私の【裏】プロフィール | 【心躍る心理学】女子率96%の高校出身者が語る、心屋流でパートナーと心と体で結ばれる自分になる秘訣◇恋愛・セクシャリティ◇京都 東京

【心躍る心理学】女子率96%の高校出身者が語る、心屋流でパートナーと心と体で結ばれる自分になる秘訣◇恋愛・セクシャリティ◇京都 東京

中学はブラバン、高校は共学一期生。ハーレムと思われる女子社会をサバイブしつつ、彼女の自殺や友人との死別を経験しつつ、
ダメな自分を受け入れていった心屋式リセットカウンセラー兼選曲屋の
基本ゆるくてタマにアツーく何かを語るブログ。



過去を話す記事ってね、

だいたい人を不快にさせる事が多いんです。

自分の触れてほしくない、痛いところに触れたりすると、

勝手に色々コメント頂くもので(笑)

で、

「なんでそんなん書くんじゃ」

といわれたら、

今回は、

これから本気で私にお話をしたいと考えている人、

私のことを知らない人に

私の事を分かってほしいからです。

私はだいたいニコニコしている方だし、

それなりには空気読めちゃうし、

片方で天然でおっちょこちょいで、

気分屋だし、腹落ちしないと動けない、

っていう、典型的なややこしい人なんですけどね。




どの世界でもそうですけど、その世界に入る、って

なんかきっかけとか理由があるはずなのです。

だから、それをお伝えします。




なので、こちらを見ている

あなたならわかると思うけど、

万人向けの記事じゃないし、

多分、見なくてもいい人かもしれませんよ。

「見たくなるやん」っていう人もいるけど、

それは、個人の自由で見たらいいし、

見たくないなら見ない選択を自分でしてね。

それができないなら、本当に見ないでいいですよ、

この記事は。








では、下へどうぞ。























































:::::::::::::::::::::::::::

過去にもブログで書いていますが、

私は、幼少期から人の死を多く経験しています。


小2で母方の祖父を亡くして以来、

小6で祖母、

中学校で彼女が自殺、

高校においては

1年生で同じコースの同窓生が、

2年生で先輩が事故死、

3年生では部活の後輩が、

社会人になってからも友人が鬱で自殺

といった具合です。


◆中学

一番こたえたのが彼女の自殺です。

彼女は塾が同じで別の中学だったのですが、

ある日飛び降り自殺をしました。

翌々日の日曜日の朝一に

友人から電話を受けて、その事実を知ったのですが、

そんなの言われても全く理解できませんでした、

ご遺体と対面するまでは。


こういった話はどうしても噂話となって

私の中学でもジワジワ広まり、

実際に本当にあったのかと確認しに来る人も居ました。


そんなある日、ある同級生から

こう言われました。




「お前のせいで死んだんじゃ」




彼女はその時はヤンキー的なキャラだったので、

何の気なしに言っただけかもしれませんが、

言われた私の方はとても傷つきました。

付き合っていたのは2週間程度でしたから、

そんな私がひどいことをしたなんて多分ありませんでした。

他の人には「死にたい」と漏らしていたようですが、

そもそも、私は自殺願望があったことすら知りませんでした。



それまでずっとどこかで夢の中だと思っていた事が

現実になると、

「あの時誘っていたら」

「あの時一言声をかけておけば」

と、とても大きな罪悪感を感じました。



中には色々と心配してくれる友人や

クラスメイトも居ました。

しかし、私は、

「どうせ俺の気持ちなんて分かるはずがない」

「俺と同じ経験なんてできないやん」

「同情なんていらん」

「自分の気持ちをさらけ出さない方がいい」

拗ねる事で、自分を守ろうとしていました。

いや正しくは、亡くなったという現実、

自殺願望があったという事実を知らなかったこと、

何も出来なかった情けない自分から

逃げていただけだと思います。

ですが、当時の私は、

『人は本心を晒しても分かってくれない』のだから

『ならば出さずにうまくやっていった方を選ぶ』

と、決めました。



◆高校

いきなりの自殺の現実を受け入れるのは、

時間薬でもなかなか難しい事でした。

理解し難いのですが、

「彼女がいない」という事実が辛い、という状況でした。

表プロフィールでも書きましたが、

私が進学した高校は共学化した1年目。

彼女を途切れず作って誤魔化すことにしました。

付き合ってはすぐ別れてを繰り返して、

とひどい事を繰り返ししました。


そのうち、

付き合ってもいないのにヤリ捨てされたという噂話が出たり

その噂話を信じた人から脅迫を受けたりということも出てきました。


少ない男子の同級生も「ややこしい奴」と思われていました。

私は仲良くしたいのですが、出来る状況を自分で殺していました。


それでも、時間があると、

惨めな気持ち、辛い気持ちが出てきます。

なので、

とりあえず、帰ったら倒れるくらいに

予定を入れる事にしました。

自分が没頭できそうな事は、全てやる事にしました。

カーネギーも、

「考える暇があれば働け」、といっていますが、

その通りにしていました。


そんな状況もあり、

表プロフィールでも書きましたが、

同じクラスの同級生からは

「穴井くんはクスリやってると冗談抜きで思ってた」

と言われる位、周りからみると変わった人だったようです。





その一方で、

同じように悲しむ人を増えてほしくないという思いもありました。

たまたまその時付き合っていたご両親から

大阪の社団法人が新たに子どもの悩み相談窓口を開設するにあたり、

ボランティアを募集するチラシを頂きました。

すぐに応募し、その後半年間養成講座に通い、

月に何度かは学校終わりで大阪まで出向き、

子どもの悩みを子どもが聞いていました。


それでも冒頭書いた通り、

先輩・後輩が亡くなります。

人はなぜ死ぬのか、生きるとは何かを

考えるようになり色々と本を読んだりしていく

とある縁で飯田史彦氏の「生きがいの想像」と出会い、

「生まれてくる前にストーリーを決めて、人は生きる」

という概念に出会い、衝撃を受けました。

そして、人にイヤな気持ちをさせると、

それがいづれ返ってくる

(因果応報の法則のようなもの)を

強く信じるようになりました。

その後もボランティアを続けさせて頂けたお陰で、

大学にも推薦合格することができました。

滑稽なことに嫌いでダメな自分を売り込むという

「自己推薦方式」での合格でした。


◆大学

人目がとても気になる学生でした。

誰かに見られている気がする(そうではないけど)、

私の悪口を陰で言われているのではないか、

自分のダメな部分を見透かされているのではないかと

思うと、

なかなか人と仲良くなれない、

ただ、元来の目立つ性格なものと、

外面は良いので、合わせる事はちょっとできる。

そんな、

よく言うと繊細、悪く言うと自意識過剰な人間でした。

何よりも、自分に自信がありませんでした。

「張りぼて」でした。

その証拠に、

その頃の写真を見返すと、

あんまりまともに笑顔で写っているものが少ないんですね。

変顔してごまかしてたりしています。


表プロフィールでも書きましたが、

大学では女性関係は

一度不眠症と拒食症になるほど好きな人が出来たお陰で

落ち着きましたが、多忙な生活は継続。

ゼミ長をしながら部活と軽音楽部に入り、

広告表現の民間の学校にもダブルスクールで通っていました。

その影響で、就職活動は広告関連の会社ばかりを狙い、

特に人生の岐路の広告である採用広告に興味があり、

クリエイティブ(制作部隊)志望で

大手総合人材サービス業の会社に入りました。



◆1社目:営業への配属と適応障害

東京行きは叶いましたが、

配属はクリエイティブではなく、営業でした。

今思えば、ずっと作って演じてきたキャラクターは、

その会社の求める営業像にピッタリでした。

最初はアルバイト領域の採用広告の営業でした。

上司や同期にはとても恵まれましたが、

大型受注や大量受注で入賞したりした事はあっても、

安定したパフォーマンスが出せない状況が続きました。

なんせ、「自己開示ができない」訳です。

何とかしようとテクニックに走りましたが、

「自分を売り込む」ということがどうしても苦手でした。

本心を晒す事ができません。

心のなかでは「営業=押し売りしてでもノルマ達成する」のが、

とても非道な事と感じていました。

色んな方から「営業っぽいね」と褒め言葉で

言われることが(今でも)ありますが、

当時は喜んで受け止めることなんてできませんでした。

むしろ、人間性を否定されているような気がしていました。


その後、親の体調や希望もあり、

東京から大阪に転勤させてもらいましたが、

より、ディープな深耕営業が求められる

正社員領域の採用広告の営業担当になりました。

さらに、社内の人材紹介の別の事業領域の人と

二人三脚での営業スタイルとなり、

人間関係がより複雑になり、

さらに新規開拓を任されました。

高いパフォーマンスの要求に応えるために、

8時過ぎ~23時ごろまで働き、

土日も片方はわざわざ大阪まで出社。

(個人情報の保護が厳しくPCは持ち出し厳禁でした)

そもそも営業出来る人を非道とか思っているわけですから、

何をしても上手くは行かず、

地下鉄に飛び込もうとしている自分にビックリし、心療内科へ。

適応障害と診断されて、その後、退職することにしました。


そんな時に支えてくれていたのが、

付き合ってくれていた彼女でした。

彼女は高校の時からの知り合いですから、

ここに書いた過去はほぼ全て打ち明けていました。

彼女だけはせめて幸せにしたいなという思いで、

彼女の求める生活レベルを実現できる製薬会社のMRになりました。


◆2社目:結婚の破談と友人の自殺

選んだ会社は外資系でしたが、企業文化は典型的な内資系でした。

今までのベンチャーマインドあふれる社風とは真逆。

逆を知る事ができて良かったのですが、

根本的に自己開示の恐怖は解決出来ていません。

定価が家1軒くらいの高額医療機器を先に病院に買って貰わないと

売りたい薬が売れない、というビジネスモデルの

特殊検査の測定試薬と機器のMRでした。

特殊検査は通常外注で行いますが、

それを院内でやろう、とする

少ないお客様の取り合いですから、

社内、ユーザー、病院事務方さん、

卸さん、同業異分野のMRさんらと

コミュニケーションを常に密に取りながら

働く事が必要でした。

大阪時代よりも更に人間関係が複雑になり、

上司や、他の会社の方などあらゆる手段を使って

5~10年に1回だけ訪れる高額医療機器の

機種更新のチャンスをものにする営業。

難易度が高い仕事であることと、

営業利益率が良い企業だったので、

給与は1.6倍になりました。

そして、婚約もできましたが、

彼女のキャリアプランから話しあった末に

遠距離恋愛をすることに。

その時、彼女に使っていた時間は

他の女子ではなく、音楽に充てて、

やってみたかった選曲ごっこを始めました。

会社の先輩からも

「最初からこんなビジネスモデルは上手くいかない」

「一生懸命やっていれば結果はついてくる」

「プライベートもしっかり充実させろ」

と上司・先輩も励ましてくださり、

遠距離を続けながら、

平日は日付変わる手前まで、

休日は音楽にと、ここでも忙しくしていました。


しかし、クラブに出入りするような人=危ない人という

(表向きの)理由で婚約は、破断。



そもそも入社した理由がなくなってしまいました。


それから、半年も経たず、

また、友人を鬱で亡くなりました。

私にビールの面白さを教えてくれる

きっかけになった人でした。

東京在住でしたが、京都に帰ってからも

東京で数回飲んだり、

その人も京都に移住する計画があったりしたので、

久しぶりに電話した時も

「京都にきたら家でワイワイしよう」と

言っていましたが、叶いませんでした。



その頃から、

社内でのコミュニケーションが上手くできなくなりました。

例えば、

大切なホウレンソウができない、から始まり

何故か提出物が期限内に提出できない、

メールを開くのが恐怖。

電話がなるのが恐怖。

そんな状態になっていました。

当時を振り返ると自分でも不思議なのですが、

何故か、できなくなっていました。


当時、心屋でも

「やりたい事をやろう」と言われましたが、

そんなこと分からない。

その時出来る一番のバンジーは、

高給を手放す事。

ただし、

上司に自分の気持ちを確り伝えて、

「揉めよう」

と今までとガッツリ逆のことをしました。


一人では売れないものを売っています。

色んな人が私の事を思って言ってくれています。

ですが、中には

自分の都合のためだけに言っているな、

という件に関しては徹底して言いました。

「そこまで言うなら同行の一つもしてくださいよ」

「ビジネス決めるためにやるんでしょ?」

(そのお客様は小規模な病院様だったので、

そもそも院内で少ない検査を院内ですると、

使用期限切れで捨てるしかなくなっちゃうんですね。

Drまで口説いてやってたんですが………)


ですが、

私の体が「強制終了」を先にしてくれました。

これをきっかけに会社都合の退職に判を押しました。


そして、私が判を押す前週に

いかりんがFacebookで

「マスターコースやるよー」

と告知が入ったんです。

そして、退職後、

募集フォーム開始。

クソ長いメッセージを送り、

(長くても落ちる時は落ちるようです)

選考に通過し、

その翌週には入金、同週末には初日開催。

そんな流れで心屋の門を叩いたんです。












だから、

私はビジネスで大成功したとか、

人よりも圧倒的に自慢できるものがあるとか、

そういうわけではありません。

思い出せば、

親の躾が厳しくて、

親の目を見て機嫌を取ることが必要で、

親の目におびえていたように思います。

一度怒られたら、2~3時間は怒られてました。

それは、私が本音を言わなかったからなのですが

本音を言ったら余計に怒られるという

変な思い込みが三十路になるまで

ずっと続いていたんですね。

だから、人の目を気にして

本音を言わなくても大丈夫なように

いい人を演じて来たんです。

いい人を20数年やっていれば、

それなりに人の表情とか

所作とかから性格が分かるようになります。

自然とプロファイリングして

見張っていたんですね。

そして私の所に入って来ないようにしていたように

思います。


でも、今は、いい人完全に辞めてしまいました(笑)


そして、心のストレスを溜めずに

気楽にやりたい事をやって、

一緒に居たい人と居れる日々を

過ごせています。


だから、あなたもそうなれるはずなんです。

私が大丈夫だったんだから、

どんなあなたも大丈夫。

それだけは、心の底から伝えられるんですよね。






また、どこかでお会いした際には、

ここを読んだ事も伝えて頂けると

励みになります。


アホな話もマジメな話も

たくさんしましょう。










長文読んで頂いて、ありがとうございました。