幼稚園、小学校、中学校、高校、それらを共にする知人が幾人かいます。
一つの学校法人がそれら四つの通時的な環境を用意したためです。
言わば、僕はその「~~学園」と呼ばれる私立の学校を15年間、エスカレーター式に卒業した人間です。
僕と同じくして、その学園のエスカレーターを登っていった知人が幾人かいます。
おそらくは一般的に、幼稚園から15年間、育った環境を同じくする人間というのは、いたとしても一人か二人ぐらいのものでしょう。
しかし、僕にはざっと数えて10人以上はいます。
世間一般に、それを「竹馬の友」というのでしょう。
しかし、その竹馬の友が、必ずしも仲の良いものとは限らないわけです。
竹馬の友と仲の良さは必ずしも一致しない。
自分の人生を振り返ると、長らく幼馴染だと思っていた人物が、実は因果応報の関係であったと再解釈せずにはいられないことがあります。
自分はそのことに関して、ブログに書き綴り記録に残さねばならないと思い立って、こうして今、iPadのキーボードを叩いています。
また、記録に残すと共に、うまく咀嚼できないこの問題を、飲み込むために幾らか噛み砕きたいという気持ちもあります。
小学生の頃に話を戻さねばなりません。
思い起こせば、その友人は小学四年生の頃、僕の通う学校に再転入してきました。
小学二年生の終業の際にその友人は、他校の公立の学校に転校していったのですが、一年後、僕が通う学校に再転入してきたわけです。
再転入して来た際に、よく目に付いたのは、その友人の目が挙動不審であったことです。
人とすれ違う際に、目前の人物に拒否反応を起こすかのように、眼孔が目の枠の中を挙動不審に一周回るわけです。
そのことをよく覚えていますし、これから10年後、「あの頃あいつは目がギョロギョロしていた」と同級生との会話で出たぐらいですから、僕以外にも際だって目立っていたのでしょう。
その友人がなぜ一度転校した学校に戻ってきたのか、その理由は全く聞いていません。
しかし、戻ってきたこの学校でイジメに合うことになったのは知っています。
勉強ができないだけではイジメの対象にはならなかったでしょう。
だらしなく、勉強をするという小学生の課題を全くしようとしなかった。
性格的に気が弱かった。
嫉妬深かった。
色々考えられますが、イジメの対象にあったのは事実です。
自分自身も例外ではなく、この友人をイジメていたのは拭い去れず事実です。
その頃仲の良かった同級生と侮って笑い者にしたり、悪口を言ったりしていたことを覚えています。
軽々しく発する悪口が執拗に相手を傷つけるということは考えられるでしょう。
例えば、昼休みに同級生数名と遊んでいたことがあります。
そこに担任の先生が来て「お前らのせいで家に帰ってしまったから、連れて帰ってこい」と言われて、その友人の家に、連れ戻す目的で行ったことがあります。
同級生と自分二人で、学校から徒歩10分ぐらいの場所にあるその友人のアパートを訪ねていきました。
そうして、チャイムを押すと母親が出たので、在宅しているかどうか尋ねると、「あの子、トイレに入ったきり出てこないよ」と返ってきました。
それから、その母親になんて返答したのか覚えていませんが、連れ戻すことはできず、そのまま学校に戻ったことを覚えています。
言わば、僕は釈明し難く、この友人に対するイジメに関して中心人物となっていました。
このエピソードは象徴的なものですが、当時その友人に対するイジメは、おおよそ一年ぐらいは続いたと思います。
僕の生い立ちにおいては、イジメは小学生四年生の頃が一番ひどく、他にもイジメが蔓延っていました。
小学五年生になるとイジメは下火になり、小学六年生になると例外を除けば、無かったと言えるでしょう。
少なくとも、この友人に限って言えば、イジメられていたのはほぼ小学四年生に限られたと
言えると思います。
その後、イジメが一番酷かった小学四年生を終業し、小学五年生に入りと今度は、イジメに関して学級のみんなで話し合おうという時間が割り振られたことがあります。
当時90年代は、イジメが大変な社会問題になっていて、ニュースで連日のように、中学生のイジメによる自殺が報道されていました。
イジメが社会的に問題視される時流にあったため、僕が在学していた学校でもイジメに関して考えるという時間が割り振られたわけです。
10人ぐらいのグループをつくり、各グループに一人ずつ先生が付きイジメについて話し合う、そうして最後にイジメについて話した内容を学年みんなの前で発表すると言ったものでした。
その際、僕は小学四年生においては、イジメるイジメられるの関係にあったその友人と同じグループでした。
小学四年生において、そういった関係にあったことが嘘のように、僕はその友人とグループを組んだわけです。
どんなことを話し合ったのかは、おおよそ覚えていませんが、話し終え発表をするため、みんなの前に立ったときのことです。
グループの一人が小学生なりにスピーチをしている最中、途中でみんなに波紋のようなものが起きました。
その波紋に促されて、隣を向くとその友人がまさに嗚咽を漏らかの如く号泣していたことを覚えています。
蚊帳の外から客観視するような見方になってしまうのですが、その友人はそれほど悔しい思いをしていたということです。
それが、小学五年生の頃のその友人の姿であって、自分自身その友人の姿が印象的に記憶に残っています。
しかし、それら負の生い立ちは、その友人の逆襲の素地であって、これからその友人の快進撃がはじまります。
中学、高校において、その友人はスクールカーストの頂点に立つことになります。
その友人が「小学生の頃にイジメられていた」と笑い話をすると、周囲の人間は口を揃えて信じられないと首を振る状況へと関係性が逆転します。
イジメられっ子という負の歴史を完全に払拭し学校の頂点に立つという自体は、大変ドラマチックな事態であり、誰もが「あいつは凄い」と英雄視するところです。
言わば、その友人は中学高校にあっては英雄的な人間になった。
小学四年生の当時イジメの首謀者であった同級生は中学校に入りイジメ返されることになります。
また僕個人がイジメ返されるには、小学四年生の当時から数えて、15年後になります。
こうして、文章を書くにあたっては、自分自身がイジメ返された事実があるため、幾らか貶めてやろういう魂胆もありましたが、必ずしもそうはなりそうもありません。
その友人の快進撃の努力は、それが黒い権力に癒着したものであるにせよ、認めなければなりません。
また、小学生の頃その友人をイジメていたことに関して、幾らかの罪悪感も抱きました。
その友人を憎むことが多い今の時分にあってはそれは意味があります。
もしかしたら、自分自身もこの友人に対する悔恨を払拭することができるかもしれません。
続く…