空・色・祭(tko_wtnbの日記) -26ページ目
倦怠感を感じることが多い生活ですが、今日私は電気屋に足を運び三脚を購入しました。

前の記事で書いたように写真を撮るためです。

今現在東京ではなく、静岡の実家にて寛いでいる、あるいはうなだれているところです。

そうであるので、東京の街を撮り歩くことは早速できない状況でありますから、まずは田舎の町において、写真撮影を実行しようと考えています。

言わば、人がいない時間帯を狙い無人の町を三脚を立てて撮りに行く。

そうして後でPhotoshopでレタッチをする。

それを明日の暁闇に行おうと考えたいます。

そういうわけで、ブログに投稿致しました。

いろいろ試したい。

誰もいない都市の様相は、本来喧騒を思わせる様相との差異によって物語る。

審美化し写真として提示したい。

そのためには、朝方おおよそ午前3時から午前5時の間が都合がよいだろう。

その時間に東京を闊歩して写真を撮影したい。

奇行に近い形になりかねないが、街路道徳を侵しているわけでもなく、とりわけ問題がない。

他に良い主題があれば、いろいろ考える。
審美化されて然るべき概念とは一体なんであるのかということを考えるのであれば、以前の記事に書いた通りです。

カントが『判断力批判』において述べるように、純粋な美は善と相触れ合うものでないにせよ、善を教化するための道具として使われてきたというならば、私はその系譜にのっとって写真を撮りたいと考えています。

そこでの主題は敢えて飛躍しますが、谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」というもの、あるいは磯崎新が「闇の一元論」というもの、川端文学の人の情を寄せ付けいほど清潔な小説、枯山水の様相、「桜の花びらが刹那的に散る」といった美質が物語るもの、それらがそれとなく物語るところの善を主題としたいと考えています。(それは仏教の影響を多分に受けたもの)

そうであるから、京都に行き枯山水を撮るというわけではなく、あるいは晩春まで待って桜が散るのを撮ろうというわけではなく、それらが意味するところのものと概ね同一の概念を主題としたいということです。

その抽象的な主題の具象化された被写体を撮りたいと考えています。