モダニズムの写真論について | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)
「写真とは記録である」という合目的性はモダニズムの写真論です。

丁度、デザイン理論において「形態は機能に従う」といった有用性がモダニズムの思想であったのと同様に、写真においては記録するための用として写真が考えられたのです。

それまでの写真論が絵画の芸術論からの援用であったのに対して、写真固有の芸術論が考案された際に、その合目的性というものが善しとされたのがこのモダニズムの写真論です。

そのため、例えば中平卓馬という写真家は、被写体に植物を選び、それをなんの情感も感じさせぬかのように記録に徹し、植物図鑑を撮ったといいます。(それがコンセプトであったという)

「写真は記録である」という合目的性は確かにその通り目的に適った通りのものでありますから、万人にとって快く了解されるでしょう。

しかし、そのカメラのレンズという工学的メカニズムによって写し出された被写体が、必ずしも人の目を楽しませるものではないでしょうし、人の生活に意義のあるものになるかと言えば、全くそれを意味しない。

写真は被写体に依存するものであるが、この場合の写真論で考えるのでしたら、写真は被写体に対する関心の分量によってのみ、その芸術性が計られてしまいます。

芸術的なのは、その被写体であって写真ではないということになってしまう。

「写真は記録である」という写真における機能主義は、廃されるべきものであると考えます。

建築家・原広司が『空間〈機能から様相へ〉』という著作のなかで、建築はこれから、近代における機能主義の構成の理論が廃され、様相へと構成の主題が移って行くだろう予測するように、写真論においてもモダニズムの写真論は廃されるべきではないかと考えています。

言わば「写真は記録である」という写真論は古いものであると考えています。

(とりわけそれは的はずれなものではない。例えば、杉本博司は既に、他の文脈でカメラを使用しています。長時間絞りを開放し、そうして時間をフィルムに封じ込めるという"行為"は、コンセプチュアル・アートの方法論を思わせます)

そう感じていますから、私自身も「写真は記録である」という写真論の範疇に止まらず、写真を撮ることをしたいと考えています。

私の写真を撮るにあたってのコンセプトは、後日記事を書きます。