『木村清孝「華厳経をよむ」1997年』からの引用 | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)

 哲学の分野から

 さらに哲学の分野では、惜しいことに最近急逝された廣松渉氏(一九三三-九四)の予言的な論説が私には強い印象として残っております。


それは、たとえばかれが東京大学を定年退官する直前の九四年三月に「朝日新聞」の文化欄で主張していたもので、そこには次のようにあります。




 新しい世界観、新しい価値観が求められている。


この動きも、欧米とりわけヨーロッパの知識人たちによって先駆的に準備されてきた。


だが、所詮(しょせん)彼らはヨーロッパ的な限界を免れていない。


混乱はもうしばらく続くことであろうが、新しい世界観や価値観は結局のところアジアから生まれ、それが世界を席巻することになろう。


日本の哲学屋としてこのことは断言してもよいと思う。


 では、どのような世界観が基調になるか?


 これはまだ予測の段階だが、次のことまでは確実に言えるであろう。


それはヨーロッパの、否、大乗仏教の一部などごく少数の例外を除いて、これまで主流であった「実体主義」に代わって「関係主義」が基調になることである。


 ----実体主義と言っても、質料実体主義もあれば形相実体主義もあり、アトム(原子)実体主義もあるし、社会とは名目のみで実体は諸個人だけとする社会唯名論もあれば、社会こそが実体で諸個人は肢節にすぎないという社会有機体論もある。


が、実体こそが真に存在するもので、関係はたかだか第二次的な存在にすぎないと見なす点で共通している。


 ----これに対して、現代数学や現代物理学によって準備され、構造論的発想で主流になってきた関係主義では、関係こそを第一次的存在とみなすようになってきている。


しかしながら、主観的なものと客観的なものとを分断したうえで、客観の側における関係の第一次性を主張する域をいくばくも出ていない。


更に一歩を進めて、主観と客観との分断を止揚しなければなるまい。


 私としては、そのことを「意識対象-意識内容-意識作用」の三項図式の克服と「事的世界観」と呼んでいるのだが、私の言い方の当否は別として、物的世界像から事的世界観への推転が世紀末の大きな流れであることは確かだと思われる。


(一九九四年三月十六日、「朝日新聞」夕刊)


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kegon02.html