自由からの逃走-権威主義についてエーリッヒ・フロムからの引用 | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)

『自由からの逃走』 エーリッヒ・フロム著 日高六郎 訳 からの引用 

 

サディズム的およびマゾヒズム的性質はすべてのひとびとにみいだされる。一方の極には、全人格がこのような性質で支配されているひとびとがあり、他方には、それらが支配的でないひとびとがいる。前者をのみわれわれはサド・マゾヒスト的性格と呼ぶことができよう。180p

 

この「サド・マゾヒスト的」という言葉は、倒錯と神経症という観念と結びついているから、ことに神経症的ではなくて正常な人間をさすばあいには、私はサド・マゾヒズム的性格という言葉を使うかわりに、「権威主義的性格」と呼ぶことにしたい。182p

 

権威主義的性格にとっては、すべての存在は二つにわかれる。力をもつものと、もたないものと。それが人物の力によろうと、制度の力によろうと、服従への愛、賞賛、準備は、力によって自動的にひきおこされる。力は、その力が守ろうとする価値のゆえにではなく、それが力であるという理由によって、かれを夢中にする。かれの「愛」が力によって自動的にひきおこされるように、無力な人間や制度は自動的にかれの軽蔑をよびおこす。186p

 

権威主義的哲学においては、平等の観念は存在しない。権威主義的性格は、ときには平等という言葉を、慣習的に、あるいはかれの目的に便利であるという理由で、使うこともある。しかしそれはかれにとって、どんな現実的な意味も、重みもない。それはかれの感情的経験の及ぶところではないからである。191p

 

われわれは、サド・マゾヒズム的な追求と破壊性とは、たがいに深くからみあってはいるが、区別しなければならないことを述べた。破壊性がことなっているのは、積極的にしろ消極的にしろ、対象との共棲を目指すものではなく、対象を除去しようとするところにある。しかし、破壊性もまた、たえがたい個人の無力感や孤独感にもとづいている。197p

 

外界を破壊することは、外界の抑圧から自己を救う、ほとんど自暴自棄な最後の試みである。197p

 

個人のうちにみられる破壊性の程度は、生命の伸長が抑えつけられる程度に比例するように思われる。201p

 

破壊性は生きられない生命の爆発である。202p

 

私はファッシズムとか権威主義とかいう言葉を、ドイツやイタリアにみられるような独裁組織を示すものとして用いる。30p(第1章注)

 

 

 

 

 

 

 小説を書いており、小説内においてエーリッヒ・フロムの文章を引用したいと考えているので、ブログにメモをした。

 

 個人的に、日本社会が一面権威主義的であるということは否めない事実のように思われるが、権威主義を看破する局面を小説のなかに導入したいと考えている。

 

 スクールカーストという言葉(概念)をよく耳にするようになったのは、私が大学を卒業して間もない頃であり、2010年ぐらいのことであると思う。

 

 また、ネトウヨなどがネット上に出現し、過激な排外主義・差別主義を見せるようになったのも、因果関係はないが、これと同時期であったように思う。

 

 権威主義的態度というのは、個人の無力感、孤独感に根ざしており、自分の自由を明け渡しででも力のあるものに服従し、安心を得ようという心的態度のことであり、エーリッヒ・フロムはこの権威主義を『自由からの逃走』『悪について』で、病気である、悪である、と主張する。

 

「私は人道主義的態度をとる」と主張しながら、特定の人間を、行動ではなく性格の面において、精神分析学を用い、幼児期の家族の物語に根ざした形で、さらには性に根ざした形で、「病気だ」「悪だ」「SMだ」という。

 

これが真に人道主義なのかと疑問に思うこともあるが、この二冊は示唆に富んでいる。

 

読書をしていると文学の毒にあたることがある、と流し読みをした二葉亭四迷の『平凡』に書いてあったが、私が毒に当たったのが十九歳の頃に読んだ同学者の『悪をついて』だった。

 

なぜかと言えば、私自身がこの本に教唆され、権威主義的な態度を改めようと考えたとき、身のまわりの権威主義的な一面を敵外視せずにはいられなかったからだ。

 

十四年越しに同学者の『自由からの逃走』を読んでおり、もうすぐ読み終える。

 

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