竹馬の友は因果応報の仲であったか?② | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)
この文章の目的は、因果応報の幼馴染を貶めてやろうという魂胆から書き連ねているものではありません。

この幼馴染との関係は一体なんなのか、意味付けるつもりで書き連ねるつもりです。

僕自身が書くものですから、勿論、僕自身の主観を完全に取り払うことはできません。

しかし、少なくとも感情に流されず書くつもりです。

また、幾らかプライバシーの問題もありますから、誰一人実名を出さず、その友人に関しても「その友人」としか表記しないつもりです。

現実のその友人と関わりのある、例えば、学校の同級生でこのブロクの存在を知っている人間はいません。

それを前提に文章を書かせて頂きます。

以前投稿した①の文章において、「その友人」の負の歴史ーーイジメの対象であった小学生時代のエピソードを書きました。

イジメに耐え兼ねて学校を抜け家に帰ってしまったこと、また学年の発表会の際、みんなの前に立ちイジメられた悔しさから嗚咽を漏らかの如く、号泣したことなど…

それが小学四年生、五年生の頃のことですが、おおよそ、その友人の反逆の予兆が見られるようになったのは、小学六年生の頃からです。

後に「(イジメの主要人物を)ボコボコにしてやろうと思って、空手を習いはじめた」と語る空手は、小学五年生の頃から道場に通いはじめたらしいですが、それに加え、小学六年生になると、自分のアイディンティティの目覚めのようなものを起こしたように見えました。

宿題をやってこず、後ろめたさを微塵も感じさせず、開き直っていたことがあります。

「俺はこう在る人間だ」といった意志に貫かれた姿勢が見受けられました。

しかし、その小学生なりに悪ぶれた姿勢は、当時担任の教師の掌によってことごとく折られてしまいます。

一人教室の後ろに正座をさせられ、その際は相変わらず、開き直った態度であったのですが、その友人の態度に対して放った担任の先生の平手打ちによって砕かれてしまいます。

平手打ちを喰らうとその友人は、先ほどの開き直った姿勢から一転して大声を出して泣き出しました。

後に、その友人が、思い出を振り返り、最も心に残っている先生として何度も名前を挙げる先生は、それほど甘くはなかったわけです。

ときには感情に流されて生徒に暴力を振るうこの先生は、同級生の間では嫌われるどころか、最も心に残っている先生として語られる先生です。

またその友人は、小学生六年生の頃、髪に毛を伸ばし顎に掛かるぐらいの長髪にしていたことがあります。

普通小学生といえば、身だしなみといったものに芽生えるには早く、髪型は坊ちゃん刈りで整髪料すら付けていないのが一般的でしょう。

しかし、その友人は、当時「キムタクブーム」といった男の長髪が流行しはじめた頃に、小学生ながらそれほど長くはなくとも、長髪にしていた時期があります。

流石に整髪料までは付けていなかったわけですが、長髪にし、その長髪をうっとうしそうにして、当時スラムダンクの影響で流行りはじめていたバスケットボールをして遊んでいた光景を覚えています。


言わば、その友人は自分のアイディンティティに目覚めるのが早かったように感じられました。

丁度、黒人や、ユダヤ人、同性愛者など、マイノリティである人間が、自分のその劣位の要素を、それ自身が自分自身の確たる存在意義だと思い社会と対峙するように、その友人に関しても、それと似たような心的過程があったように僕自身は思えています。

小学生の頃であったからこそ、そうした人間を魅力的には全く思わなかったわけですが、今の時分から思えば、そういった存在意義に目覚めた人間というのは魅力的です。

少なくとも、僕個人は、そういった人間を魅力的に感じます。

そのある意味早熟であったその友人は、上述の通りであったのですが、僕自身はどうだったのかと言えば、小学六年生は自分の人生において最も豊穣であったと回想できます。

小学五年生の頃から中学受験のための塾に通い出し、学校においては大変優秀な生徒であると思われていました。

受験塾に通っていれば、学校の授業やテストなどは、お遊戯をしているかのように簡単に解けるわけです。

しかし、塾においてはとりわけできる方ではなく、成績では真ん中ぐらいに位置する人間であったわけですが、そんなことは、学校には知れることもなく、同級生からも問われたことがありませんでした。

また、成長期を迎えるのが比較的早くスポーツができる生徒だと思われていた節もあります。

実際に、スポーツテストで一級を取れたのは、同級生55名ほどの中で、二人だけだったのですが、その内の一人が僕でした。

そういうわけで、小学六年生の頃は、自分の人生には珍しく目立つ存在で有り得たわけです。

また、そうした小学六年生の頃にあっては、その友人とはよく一緒に下校する仲になっていました。

私立の小学校であったため、登下校にはバスを使うのですが、同じ方面から通っており、よくバスが来るまで時間が空いてしまったという理由で、バス停からバス停まで、その友人と渡り歩いたことを覚えています。

冬の時期になると日の沈むのも早くなり、本来バスで行く筈の暗くなった帰路を、走り去る車のライトに照らされながら歩いた記憶があります。

途中、バス停からバス停まで渡りゆくまでに、乗るはずのバスに追い抜かれ、走って行くも追いつかず、結局、幾つものバス停をその友人と渡り歩く羽目になったこともあります。

小学六年生において、そうした何ら優劣もない関係であったその友人との関係ですが、中学高校に入って、天と地ほどの差を付けられるとは当時は思いも寄らなかったです。

①の文章の最後に述べたように、その友人は中学高校において英雄的人間になりました。

しかし、前の①の文章では書かなかったのですが、英雄が今度は戦犯に成るという事態も想定できるでしょう。

その友人は、イジメられた負の歴史をバネにして、俗に言う中学デビューを果たした。

しかし、黒い権力に癒着したそれが、二十代中盤に至って戦犯者の如く凋落する。

そういった事態も十分予見できる筈です。

小学校の頃イジメられた理由がどうであれ、その友人には、気質的な面で、欠点があったようです。

イジメていた同級生共々、同級生のほとんどが大学に進学し、二十代中盤には僕みたいな例外を除いては、ほぼ全員が定職に就き安定した社会的な地位を手に入れました。

しかし、その友人は、高校を卒業し、親の要望から福祉関係の専門学校に入学するも一年足らずで中退し、その後、無職の時期や、働いても派遣雇用で職を転々としているわけです。

そして前科一犯という犯罪歴も付いてしまいました。

そういう状況にあるので、幸福そうな生活を送っている元同級生に対して嫉妬の目を当たり散らしているわけです。

それが、おおよそ二年前に僕が見たその友人の姿です。

小学六年生の頃から換算すれば、十七年後のその友人の姿です。

イジメられっ子が英雄に、英雄が戦犯に。

今度は中学時代の話をしなければなりません。

続く…