平成二十九年も残すところあとわずかですが、今上陛下におかれましては、御年を数えられる中で、御任務を全うすることへの御不安を抱かれ、皇太子殿下への御譲位をお決めになられた旨、承っております。
それゆえ、平成の御代もあと少しで終わりとなり、次の元号が決定されることとなりましょうが、また世間には、わが国特有の元号を維持すべきや否やの議論が一部にあるようです。

わが国においては、思想、言論は自由であり、憲法にてもそれは保障されていますから、元号を不要と考え、否定する論者を国賊の如く見做すつもりは私にもありません。
しかしながら、わが国は有史以来、易姓革命のない稀有な国家であります。また、御聡明なる聖徳太子が煬帝に書を送られて以来、紛うことなき独立国てあります。
このようなわが国の国体をかんがみるとき、元号を廃し、西暦に統一するが如きは(廃止論者の中で、皇紀に統一しようというような論は寡聞にして聞いたことがありません)、果たして賢明な処置といえましょうか。

「グローバルスタンダード」の名のもと、一部の国家ないし集団に利益が集約される国際体制が進行しているようにも聞きます。
このような時代、独自の紀年法を有する温かい平和国があることは、我欲に溺れる(?)ある人々への反省材料とはならないでしょうか。

交通事故に関する民事事件をやっていると,実況見分調書から車両の速度を推定する,車両の速度や重量から衝突の衝撃を計算するといった作業がしばしば必要になります。

そうすると,数学の方程式や物理の公式を使うことが頻繁であり,非常に頭を悩ます(?)?ことになります。

 

その方面を専門にしている方から見ればごく初歩的なことなのでしょうが,文系思考の世界にドップリと浸かっている者にとっては,忘却の彼方から公式を引っ張り出し,しかもそれを実用に使える形に落とし込むというのはなかなか大変な作業です。数学はまだしも,物理の方は一層困難です。

それによって裁判や交渉の行方も大きく左右されるのですから,安易な気持ちでやるわけにもいきません。

高校時代の恩師から,「入試に出ない科目もしっかりとやっておくように。それがお前の武器になる。」と言われたことが,今更ながら身に沁みます。

前回の記事で,最高裁や法律学の停滞を指摘された団藤重光先生のご発言のことを書きましたが,平成時代の30年近く,激動の時代,変革期といったことを何度も耳にしてきました。私が中学生くらいになった頃から,世界も日本もいろいろな局面で動きが激しくなったといわれました。

 

しかし,よく考えてみると,経済部門が激しく動いているのと比較して,それ以外の分野は確かに根本的な変化がない,あるいは経済部門に引き摺られているといった感じがします。法律も政治も文化も,何か経済効率,金儲けの助けになるかどうかでその価値を判断されるという傾向が,バブル時代以上に強くなってはいないか,とも思うのです。

その意味で,それらの分野は何れも,体制(大勢)順応,(悪い意味で)保守化という傾向が強まってくるように思われてしまいます。

私の杞憂に終わればいいのですが…

先日,裁判官にはどうしても上級審で破棄されることを恐れる精神構造があるのではと書きました。万一そのようなことでは,無難な認定・判決を書くのが普通になり,必ずしも真実を明らかにする,本当に世の中に必要な問題解決が実現されない恐れがあるというのが,私も危惧するところです。

 

先年亡くなられた,刑法学の大家であり元最高裁判事(在任:昭和49年~58年)の団藤重光博士が,大変示唆的なことを述べられているので,ここで紹介しておきたいと思います(裁判官だけでなく,法律学者についても言及されていますが,問題意識は共通だと思います)。

「(今の法律学者は)みんな根本問題を考えようとしない。ごくごく表面的な解釈論ばかりで。解釈論もなきゃならないけどね,腹の底から出る解釈でなきゃならない。アタマのなかの解釈論ばっかりやっているから。」「(「役所やら各方面に配慮しすぎるということでしょうか。」との問に対し」)そうかもしれない。物事は平面的にみてはいけない。動いている,自分たちが責任をもって動かしていると自覚して行動しないといけない。」「(当時の最高裁判事の態度として)もう保守専念で,今まで通りの考え方を後生大事に守っていく。判例を新しくしていくことにみんな慎重すぎる。」「波を起こさないとだめですね。動かさないと。沈滞していますから。滞っている。今の日本も沈滞しているけど,その象徴みたいなのが当時の最高裁でね。」「判例は動いていくものですから。ファクターになるのは裁判官ですよね。裁判官が判例通りの判決を出すことで頭がいっぱいではだめです。」(『反骨のコツ』朝日新聞社・平成19年(262~264頁))。

 

裁判所に持ち込まれる紛争には,通常の話し合いで片が付かなかったもの,従来の枠組みでは一方当事者に極めて酷な結果がもたらされるもの,従来の常識のままでよいのかと異を唱える人物が問題提起をするもの等が少なくありません。そのような問題に直面して,真に必要な救済を実現し,立法や行政,市民社会を動かしていくのが司法の根本的な存在意義でしょうから,団藤先生のお話はその点からしても非常に重いものがあると思われます。

 

なお,専門分野は異なりますが,105歳まで現役医師として活躍された日野原重明博士が,その最後の著書で訴えられたことの要点が,①迷ったときは遠くを見ること,②他者のために貢献すること,③keep pn going(進み続けること)だったとうかがいました。この日野原先生のメッセージも,団藤先生のご主張と根本は通じるものがあるように思い,非常に興味深いものです。

同年代の知の巨人からのメッセージを,後に続く私たちは深く受け止める責任があるでしょう。

 

 

裁判所では、心証形成、事実認定において、客観的な証拠がやはり重視されます。
例えば、医師の診断書、捜査機関の作成した調書や図面などは、虚偽であることが明らかか、よほど不合理でない限り、基本的に事実認定の際にベースにされるといってよいでしょう。
人による証言は、客観証拠と整合しないものはなかなか採用されないのが現実です。
そのため、「書かれた」証拠が乏しい当事者はなかなかその言い分を容れてもらえず、辛い思いをすることが少なくありません。

裁判所のこのような認定の傾向の背景には、どうしても上級審で破棄されることを恐れる裁判官の精神構造があるように思います。
思い切った判断をする裁判官を増やすためにも、外部からの中途採用(弁護士、法律学者など)をもっと積極的にした方がよいと思うのですが、如何でしょうか。