形態の整然とした規則正しさは、対象に帰せられて対象の概念となる。
それだからこの規則正しさという性質は、対象を一個の表象のなかに収め、また表象に含まれている多様なものを対象の形式に関して規定をするために欠くことのできない条件である、そしてかかる規定が即ち認識における目的であり、また認識に関して常に適意と結びついているのである(たとえ意図が単なる蓋然的なものにあるにせよ、およそ意図の実現には必ず適意が伴うのである)。
しかしそうするとかかる適意は、問題を満足に解決したことに対する是認にすぎなくなり、心的能力〔構想力と悟性〕が互に調和しつつ、我々が美と名ずけるところのものによって自由にかつ不定的-合目的に楽しむことにはならない。
なお心的能力がこのような仕方で楽しむ場合には、悟性が構想力に仕えるのであって、構想力が悟性に奉仕するのではない。
グラデーションは形式的なものですが、果たしてそれが純粋な美の範疇にあるのかどうか、つまり以前の記事に書いたことに誤りがないか懐疑的になりました。
純粋な美とは、目的なき合目的性、構想力と少しの悟性であり、主観的なものに拘らず、アプリオリで普遍であるというものです。
また、現実的なものではなく、「これは美しい」と万人に同意を得ることができるという理念である言います。
グラデーションがなぜ美的なのかということを考えると、目的なき合目的性という心的態度は妥当していると考えます。
しかし、構想力と少しの悟性という心的態度にあたっては、グラデーションはその範疇にはない。
構想力が自由に遊び悟性的認識に至らぬ、という心的態度が純粋な美であり、自由美、自然美とも言い換えられるものです。
むしろ、グラデーションが妥当しているのは次のものではないか。
「理路整然とした規則正しさは、目的を思い浮かべることができるから美的である。
しかし、その規則正しさが、目的に適っていない場合、退屈の念を感じさせることがある。また規則正しさは人の心を長く楽しませるものではない」
この謂は、純粋な美ではなく、むしろ有用性ではないか。
目的なき有用性という言い回しは目にしたことがないが、もしその言い回しが許されるのならば、グラデーションは目的なき有用性と言えるのではないか。
理路整然とした規則正しさ-目的なき有用性
有用性は、なにかの役に立つ上で合目的性であるという道具的な合目的性です。
もしそうなれば、構想力と少しの悟性という純粋な美の範疇にはすでにない。
むしろ、これも理性の能力に由来するものであると言える。
理路整然とした規則正しさ。
規定的なものであり構想力は少しも遊ばないが、目的なき合目的性である。
それは万人に普遍妥当するものなのか。
グラデーションをどう考えるべきなのか。
目的に適っていないと退屈の念を生じさせるという。
写真を撮ってきました。
今回は早朝、家から車で20分の沼津の千本浜に行きました。
現場で三脚を立て撮影する際は、あまり面白くなりそうなアングルが探せなかったので戸惑いましたが、レタッチの次元でなんとか面白くしようと思いいろいろ試してみました。
今回も色(快適に寄与する)の使用は最小限にとどめ、使う場合は形式(美)に従えるようにグラデーションにして落とし込んでいます。
レタッチの次元ではいろいろなことが自由にできてしまうので、その分、意志を持って、レタッチをしなければなりません。
今回は、行き当たりばったりになってしまったものも多いので尚そう思いました。
以下四枚アップロードします。

これは千本浜の砂浜に降り立った際、沖の方に霞掛かった山が眺望されたので撮影しました。
一体、山脈や山襞とはなんだろうというと思い巡らすと、それは遠方に眺望されるものであり、木々の雑多な質感が消滅し、あたかも更に遠方の空へと霞んで消えてしまいそうなものです。
それは鮮明に捕捉されていた事物が、その現実味を失って、捉えがたい曖昧な雰囲気へと風貌を変えたような、詩的な風情を感じます。
言わば、遠く退いた山々は風情があり美しいと主張したいです。

これは、釣りをしていた人がいましたので、そちらを堤防を背景に撮影しました。
風景を撮影した写真であり人物が特定されぬシルエットとなってますので、肖像権の侵害にはあたりません。
人物が仄かに赤くなっているには、自分自身の意志の投影の結果です。

こちらは、千本浜から望める富士山です。
黄金を入れています。
黄金に輝くものが神々しいという印象は、経験的なものですが、おそらく金が貴重なものとして扱われてきたように、古今東西どの文化でもそう思われているのではないかと考えています。

最後の写真も早朝に撮影したものですが、レタッチの次元で、夕闇の頃に撮影したかのような写真になりました。
沖の方に望める集落のような建物郡を望遠で撮影しました。
こちらは、青と赤の色を入れていますが、形式に従えるようにその二色をグラデーションにして入れました。
向こう側の集落が鈍い赤に染まっています。
以上が今回撮影し編集した写真です。
これらの写真を踏まえて、いろいろ必要な機材や、撮影時に心がけなければならないことなど浮かびましたので、今後それらも改善したいと考えています。
尚、今回撮影した写真は以前の記事で述べたコンセプトとはいささか趣旨が違いますが、いろいろ表現を試して、表現の幅を広げていきたいと思い、こうした編集をしました。
今回は早朝、家から車で20分の沼津の千本浜に行きました。
現場で三脚を立て撮影する際は、あまり面白くなりそうなアングルが探せなかったので戸惑いましたが、レタッチの次元でなんとか面白くしようと思いいろいろ試してみました。
今回も色(快適に寄与する)の使用は最小限にとどめ、使う場合は形式(美)に従えるようにグラデーションにして落とし込んでいます。
レタッチの次元ではいろいろなことが自由にできてしまうので、その分、意志を持って、レタッチをしなければなりません。
今回は、行き当たりばったりになってしまったものも多いので尚そう思いました。
以下四枚アップロードします。

これは千本浜の砂浜に降り立った際、沖の方に霞掛かった山が眺望されたので撮影しました。
一体、山脈や山襞とはなんだろうというと思い巡らすと、それは遠方に眺望されるものであり、木々の雑多な質感が消滅し、あたかも更に遠方の空へと霞んで消えてしまいそうなものです。
それは鮮明に捕捉されていた事物が、その現実味を失って、捉えがたい曖昧な雰囲気へと風貌を変えたような、詩的な風情を感じます。
言わば、遠く退いた山々は風情があり美しいと主張したいです。

これは、釣りをしていた人がいましたので、そちらを堤防を背景に撮影しました。
風景を撮影した写真であり人物が特定されぬシルエットとなってますので、肖像権の侵害にはあたりません。
人物が仄かに赤くなっているには、自分自身の意志の投影の結果です。

こちらは、千本浜から望める富士山です。
黄金を入れています。
黄金に輝くものが神々しいという印象は、経験的なものですが、おそらく金が貴重なものとして扱われてきたように、古今東西どの文化でもそう思われているのではないかと考えています。

最後の写真も早朝に撮影したものですが、レタッチの次元で、夕闇の頃に撮影したかのような写真になりました。
沖の方に望める集落のような建物郡を望遠で撮影しました。
こちらは、青と赤の色を入れていますが、形式に従えるようにその二色をグラデーションにして入れました。
向こう側の集落が鈍い赤に染まっています。
以上が今回撮影し編集した写真です。
これらの写真を踏まえて、いろいろ必要な機材や、撮影時に心がけなければならないことなど浮かびましたので、今後それらも改善したいと考えています。
尚、今回撮影した写真は以前の記事で述べたコンセプトとはいささか趣旨が違いますが、いろいろ表現を試して、表現の幅を広げていきたいと思い、こうした編集をしました。