空・色・祭(tko_wtnbの日記) -29ページ目
この文章の目的は、因果応報の幼馴染を貶めてやろうという魂胆から書き連ねているものではありません。

この幼馴染との関係は一体なんなのか、意味付けるつもりで書き連ねるつもりです。

僕自身が書くものですから、勿論、僕自身の主観を完全に取り払うことはできません。

しかし、少なくとも感情に流されず書くつもりです。

また、幾らかプライバシーの問題もありますから、誰一人実名を出さず、その友人に関しても「その友人」としか表記しないつもりです。

現実のその友人と関わりのある、例えば、学校の同級生でこのブロクの存在を知っている人間はいません。

それを前提に文章を書かせて頂きます。

以前投稿した①の文章において、「その友人」の負の歴史ーーイジメの対象であった小学生時代のエピソードを書きました。

イジメに耐え兼ねて学校を抜け家に帰ってしまったこと、また学年の発表会の際、みんなの前に立ちイジメられた悔しさから嗚咽を漏らかの如く、号泣したことなど…

それが小学四年生、五年生の頃のことですが、おおよそ、その友人の反逆の予兆が見られるようになったのは、小学六年生の頃からです。

後に「(イジメの主要人物を)ボコボコにしてやろうと思って、空手を習いはじめた」と語る空手は、小学五年生の頃から道場に通いはじめたらしいですが、それに加え、小学六年生になると、自分のアイディンティティの目覚めのようなものを起こしたように見えました。

宿題をやってこず、後ろめたさを微塵も感じさせず、開き直っていたことがあります。

「俺はこう在る人間だ」といった意志に貫かれた姿勢が見受けられました。

しかし、その小学生なりに悪ぶれた姿勢は、当時担任の教師の掌によってことごとく折られてしまいます。

一人教室の後ろに正座をさせられ、その際は相変わらず、開き直った態度であったのですが、その友人の態度に対して放った担任の先生の平手打ちによって砕かれてしまいます。

平手打ちを喰らうとその友人は、先ほどの開き直った姿勢から一転して大声を出して泣き出しました。

後に、その友人が、思い出を振り返り、最も心に残っている先生として何度も名前を挙げる先生は、それほど甘くはなかったわけです。

ときには感情に流されて生徒に暴力を振るうこの先生は、同級生の間では嫌われるどころか、最も心に残っている先生として語られる先生です。

またその友人は、小学生六年生の頃、髪に毛を伸ばし顎に掛かるぐらいの長髪にしていたことがあります。

普通小学生といえば、身だしなみといったものに芽生えるには早く、髪型は坊ちゃん刈りで整髪料すら付けていないのが一般的でしょう。

しかし、その友人は、当時「キムタクブーム」といった男の長髪が流行しはじめた頃に、小学生ながらそれほど長くはなくとも、長髪にしていた時期があります。

流石に整髪料までは付けていなかったわけですが、長髪にし、その長髪をうっとうしそうにして、当時スラムダンクの影響で流行りはじめていたバスケットボールをして遊んでいた光景を覚えています。


言わば、その友人は自分のアイディンティティに目覚めるのが早かったように感じられました。

丁度、黒人や、ユダヤ人、同性愛者など、マイノリティである人間が、自分のその劣位の要素を、それ自身が自分自身の確たる存在意義だと思い社会と対峙するように、その友人に関しても、それと似たような心的過程があったように僕自身は思えています。

小学生の頃であったからこそ、そうした人間を魅力的には全く思わなかったわけですが、今の時分から思えば、そういった存在意義に目覚めた人間というのは魅力的です。

少なくとも、僕個人は、そういった人間を魅力的に感じます。

そのある意味早熟であったその友人は、上述の通りであったのですが、僕自身はどうだったのかと言えば、小学六年生は自分の人生において最も豊穣であったと回想できます。

小学五年生の頃から中学受験のための塾に通い出し、学校においては大変優秀な生徒であると思われていました。

受験塾に通っていれば、学校の授業やテストなどは、お遊戯をしているかのように簡単に解けるわけです。

しかし、塾においてはとりわけできる方ではなく、成績では真ん中ぐらいに位置する人間であったわけですが、そんなことは、学校には知れることもなく、同級生からも問われたことがありませんでした。

また、成長期を迎えるのが比較的早くスポーツができる生徒だと思われていた節もあります。

実際に、スポーツテストで一級を取れたのは、同級生55名ほどの中で、二人だけだったのですが、その内の一人が僕でした。

そういうわけで、小学六年生の頃は、自分の人生には珍しく目立つ存在で有り得たわけです。

また、そうした小学六年生の頃にあっては、その友人とはよく一緒に下校する仲になっていました。

私立の小学校であったため、登下校にはバスを使うのですが、同じ方面から通っており、よくバスが来るまで時間が空いてしまったという理由で、バス停からバス停まで、その友人と渡り歩いたことを覚えています。

冬の時期になると日の沈むのも早くなり、本来バスで行く筈の暗くなった帰路を、走り去る車のライトに照らされながら歩いた記憶があります。

途中、バス停からバス停まで渡りゆくまでに、乗るはずのバスに追い抜かれ、走って行くも追いつかず、結局、幾つものバス停をその友人と渡り歩く羽目になったこともあります。

小学六年生において、そうした何ら優劣もない関係であったその友人との関係ですが、中学高校に入って、天と地ほどの差を付けられるとは当時は思いも寄らなかったです。

①の文章の最後に述べたように、その友人は中学高校において英雄的人間になりました。

しかし、前の①の文章では書かなかったのですが、英雄が今度は戦犯に成るという事態も想定できるでしょう。

その友人は、イジメられた負の歴史をバネにして、俗に言う中学デビューを果たした。

しかし、黒い権力に癒着したそれが、二十代中盤に至って戦犯者の如く凋落する。

そういった事態も十分予見できる筈です。

小学校の頃イジメられた理由がどうであれ、その友人には、気質的な面で、欠点があったようです。

イジメていた同級生共々、同級生のほとんどが大学に進学し、二十代中盤には僕みたいな例外を除いては、ほぼ全員が定職に就き安定した社会的な地位を手に入れました。

しかし、その友人は、高校を卒業し、親の要望から福祉関係の専門学校に入学するも一年足らずで中退し、その後、無職の時期や、働いても派遣雇用で職を転々としているわけです。

そして前科一犯という犯罪歴も付いてしまいました。

そういう状況にあるので、幸福そうな生活を送っている元同級生に対して嫉妬の目を当たり散らしているわけです。

それが、おおよそ二年前に僕が見たその友人の姿です。

小学六年生の頃から換算すれば、十七年後のその友人の姿です。

イジメられっ子が英雄に、英雄が戦犯に。

今度は中学時代の話をしなければなりません。

続く…

現在建築の塾に通っています。

この建築塾ににおいて課題が出されましたので、課題の案を立てるために文章によって整理します。

公開するという意図よりも、今回は考えを整理するという目的においてブロクを利用します。

それではどういった課題が出されたのかというと、「建築と××」というテーマでプレゼンテーションをするといったものです。

六ヶ月のカリキュラムの最終日において、最後の回ということもあり、皆の前でプレゼンテーションをするという講義が割り振られました。

そこでこの課題に対して、模索検討したいと思います。

まず、どんなテーマを設定しようと思っているのかといえば、大学時代から続けている読書という趣味をテーマにしたいと思います。

つまり「建築と読書」というテーマ設定です。

ここでシナリオを描きたいと思いますます。

「今回は建築と読書というテーマでプレゼンをさせて頂きます。もともと私が、哲学、もっと広義的に言えば人文科学関連の書籍を読むようになった理由は、大学時代、専攻するデザインの創作に活かそうという思いからでした。大学時代入学時、美大受験用の予備校に通っていた期間は半年と短く、周囲の同級生に幾らか引け目を感じていました。そこで、造形的な能力で劣る私は、それを幾らかでも補償したいという気持ちから、本をよく読むようになりました。それがきっかけなのですが、読書をするうちに、読書自体が目的になりました。言わば、人文科学関連の書籍を読むことが趣味になりました。そこで今回は、建築と趣味である読書というテーマでプレゼンをさせて頂きます。」

「とりわけ頭の良い方ではなかったので、二次文献や入門書で済ませてしまってるものも多いのですが、それでも、自分自身が、今まで時間を注いできたことなので、優劣という極性を一度括弧に入れて述べたいと思います」

以上が前置きとして語るべき事柄であると考えています。

題して「読書のきっかけ」という前置きです。

そして、次は「どんな本を読んできたのか」ということをピックアップし、紹介していこうと思っています。

カント、ハイデッガー、ミルチャイリアーデ、原広司、浅田彰、フッサール、西田幾多郎、二次文献…

その次は、最も入念に読んだカント著『判断力批判』からの幾つかの引用、また概説を手短に述べます。

その次は、そのカント美学に鑑みて、建築を批評した例を出すつもりです。

具体的には、京都造形芸術大学通信学部の課題に寄せた伊藤豊雄の仙台メディアテーク、中野元家の批評を持ち出すつもりでいます。

そして最後に、「これからは二次文献で済ませてしまっている書籍の原著に挑戦してきたいと考えています」で締めたいと考えています。




これがプレゼンの流れです。

約10分程度で締めくくりたいと考えています。

このプレゼンをするに至って必要なものは、パワーポイントで資料を作ること、それに使用するための、書籍の画像、書籍の概要、円滑にスライドさせるための文章です。

10月31日にこのプレゼンを控えてますので、それまでに制作したいと考えています。

幼稚園、小学校、中学校、高校、それらを共にする知人が幾人かいます。

一つの学校法人がそれら四つの通時的な環境を用意したためです。

言わば、僕はその「~~学園」と呼ばれる私立の学校を15年間、エスカレーター式に卒業した人間です。

僕と同じくして、その学園のエスカレーターを登っていった知人が幾人かいます。

おそらくは一般的に、幼稚園から15年間、育った環境を同じくする人間というのは、いたとしても一人か二人ぐらいのものでしょう。

しかし、僕にはざっと数えて10人以上はいます。

世間一般に、それを「竹馬の友」というのでしょう。

しかし、その竹馬の友が、必ずしも仲の良いものとは限らないわけです。

竹馬の友と仲の良さは必ずしも一致しない。

自分の人生を振り返ると、長らく幼馴染だと思っていた人物が、実は因果応報の関係であったと再解釈せずにはいられないことがあります。

自分はそのことに関して、ブログに書き綴り記録に残さねばならないと思い立って、こうして今、iPadのキーボードを叩いています。

また、記録に残すと共に、うまく咀嚼できないこの問題を、飲み込むために幾らか噛み砕きたいという気持ちもあります。

小学生の頃に話を戻さねばなりません。

思い起こせば、その友人は小学四年生の頃、僕の通う学校に再転入してきました。

小学二年生の終業の際にその友人は、他校の公立の学校に転校していったのですが、一年後、僕が通う学校に再転入してきたわけです。

再転入して来た際に、よく目に付いたのは、その友人の目が挙動不審であったことです。

人とすれ違う際に、目前の人物に拒否反応を起こすかのように、眼孔が目の枠の中を挙動不審に一周回るわけです。

そのことをよく覚えていますし、これから10年後、「あの頃あいつは目がギョロギョロしていた」と同級生との会話で出たぐらいですから、僕以外にも際だって目立っていたのでしょう。

その友人がなぜ一度転校した学校に戻ってきたのか、その理由は全く聞いていません。

しかし、戻ってきたこの学校でイジメに合うことになったのは知っています。

勉強ができないだけではイジメの対象にはならなかったでしょう。

だらしなく、勉強をするという小学生の課題を全くしようとしなかった。

性格的に気が弱かった。

嫉妬深かった。

色々考えられますが、イジメの対象にあったのは事実です。

自分自身も例外ではなく、この友人をイジメていたのは拭い去れず事実です。

その頃仲の良かった同級生と侮って笑い者にしたり、悪口を言ったりしていたことを覚えています。

軽々しく発する悪口が執拗に相手を傷つけるということは考えられるでしょう。

例えば、昼休みに同級生数名と遊んでいたことがあります。

そこに担任の先生が来て「お前らのせいで家に帰ってしまったから、連れて帰ってこい」と言われて、その友人の家に、連れ戻す目的で行ったことがあります。

同級生と自分二人で、学校から徒歩10分ぐらいの場所にあるその友人のアパートを訪ねていきました。

そうして、チャイムを押すと母親が出たので、在宅しているかどうか尋ねると、「あの子、トイレに入ったきり出てこないよ」と返ってきました。

それから、その母親になんて返答したのか覚えていませんが、連れ戻すことはできず、そのまま学校に戻ったことを覚えています。

言わば、僕は釈明し難く、この友人に対するイジメに関して中心人物となっていました。

このエピソードは象徴的なものですが、当時その友人に対するイジメは、おおよそ一年ぐらいは続いたと思います。

僕の生い立ちにおいては、イジメは小学生四年生の頃が一番ひどく、他にもイジメが蔓延っていました。

小学五年生になるとイジメは下火になり、小学六年生になると例外を除けば、無かったと言えるでしょう。

少なくとも、この友人に限って言えば、イジメられていたのはほぼ小学四年生に限られたと
言えると思います。

その後、イジメが一番酷かった小学四年生を終業し、小学五年生に入りと今度は、イジメに関して学級のみんなで話し合おうという時間が割り振られたことがあります。

当時90年代は、イジメが大変な社会問題になっていて、ニュースで連日のように、中学生のイジメによる自殺が報道されていました。

イジメが社会的に問題視される時流にあったため、僕が在学していた学校でもイジメに関して考えるという時間が割り振られたわけです。

10人ぐらいのグループをつくり、各グループに一人ずつ先生が付きイジメについて話し合う、そうして最後にイジメについて話した内容を学年みんなの前で発表すると言ったものでした。

その際、僕は小学四年生においては、イジメるイジメられるの関係にあったその友人と同じグループでした。

小学四年生において、そういった関係にあったことが嘘のように、僕はその友人とグループを組んだわけです。

どんなことを話し合ったのかは、おおよそ覚えていませんが、話し終え発表をするため、みんなの前に立ったときのことです。

グループの一人が小学生なりにスピーチをしている最中、途中でみんなに波紋のようなものが起きました。

その波紋に促されて、隣を向くとその友人がまさに嗚咽を漏らかの如く号泣していたことを覚えています。

蚊帳の外から客観視するような見方になってしまうのですが、その友人はそれほど悔しい思いをしていたということです。

それが、小学五年生の頃のその友人の姿であって、自分自身その友人の姿が印象的に記憶に残っています。

しかし、それら負の生い立ちは、その友人の逆襲の素地であって、これからその友人の快進撃がはじまります。

中学、高校において、その友人はスクールカーストの頂点に立つことになります。

その友人が「小学生の頃にイジメられていた」と笑い話をすると、周囲の人間は口を揃えて信じられないと首を振る状況へと関係性が逆転します。

イジメられっ子という負の歴史を完全に払拭し学校の頂点に立つという自体は、大変ドラマチックな事態であり、誰もが「あいつは凄い」と英雄視するところです。

言わば、その友人は中学高校にあっては英雄的な人間になった。

小学四年生の当時イジメの首謀者であった同級生は中学校に入りイジメ返されることになります。

また僕個人がイジメ返されるには、小学四年生の当時から数えて、15年後になります。

こうして、文章を書くにあたっては、自分自身がイジメ返された事実があるため、幾らか貶めてやろういう魂胆もありましたが、必ずしもそうはなりそうもありません。

その友人の快進撃の努力は、それが黒い権力に癒着したものであるにせよ、認めなければなりません。

また、小学生の頃その友人をイジメていたことに関して、幾らかの罪悪感も抱きました。

その友人を憎むことが多い今の時分にあってはそれは意味があります。

もしかしたら、自分自身もこの友人に対する悔恨を払拭することができるかもしれません。

続く…