空・色・祭(tko_wtnbの日記) -27ページ目
カメラのレンズという工学的メカニズムによる視点が、文字通り極めて科学的であり、その視点が物事の合法則性を描写することにしか貢献しないのならば、それはすでに大枠の芸術論を裏切ってはいないか。

そう疑問に思います。

先の記事で取り上げた中平卓馬の植物図鑑はまさにそれです。

私自身は、合法則的なものに対して合目的的な視点を持って物事を照らし出すのが芸術-アートの一端であると思っています。

それを踏まえた上で、私は写真に対して合目的的な意志を投射し表現をしたいと考えています。

前の記事において〈理性-欲求能力-合目的性-意志〉によって表現をすることが私の方針だと書きましたが、まさにその方針を写真によって実現したいと考えています。

そう考えるのであれば、過度のレタッチをすることも目的に適ったものとなるでしょう。

ところで、写真というものは二次元的なものです。

まず、身体を現実に導入し、そのなかで被写体の撮影するという行為が先立ちます。

次いで、二次的作業としてそれを編集するという行為があります。

本来アナログフィルムの時代においては、その二次的な作業は暗室という仄暗い赤い光のなかで行われました。

徐々にフィルムが駆逐され、デジタルカメラが普及し出した2005年頃には、その呪術的な行為が写真から消えてしまったと嘆かれる言葉が、雑誌などを見ていて、よく垣間見られたものです。

現在では、パソコン上で二次的な作業をするのが一般的です。

とにかく一次的な行為と二次的な行為の過程を経て写真はつくられる。

一次的な段階が、現実を合法則的に描写するものであるならば、二次的な段階においてそれを合目的的なものへと改変する可能性というものがあると考えます。

言わば、写真には何の詩情も感じさせぬ現実を、言わば詩のように変革する能力があると考えます。

言わば、「写真は現実を審美化する装置である」ということです。

(そこで、写真という媒体は、それが平面にプリントされた虚構であるにも拘わらず、鑑賞者はその虚構を現実として見てくるという性質があるというのは重要です)

私個人としては、それが写真の合目的性であると思っています。

その合目的性を拠り所に写真を撮りたいと考えています。

どんな主題を選び、それを詩へと変革するのか。

それを熟考し後日書きたいと考えます。


「写真とは記録である」という合目的性はモダニズムの写真論です。

丁度、デザイン理論において「形態は機能に従う」といった有用性がモダニズムの思想であったのと同様に、写真においては記録するための用として写真が考えられたのです。

それまでの写真論が絵画の芸術論からの援用であったのに対して、写真固有の芸術論が考案された際に、その合目的性というものが善しとされたのがこのモダニズムの写真論です。

そのため、例えば中平卓馬という写真家は、被写体に植物を選び、それをなんの情感も感じさせぬかのように記録に徹し、植物図鑑を撮ったといいます。(それがコンセプトであったという)

「写真は記録である」という合目的性は確かにその通り目的に適った通りのものでありますから、万人にとって快く了解されるでしょう。

しかし、そのカメラのレンズという工学的メカニズムによって写し出された被写体が、必ずしも人の目を楽しませるものではないでしょうし、人の生活に意義のあるものになるかと言えば、全くそれを意味しない。

写真は被写体に依存するものであるが、この場合の写真論で考えるのでしたら、写真は被写体に対する関心の分量によってのみ、その芸術性が計られてしまいます。

芸術的なのは、その被写体であって写真ではないということになってしまう。

「写真は記録である」という写真における機能主義は、廃されるべきものであると考えます。

建築家・原広司が『空間〈機能から様相へ〉』という著作のなかで、建築はこれから、近代における機能主義の構成の理論が廃され、様相へと構成の主題が移って行くだろう予測するように、写真論においてもモダニズムの写真論は廃されるべきではないかと考えています。

言わば「写真は記録である」という写真論は古いものであると考えています。

(とりわけそれは的はずれなものではない。例えば、杉本博司は既に、他の文脈でカメラを使用しています。長時間絞りを開放し、そうして時間をフィルムに封じ込めるという"行為"は、コンセプチュアル・アートの方法論を思わせます)

そう感じていますから、私自身も「写真は記録である」という写真論の範疇に止まらず、写真を撮ることをしたいと考えています。

私の写真を撮るにあたってのコンセプトは、後日記事を書きます。


作品を作り、それを作品集という形で、社会に発表したいと考えています。

つまり私は表現をするにあたって、書籍というメディアを使用したい。

本来作品集というものは、著名な作家が出版社の手を借りて出版するものです。

しかし、私自身はアートを書籍という媒体を使って世に発表したいと考えています。

もちろん、人から融資を受けることなどできないわけですから、自費出版という形を取り出版します。

それは、個展を開催するといった一回性の行為よりも多分に有意義ではないか。

私の思うところ、個展というのは、足を煩わせて見に行く過程があるので、それをやや大仰に礼拝的な行為だとするのならば、そういった礼拝的な個展こそ著名な作家の方がするに相応しいと考えています。

一方書籍という複製可能な媒体は、時間場所を問わずより多くの方に見てもらえるという利点がある。

もし、紙に印刷するのが古く、更には費用がかかり過ぎるのならば、電子書籍という形でも構いません。

できれば紙媒体という形で物にしたいですが。

本を売り利益を得ることが目的ではないので、著名ではない作家が無料で個展を主催するように、それらの本を無料で配布してもよいと考えています。

(しかし無料であれば、おそらくは真面目に見てくれない)

それが行先の目標です。

それでは、私はその作品集になにを載せるのかと言えば、先の記事で表明した表現によるものを載せたいと考えています。

その方法として絵やグラフィック・CG・写真・プロダクト・文章といったメディアを使用する。

その更に具体的な構想は、追って記事を書きます。