありません。
さらに、判決や和解案でそのような分析・計算が「反映された!」とわかったときは非常な達成感を覚えます。

文系人間だからと、理科系の諸分野にも、食べず嫌い、尻込みせず、積極的に関心を持って行くようにしたいものです。