空・色・祭(tko_wtnbの日記) -14ページ目

『自由からの逃走』 エーリッヒ・フロム著 日高六郎 訳 からの引用 

 

サディズム的およびマゾヒズム的性質はすべてのひとびとにみいだされる。一方の極には、全人格がこのような性質で支配されているひとびとがあり、他方には、それらが支配的でないひとびとがいる。前者をのみわれわれはサド・マゾヒスト的性格と呼ぶことができよう。180p

 

この「サド・マゾヒスト的」という言葉は、倒錯と神経症という観念と結びついているから、ことに神経症的ではなくて正常な人間をさすばあいには、私はサド・マゾヒズム的性格という言葉を使うかわりに、「権威主義的性格」と呼ぶことにしたい。182p

 

権威主義的性格にとっては、すべての存在は二つにわかれる。力をもつものと、もたないものと。それが人物の力によろうと、制度の力によろうと、服従への愛、賞賛、準備は、力によって自動的にひきおこされる。力は、その力が守ろうとする価値のゆえにではなく、それが力であるという理由によって、かれを夢中にする。かれの「愛」が力によって自動的にひきおこされるように、無力な人間や制度は自動的にかれの軽蔑をよびおこす。186p

 

権威主義的哲学においては、平等の観念は存在しない。権威主義的性格は、ときには平等という言葉を、慣習的に、あるいはかれの目的に便利であるという理由で、使うこともある。しかしそれはかれにとって、どんな現実的な意味も、重みもない。それはかれの感情的経験の及ぶところではないからである。191p

 

われわれは、サド・マゾヒズム的な追求と破壊性とは、たがいに深くからみあってはいるが、区別しなければならないことを述べた。破壊性がことなっているのは、積極的にしろ消極的にしろ、対象との共棲を目指すものではなく、対象を除去しようとするところにある。しかし、破壊性もまた、たえがたい個人の無力感や孤独感にもとづいている。197p

 

外界を破壊することは、外界の抑圧から自己を救う、ほとんど自暴自棄な最後の試みである。197p

 

個人のうちにみられる破壊性の程度は、生命の伸長が抑えつけられる程度に比例するように思われる。201p

 

破壊性は生きられない生命の爆発である。202p

 

私はファッシズムとか権威主義とかいう言葉を、ドイツやイタリアにみられるような独裁組織を示すものとして用いる。30p(第1章注)

 

 

 

 

 

 

 小説を書いており、小説内においてエーリッヒ・フロムの文章を引用したいと考えているので、ブログにメモをした。

 

 個人的に、日本社会が一面権威主義的であるということは否めない事実のように思われるが、権威主義を看破する局面を小説のなかに導入したいと考えている。

 

 スクールカーストという言葉(概念)をよく耳にするようになったのは、私が大学を卒業して間もない頃であり、2010年ぐらいのことであると思う。

 

 また、ネトウヨなどがネット上に出現し、過激な排外主義・差別主義を見せるようになったのも、因果関係はないが、これと同時期であったように思う。

 

 権威主義的態度というのは、個人の無力感、孤独感に根ざしており、自分の自由を明け渡しででも力のあるものに服従し、安心を得ようという心的態度のことであり、エーリッヒ・フロムはこの権威主義を『自由からの逃走』『悪について』で、病気である、悪である、と主張する。

 

「私は人道主義的態度をとる」と主張しながら、特定の人間を、行動ではなく性格の面において、精神分析学を用い、幼児期の家族の物語に根ざした形で、さらには性に根ざした形で、「病気だ」「悪だ」「SMだ」という。

 

これが真に人道主義なのかと疑問に思うこともあるが、この二冊は示唆に富んでいる。

 

読書をしていると文学の毒にあたることがある、と流し読みをした二葉亭四迷の『平凡』に書いてあったが、私が毒に当たったのが十九歳の頃に読んだ同学者の『悪をついて』だった。

 

なぜかと言えば、私自身がこの本に教唆され、権威主義的な態度を改めようと考えたとき、身のまわりの権威主義的な一面を敵外視せずにはいられなかったからだ。

 

十四年越しに同学者の『自由からの逃走』を読んでおり、もうすぐ読み終える。

 

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権威主義(authoritarism)とは、政治的・社会的・歴史的に優越性(価値性)が認められた既存の権威や権力に無条件に従うことで利益を得ようとする考え方のことである。権威主義者は、自分より上位にあると認める社会的権威や政治的権力、支配的価値観に対して卑屈で弱腰であり、勝ち馬に乗ることを信条として『寄らば大樹の陰・長いものには巻かれろ』の格言に示される従属的な態度を取る。しかし、その一方で、自分より下位にあると考える社会的弱者・政治的マイノリティ、周縁的価値観(サブカルチャー)に対して傲慢不遜で威圧的であり、権力(財力)や権威を何も持たない社会的弱者を侮蔑している。




エーリッヒ・フロムは、「自由からの逃走」を導く性格特性として権威主義的パーソナリティ(authoritarian personality)を考えたが、権威主義に同調的なパーソナリティ(人格)は「自分の自由」よりも「権威への従属(忠誠)」を重視するのである。フロムは権威主義的パーソナリティを、「強者への服従・弱者への攻撃」を特徴とする社会病理であり、病理的性格構造であるとした。




「自由からの逃走(他者への自発的服従)」の原因となる「権威主義的パーソナリティ・サディズム・マゾヒズム」を持つ人たちは、「個人の自由(主体的に選択する人生)」を実現するための大きな自己責任を負うことができない。フロムは、破滅的な社会病理の様相を見せる権威主義的パーソナリティやサディズム(マゾヒズム)に誘惑されない為に、「生産的な生活・他者への愛情・個人の自由の尊重・人間性の肯定」が大切であると主張した。

個々人の幸福や自由を尊重する「人道主義的な倫理」を全体的な利益を追求する「権威主義的な理想」よりも重視したフロムは、国民一人一人が「自由からの逃走」を否定する生産的(創造的)な生活と主体的な責任感を持つことで、全体主義(個人の道具化・社会の機械化)の悲劇を回避できると考えた。依存心や逃避欲求を持つ私達は、自由主義の責任感と個人主義の孤独感に耐え切れなくなった時に、権威主義的パーソナリティを持つようになり「絶対的な権威(中心的な価値観)」や「他者との一体感(数の論理)」に従属して自分の人生の自由を放棄してしまうのである。



https://search.yahoo.co.jp/amp/digitalword.seesaa.net/article/43282421.html%3Famp%3D1%26usqp%3Dmq331AQECAEYAQ%253D%253D


フロムは、サドーマゾヒズム的傾向が優勢な性格を、権威主義的性格と呼ぶ。ここで権威とは、ある人が他の人を自分より優越していると見上げる人間関係をいう。

 権威主義的性格の人は、世界について、力を持つもの(人・制度)と力を持たないもの、優越と劣等の二分法で考える。ここで力とは、支配する能力と、何かをする能力のことである。彼らは力を持つもの、自分より上のものには服従し、それを賞賛するが、力を持たない者、自分より下のものを見ると攻撃し、支配し、絶滅したくなる。彼らは相手が無力になればなるほどいきりたつ。ユダヤ民族に対する態度がその典型である。

 この反対に、いかなる権威に対しても挑戦し、それに反感を持つ人もいる。これは権威と戦うことによって自分の無力感を克服する試みである。フロムはこれを反逆者と呼ぶ。

 権威主義的な性格の人は、運命に服従することを好む。この運命は、自然、神の意志、義務として合理化される。ここで合理化とは、理屈を付けることである。

 権威主義的性格の人に、行動や勇気が欠けているわけではない。彼らは、力のないもののためには行動せず、神・自然・義務の名において行動する。また、彼らにとっての勇気は、指導者が決定したことを、不平を言わずに耐え忍ぶことである。http://khosokawa.sakura.ne.jp/



http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11.htm



7) 個人を「不安」で「無力」なものにする「孤独」に、人間は耐えることができない。

彼は進むべき二つの道の二者択一に迫られる。


8) 一つは、愛や生産的な仕事の「自発性」の中で外界と結ばれ、人間の独自性と個性とに基づいた「積極的な自由」の完全な実現に進む道である。


9) もう一つの道は、自由や自我の統一を犠牲にする「絆」によって結ばれ、自由の重荷から逃れて、新しい「依存」と「従属」を求める道(『隷属への道』)である。


10) 人は誰もが「積極的な自由の完全な実現に進む道」を選択できる、という訳ではない。

人間は、無意識的な力によって動かされるために、多くの人びとが、実際は「自由から逃れる道」を選択している、ということを理解しなければならない。


11) 自由と民主主義に対する脅威は、われわれ自身の「態度」と、われわれ自身の「制度」の中に存在する。

ファシズムと戦うために、われわれはそれを理解しなければならない。




(逃避のメカニズム)(服従と支配)


62) 「服従(マゾヒズム)」と「支配(サディズム)」は、いずれも耐えがたい「孤独感」と「無力感」からの逃避である。


63) マゾヒズム(服従)的な人間は、劣等感、無力感、個人の無意味さの感情にとりつかれている。

彼らは自分自身を肯定しようとせず、やりたいことをしようとせず、外側の秩序に服従しようとする。


64) マゾヒズム(服従)的な傾向は合理化されることが多い。「マゾヒズム的な依存」は愛とか忠誠と思われ、「劣等感」は欠点の適切な表現と思われ、「悩み」は変化しない環境のせいだと思われる。


65) マゾヒズム(服従)は、自分自身から逃れ、自己を取り除くことによって、再び安定感を得ようとするための一つの方法である。


66) マゾヒズム(服従)の狙いは、自己から逃れること、自分自身を失うこと、言い換えれば自由の重荷から逃れることである。この狙いは、「圧倒的に強いと感じる人物」や「力」に服従しようとするマゾヒズム的努力の内にはっきり表れる。


https://omoinoha.exblog.jp/21180447/

7月初旬より某アトリエ系設計事務所でアルバイトをし始め、3ヶ月が経った。

3ヶ月間、仕事内容を省みることがなかったので、今丁度時間があるうちに、簡単に文章に書き起こし、それを整理しようと思う。

ここ3ヶ月間なにをしていたのかと言えば、auto_cadの業務、模型製作、Photoshopでのレタッチの3つに代弁できる。

9割型はauto_cadの業務である。

パソコン上にデータのない図面をauto_cadでトレースしデータ化したり、会議で使うcadデータのレイアウトを整えたり、平面図を元に立面図を描いたり、図面に修正を加えたり…といった作業だ。

はじめ、auto_cadを触った程度しかなかった自分だが、ここ3ヶ月間、1日12時間程度の業務ですっかり使いこなせるようになった。

しかし、作業がのろいと指摘されたので、効率など、もう少し考えなければならないところである。

また、作業をするにあたって上司に頻繁に見てもらわないと作業ができないという状況である。

実のところ、仕事を振られなくなるのではないかと不安がしばしば起きる。

良く考え確認をすること。

言われたことを覚えられなきのであるならば、忘れないうちにメモを取らなければならない。

auto_cad以外の業務についてもそれは言える。

Photoshopを使ったレタッチ作業については、それほど危惧するほどのものでもなく、任された業務のうちではうまくできる方だ。

照明を追加したり、オブジェを消したり...

模型に関して言えば、今現在二つ目の模型を作っているところであるが、最も自分にとっては難しく、ヒヤヒヤする業務である。

一つ目の模型を完成させるにあたっては、2回やり直し、3回目でようやく完成の判断が下りた。

作業が早い人間ならば、6時間でできる模型に3日掛かった。

手先が不器用で、細かなところで雑になり、説教が下った。

それが一つ目の模型製作で、二つ目はそれよりなんとかうまくやっているが、決してうまくはなく、各パーツを何回か作り直したり、寸法などを間違えて材料を無駄にすることが多々起きている。

1日12時間作業しているので、いくらかミスをしても仕方がないとも言えるが、それにしても間違えて過ぎである。

それはしっかりするように肝に命じなければならない。

土日休み月曜日、模型製作の続きを再開する。

忘れないうちに、メモ代わりにブログにアップする。