子供から大人になるに連れて、次第に価値観は変化するものです。
小学生においては、勉強もでき、スポーツもでき、真面目で、しっかりしていて、ませている人間が比較的に注目を浴びる傾向にありました。
しかし、注目される人間、されない人間がいようと、スクールカーストなどという格差が存在しないというのも小学校の価値観です。
人生においてその価値観が、本来的に正統なものであると思っていますが、しかし、中学高校という過渡期においては必ずしもその通りではなかったと思います。
人生の過渡期にあたる中学高校時代とは、その正統な価値観から言えば、真っ向から反対する力学が働いているようなものです。
例えば、丁度この年頃の人間を対象にしたマンガの多くは、それを物語っているでしょう。
〈不良マンガ〉というジャンルがある通り、マンガの多くはそちらの側に傾倒しています。
そのなかでは、不良やアウトロウ、ヤクザなどの力の行使者が、一種の権威として描かれています。
例えば、当時流行し、ドラマ化映画化までされた『GTO』というマンガは、正にその通りです。
大人たちのつくった存続の社会的秩序に反逆したい年頃、違う学校同士すれ違えば睥睨し合う環境、そういった時勢においては、そうしたイリーガルな力が信望される傾向にあったと言えます。
そういう状況であるならば、真面目に勉強している人間はガリ勉と言われ、広く外にはみ出して遊びや活動をしている人間が敬われるという事態が起きるわけです。
ホワイトカラーよりもブルーカラーの方が断然格好いい、それが人生の過渡期における支配的な価値観だと思います。
日常を取り巻く価値観がそうした潮流へと向きを変える折、その潮流の変化をはじめから待っていたの如く、うまく乗った人間がいます。
それが、先の文章で示した「その友人」です。
先の②で述べた通り、アイディンティティの目覚めが早かった、早熟なその友人は、不真面目さや、教師に対する反発や、学力テストで最下位を取ることなどで自分自身の不真面目さを周囲に誇示していきます。
また、その傍ら学校の権威のある先輩と親しくすることによって、同級生の間から抜き出るということが起きました。
中高一貫校として校舎を構えるこの学校は、中学一年生であれば、五学年先輩がいることになります。
そして高校生であり、かつ心にゆとりのある人間であれば、中学生には優しい筈です。
その友人が気に入られ、親しくなったのは主に高校生の先輩であり、それも応援団長をやるような目立った高校生です。
逆に、一つか二つ上の先輩になると、あれやこれやと後輩にうるさいわけですから、その友人は、そういった先輩に対して「ムカつく」と愚痴をこぼしていました。
僕自身は、中学入学と同時にバスケ部に入ったのですが、そうした手荒に後輩を扱う先輩に対して、いささか物怖じしていた節があります。
僕は小心者でした。
また、コミュニケーション能力も低かったということも言えます。
その頃の自分と言えば、無愛想で先輩に気に入られる素養などは皆無と言ってよい人間でした。
たかだか一つ二つ上の先輩に物怖じをして、どう接して良いか作法が分からないというのは、長けている人間ではありません。
もっと度量のある人間であれば、先輩であれ、その友人の如く「ムカつく」と突っぱねたこともできるでしょうが、そうした度量もありませんでした。
そう考えれば、中学一年において、すでにその友人に一歩上に行かれた感は否めません。
先輩にかしこまって従順であるよりも、嫌いな先輩を突っぱねるぐらいの方が、この頃の少年にとっては、幾らも優っている。
中学生に入り、小学生の頃いろいろな事情から、イジメられっ子という劣位の立場を強いられたその友人の、今度は長けている面が表れるようになりました。
先輩から気に入られる陽気な人柄や人当たりの良さなど…
外部からこの中学校に入学してきた同級生が、すでに中学一年生の頃から「お前がイジメられっ子だったなんて信じられない」と口々に言っていました。
しかし、そうした光景を見て、当時の僕は何故そうした事態が起きているのか理解できない部分がありました。
今でこそ、この文章で書いているように、何故その友人がそれまで買い被られたのか分かりますが、当時僕としては、その友人は取り分け変わっているようにも見えませんでした。
恐らくそれは、その友人を軽く見ていたということもあるのでしょうが、なりより、社会的な慣習を学習するのが遅く、価値観が疎かったというのが挙げられると思います。
高校生の先輩方に顔がきく中学一年生はませていますし、敵に回したら痛い目に合いそうな気もします。
しかし、僕はその友人に一目置くようなことがありませんでした。
一つ二つ上の先輩に物怖じをする僕ですが、その友人に気後れを起こすことや、物怖じをするなんてことはありませんでした。
それは、それを察するだけの価値観が備わっていなかったからだと思います。
また、その友人はある父親の写真を学校に持ってきたことがあります。
父親が、上半身裸の姿で、いとこと写っている写真です。
父親こそ刺青を入れてはいなかったのですが、隣に写っているいとこの身体には和堀が入っていました。
そしてその友人は「俺の父親は元ヤクザだ」と言います。
本来大人であればそんなことをこれ見よがしに自慢する人間はいないでしょうが、当時は中学生です。
中学生ですから分別がないと思わず、見せられた方も幾らかの畏怖の念も交えて見るわけです。
しかし、僕自身、その写真やその写真を自慢するその友人の姿など、覚めた目で見てたわけです。
しかし、周囲の同級生は、畏怖の念を抱くものもいれば、一目置人間もいるわけです。
それが、中学一年生のその友人の中学デビューの黎明です。
その頃から、小学校の頃イジメの主要人物であったある一人が、その友人と複数人にイジメられている姿を目にするようになります
それほど執拗に陰湿なイジメではなく、複数人におちょくられ笑い飛ばされている姿をしばしば見受けました。
つまり、黎明に至ってすでにあっという間に関係性の逆転が起きたということです。
しかし、これは黎明であり、物事の端緒でしかありません。
続く…