空・色・祭(tko_wtnbの日記) -21ページ目
生活がどのような位相にあるかと言えば、現在年明けからの仕事が決まり、研修を受けている最中である。

来年より設計事務所で働くということになり、auto_cadの研修を受けている。

しかし、仕事が決まったというのは大変有り難いことではあるが、今回は派遣会社を通じて、設計事務所に派遣就業するということになった。

今年の8月まで派遣会社に正社員として所属し、建築の施工管理の仕事に二年間従事していた。

以前の会社に所属していた頃は、建築業界は人手不足であり、東京オリンピックが終わる頃までは景気が良く、特に施工会社であれば、引く手あまた、容易に転職できるだろうと言われていた。

しかし、私は施工管理の仕事ではなく、設計の方にまわりたいという願望があり、設計事務所の求人を受けていた。

その内の一件面接の際、面接官の方から、施工の経験があるのなら、施工事業を主にやっているゼネコンなどの設計部の求人を受けた方がよいのではないかという意見をもらった。

そういう経緯もあり、その後は内装の設計から施工までをしている内装業者などの求人を受けていたのであるが、その際派遣登録しておこうと思い足を運んだ派遣会社の案件にすぐさま受かるという事態が起きた。

面接の結果待ちをいくつか抱えていたものの、早く決まった案件に便乗しようと思っていた私は、この派遣会社の案件を承諾することにした。

そういう経緯から、来年から私は都内の設計事務所で働くことに決まった。

設計事務所でなにをするのかというと、派遣会社のもと研修を受けている通り、cadオペレーターをするということになっている。

派遣社員であるにせよ、なんとか施工から設計の方に架橋できたという気持ちである。

そこで二年間施工管理に携わった経験は、無駄にはならないだろう。

そしてこれから、cadオペレーターという形で設計の方に携わる。

私はそれほど若くないが、これから経験を積み早く追いつかなければという気持ちである。

後悔をしていても仕方がない。

そういうわけもあり、来年より次のステップである設計の方に従事することとなった。

また、住まいに関しては、以前住まわせてもらっていたシェアハウスに改めてお世話になることになった。


人間の認識における目的が規則正しさの発見にあり適意と結びつく、それは目的の概念を必要とせぬ悟性的な美である。

それであるならば、グラデーションは理性に由来する美ではなく悟性的な美だ。

つまり、ア・プリオリで主観的にも関わらず、万人に普遍妥当する美質であると言える。

構想力はいささか遊ばないが、構想力と少しの悟性という美の範疇だ。

グラデーションに関して二点三点したが、やはりそうである。

つまり純粋な美の範疇にある。
「善の実践には快の感情が伴う。しかし、キリストはその快の享受を否定する。それでは人の生は耐え難いものになってしまうだろう。しかも、その道徳感では人を惹き付けることができず、共同体を維持することが不可能だ。もはや人間はキリストの側には付いていない、悪魔の側には付いている」

私の解釈が間違っていなければ、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』における有名な章「大審問官」の要約はおおよそ上の通りだ。

快適さが阻止され善の意志が溢出するという心的過程は、崇高と呼ばれるものである。

例えば、自分が死ぬにも拘らず、線路に落ちた子供を救ったといった自己犠牲は崇高の極みである。

それが善の最たるものであるという。

西欧-キリスト教圏において標榜されるのが、そうした崇高な道徳観である。

しかし、何故快の享受が否定されなければならぬのか。

善を実践してみせた人間が立派な人間として敬われるといった恩恵にあやかれないのであれば、善行を働く人間は少なくなってしまうだろう。

恩恵を受けることを密かに期待し、善き人であろうという人間は偽善者として断罪されるべきだろうか。

人間が悪魔の側についているのではなく、むしろ西欧-キリスト教的な道徳観に欠陥があるのではないか。

例えば、利己的な欲求を善によって正当化せしめたものであるにせよ、それが利他的なものにまで及ぶのであれば善しするといった、崇高ではなく、大らかな道徳観の方が共同体の維持に適っており、更には人間の幸福に寄与するのではないか。

しかし、密かに利己心を忍ばせて善人あろうとする人間というものを考え、それを美醜の感情にかざすのならば、おおよその人間にとっては美的には思えないというところだ。

善悪の分別には美醜の感情が伴う、善は美であり悪は醜。

しかし、善悪の分別が経験的なものであり、社会的慣習の学習によって培われるものであるならば、美醜の分別もそれに従属し培われるものだという思弁もできるのだ。

利己心を忍ばせた善人、言わば仮面の善に醜さを感じることがあるならば、それは西欧的-キリスト教的価値観を無為に学習したからではないだろうか。

西欧近代が機能不全を起こしているといった言葉は、文化に真摯に向かい合っている人間ならば、大仰な口振りでもなく、それとなく語るところのものであるが、西欧的な倫理とそれに伴う美醜といったものは、払拭されてもよいものに思えてならない。

「情けは人のためならず」という謂があるが、仏教においてはその達観からはじまっているという。

また、古来からある日本的な美質ーー谷崎潤一郎の『陰翳礼讚』や川端康成の人の情を寄せ付けないほど静寂な文学空間、建築家・磯崎新の闇の一元論・桜の花びらが刹那的に散るといった美質、九鬼周造の『いきの構造』・・・・(概ねそれらは仏教の影響を多分に受けたもの)

それらの美質がそれとなく物語るところの善というものを考えるのであれば、それらは西欧的価値観には決して納まらぬ、それどころか、西欧が悪として断罪してきたものだろう。

つまり、現代の日本は、実相が仮象を密かに裏切っているという事態を孕んでいるのだ。

日本人はその状況に気付くべきだ。

東洋において一早く近代化された日本において、その仮象が破られ実相が溢出するという日がこれから来ると思っている。