――1981年12月24日。
日本中が浮かれたムードに支配されるこの日。日本有数の歓楽街である新宿のこの界隈も、その例外ではなかった。
そこかしこから聴こえるクリスマスソングが種々雑多に混じり合い、キツ過ぎる芳香剤の匂いにも似た、狂騒的なノイズとなってこの街に充満している。
そのダンススタジオは、そんな街中の古い煤けた雑居ビルのワンフロアにあった。
バレエ教室やダンススクールなど様々な団体が、曜日と時間を区切ってそのフロアを間借している。彼女が所属する――予定の――芸能プロダクション・K音もそのひとつだった。
周囲の騒がしい雑音も、ここには届かない。防音は行き届いている。
その用途に相応しく四方を鏡張りにしたその部屋は、静寂に包まれている。
コンセントに繋がれたラジカセも、いまは沈黙していた。
ただひとつ、鏡の壁にテープ貼りされた、杉村星奈のポスターだけが、奇妙な違和感と異彩を放っていた。
聴こえるのは、荒い、少女の息づかいひとつ。
バスタオルを床に敷き、そこに身体を横たえている。
つい先ほどまで、激しく身体を動かしていたのだろう。荒い息づかいとともに、腹部が大きく上下している。
真冬だというのに、少女の上衣はTシャツひとつだ。だが、まったく寒そうには見えなかった。汗にまみれた少女のTシャツを押し上げている胸の隆起は、彼女が見事なプロポーションの持ち主であることを物語っている。
そこにノックもせず乱暴にドアを開け、ことさらズカズカと足音を立てるように男が近付いてきた。その片手に、小さな手提げの紙袋をさげている。
歳の頃は初老だろう。渋味を帯びた容貌の頭髪には、白いものが混じっている。咥えタバコの煙をくゆらせて。
「おい」
男は不機嫌だった。むろん、少女の態度に気分を害しているのだった。
「なにもしゃちほこ張って気をつけしろとは云わねーがよ、その態度はねえだろ? おれが誰だか忘れたか、あん?」
「その必要が?」
少女が云った。身体を横たえ、眼は閉じたままだ。
「あなたとわたしは無関係。いまは。そうよね?」
「けっ」
吐き捨てるようにそう呟き、ついでに咥えタバコを二本の指で口からもぎ取ると、盛大に紫煙を吐き出してみせた。
「まだ怒ってんのか?」
呆れたような、困ったような、苦い表情で、男は口ではそう云いながら、その目線は床に仰臥したままの少女ではなく、鏡の壁のある一点に注がれていた。
(………?)
なぜ、杉村星奈のポスターがここに――? それは大いに興味をそそられる疑問ではあったが、いまは違う話が先決であった。
「デビューは来年! 今年はミッチーの年だ。ジーザスと喧嘩はできねーよ」
ミッチー――男性アイドル・新堂ミチル(本名・充)のニックネーム。ジーザス事務所所属。
ジーザス――ジーザス事務所。ジーザス北村社長率いる男性アイドル専門の芸能プロダクション。男性アイドルはこのプロダクションの独占状態にあり、業界での権勢は絶大。他のプロダクションは男性アイドル分野から撤退を余儀なくされた。
「彼なんて、別に目じゃないのに」
苛立ちを隠しもせず、少女は云った。
「そう思ってるのは、お前だけさ。実力だけで勝てるほど、甘い世界じゃないんだよ。事実、去年、杉村星奈は田宮鋭彦とぶつかって、最優秀新人賞を逃した。――まあもっとも、去年を見送ったとしても、今年ミッチーとぶつかるから、同じことだがな」
田宮鋭彦――男性アイドル。ジーザス事務所所属。ニックネームは「トシ」。野口芳文、新堂ミチルとともに、三人組の「たのしんトリオ」として売り出されている。この姓名に覚えのあるひとは平井和正ファン。
(くだらない――)
少女は思った。
業界の根回しで結果が決まる出来レースの賞など、その実態は早晩、大衆の知るところとなり、権威も注目も喪ってしまうだろう。
だが、少女はそれを口には出さなかった。議論をするのも、くだらなかった。少女は、こうした賞レースにそもそも関心を持たなかったのだ。
「幸い、来年ジーザスから有望な新人が出るという情報はない。だから、来年だ。来年――といっても、もうすぐだぞ?――君は『スター創生』で「合格」を獲り、晴れてウチの所属となるわけだ」
「それも出来レース……素敵なお話ね。ゲロ吐きそう。よその事務所と契約しちゃおうかしら?」
男はまた、盛大にため息をついた。
「あんまり、つまらんことを考えるなよ。話はついてるんだ。業界ぐるみでな。云っとくが、ウチだって結構“力”はあるんだぜ? ジーザスほどじゃないにしてもな。あんまり、ウチの会社を舐めるなよ? ところでよぉ――」
男は埒もない話を切り上げ、先程から気になっていた疑問に、話を切り替えた。
ウチの会社を舐めるなよ?――知ってる人にはわかりやす過ぎる、某人気漫画からの拝借。
「なんだって、こんなところに、あんなものがあるんだ?」
鏡張りの壁に張りつけられた、杉村星奈のポスターを向いて云った。
「まさか、憧れてるってわけじゃないんだろ?」
ブッ――と少女は噴き出した。
「憧れてる? わたしが? あの女に――?」
ハッハッハッ――。
少女は、腹を抱えて大笑いした。文字通り、彼女は笑い転げたのだった。
「ああ、可笑しい――。今年一番の大爆笑」
そう云って、少女はすっくと起き上がった。
「憧れ? 冗談でしょ?」
そう云って、少女はそのポスターに近寄った。
そして、ダンッ――と杉村星奈の笑顔のすぐ横を掌で叩きつけた。
「これを見るとね――力が出るの」
目線で人を殺せるならぱ――そんなギラギラした目付きで、少女はポスターの星奈を睨みつけながら云った。
「キツくて、辛くて、クタクタに、ヘトヘトになって、もうダメ、限界、倒れそうになったとき、これを見るの……」
「………」
「するとね、身体の奥底から、燃えるような、力が湧いてくるの……。こんちくしょー! 笑うな! わたしがデビューしたら、お前なんか、わたしの足元に這いつくばらせてやるんだ! そう思ったら、まだ立てる。まだ動ける。弱音を吐いていたのは、ただ甘えてただけ……。そう気づかせてくれる。これは、そのためのもの……」
「その意気さ」
男はあらためて、少女のこの自信と、そして闘争心に、感嘆、感服していた。
生意気な態度に腹は立ったが、それさえも彼女の器のデカさの証だと、彼は買っていた。その彼の勘が、この職のベテランである彼をして、その気難しさに誰もがさじを投げたこのジャジャ馬の担当を買って出させたのだ。
「だが、女王に闘争心を燃やすのも結構だが、ライバルも大勢いるってことを忘れるなよ? うちは来年に標準を合わせたわけだが、考えてることはよそさんも同じさ。大変な年になるぞ? 来年、82年は――」
「まず筆頭は――」
男は続けた。
「今泉郷子。よそのデビュー前の新人で、おれが一番買っているのは彼女だ。それから、第二のヒデオの妹、金沢秀美。堀地えみ。友松衣世。速水優里――」
さらに男は続ける。
「こいつらをぜーんぶブッ倒して、トップを獲るんだ。お前が」
第二のヒデオの妹、金沢秀美――素直ちゃんって、エアウェイ・ハンターの妹だったの? いや、「西城」とは云ってませんよ?
「同期対決なんて、興味ない――」
少女の返答は、にべもなかった。
「的はひとり――ってか? まあいいさ」
男はシュラッグしてみせた。
そのキザったらしい仕草に、少女は少しイラッとした。
「ウチはお前がモノになってくれりゃあ、それでいいのさ。期待してるんだぜ、お前さんには。そうイラつくなよ。デビューは、もうすぐさ。それまで、しっかりレッスンに励んでくれよ? 玲(あきら)――」
踵を返して去ろうとする男の背に、少女は云った。
「ここ、禁煙なんですけど?」
機嫌を直して立ち去ろうとしていたところに水を差され、再び不機嫌な表情で振り返る。
「さっきからタバコの灰を床にばら撒かれて、迷惑なんですけど?」
「おれに向かってそんな口がきけるのは今のうちだ。正式にウチの所属になる前に、その口のきき方もしっかり直しとけ。許されるんだよ、おれは。ウチの息がかかってる所じゃあな」
「権力が振るえる場所でだけ横柄な、お山の大将。ジーザスにはビビってるくせに」
「お前な、いい加減にしろよ……?」
男の怒気をまるで意にも介さず、少女はさらに怖しい科白を口にした。
「黙っててあげるから、一本恵んでくれません?」
「おいおい……」
男はさすがに狼狽を隠せなかった。
もしそうなら、ただ事ではない。写真一枚で致命傷だ。アイドルのイメージ云々以前に、彼女はまだ未成年なのだ。
プッ――と少女は噴き出し。また、笑い転げた。
今度は天真爛漫に、年相応の少女に相応しく。
「冗談です。喫煙の習慣はありません。本当ですよ?」
天使のような。悪魔のような。
ケラケラと笑うこの少女に初めて、商品価値を値踏みするのでなく、女としての魅力を心で感じた。もし自分が同年代のガキだったら、惚れていたな――と。
いい歳をした自分が、こんな少女に翻弄されている……。そのことに驚きを禁じ得なかった。
職業柄、いわゆる「美少女」はイヤというほど目にしてきた。
そんな彼の経験に照らしても、彼女はこれまでになく「特別」だった。
美貌やスタイルの良さは一目でわかる。歌唱力、ダンススキルの高さもよく知っている。しかし、それらに増して大事な素養があると、男は思っている。それは、ハートの強さだと。
そこが、この少女は規格外だった。
(本当に、超えられるかもしれない――)
(あの杉村星奈に、この娘なら――)
その雑居ビルの一階エントランスで、男はインストラクターの青年と鉢合わせした。
「いらしてたんですか!? 仰ってくだされば――」
恐縮した表情で、その青年は云った。
「いやいや、急についでで寄ったもので。……いっけね、こいつを渡してなかった」
男は手に提げた紙袋を持ち上げて云った。
「それは――?」
「ケーキです。陣中見舞いの差し入れに。クリスマスなのでね。申し訳ないが、ここでお渡して構いませんか? 二人分あります。召し上がってください」
「いえ、どうかご自分で渡してください。彼女、よろこびますよ」
「どうだか――。それに、急ぎの用もありますので」
そうですか、それでは。――と青年は受け取った。
「どうですか、彼女は?」
男は青年に訊いた。
「根性ありますよ、彼女。こちらがたじろぐ程です。呑み込みが早いし、なによりひたむきで熱心です」
「そうですか……」
「真面目で、素直です。とても、いい娘だと思いますよ。確かに、ちょっとヒネクれてて、気難しくて、とっつきにくいところもあるけど、根は真っ直ぐな娘なんじゃないかなあ。それで、かえって小狡い大人の妥協ができなくて、周囲とぶつかって、誤解されることもあるような気がします」
「なるほど……」
現実における82年の新人賞レースがどうであったか。ジブがき隊が、レコード大賞最優秀新人賞に輝いています。
ですから、ミッチーこと新堂ミチルとの対決をこぞって避けたがために、82年がアイドル当たり年になったというのは、あくまでもこのお話だけのフィクションです。
現実における82年のアイドルシーンがああいうことになったのは、本当に要するにただの巡り合わせ。あえて云うなら、神様の悪戯としか云いようのないものだったのだろうとワタシは思います。
ところで、現実における82年の最優秀ではない新人賞の受賞者は、石川秀美、早見優、堀ちえみ、松本伊代。……なんと、小泉今日子もあのひとも、「新人賞」を逃してたんですね!? 意外。そして、不思議に運命的なものを感じてしまいます。
青年と別れて、男が新宿駅東口前に差し掛かると大型ビジョンでは、沢合素直がインタビューを受け、『紅白歌まつり』初出場の意気込みを語っていた。
「『紅白』出場は、わたしの夢でした。去年、同期の田宮くんや星奈さんがそこで歌っているのをテレビで見て、とても悔しい思いをしました。だから、今年の『紅白』に出られることをとても嬉しく、誇りに思います」
〈先日、あんなことがあって、不安に思っている人もいらっしゃると思います。そのへんのところ、いまの心境はいかがですか?〉
「あのときは、みなさんに本当にご迷惑とご心配をおかけしてしまいました。いまでも恥ずかしくて、消えてしまいたいぐらいです。――不安がないと云えば、ウソになります。でも、今度こそみなさんに恥ずかしくないステージを見ていただけるように、一生懸命頑張ります」
〈ありがとうございました。沢合素直さんでした。では次に、二度目の出場となります、杉村星奈さんです〉
アナウンサーは少し移動し、今度は素直の隣の杉村星奈にマイクを向け、インタビューを始めた。
大型ビジョンの映像では、杉村星奈が二度目の『紅白』出場に、堂々とその意気込みを語っている。その風格はまさに、早くもアイドル界の「女王」そのものだった。
新宿駅東口前の大型ビジョンと云えば、云わずと知れたスタジオアルタです。現実のアルタビジョンでは、重大事件のニュースなどはN〇Kの放送内容を映すこともあるにはあったようですが、このような『紅白』の番宣の放送を映すことは、ちょっと考えられません。この世界での新宿駅東口前の大型ビジョンは、アルタビジョンとは違うのかもしれません。
それから、このチョイあとのラストの描写ですが、この時代にはよくある光景だったのです。何卒、御寛恕の程を。
不敵な笑みを浮かべ、大型ビジョンの杉村星奈に睨みつけるような視線を注ぎ、男は思う。
(女王様気分でいられるのも、いまのうちさ。せいぜいひたっておくといい……)
(来年以降、あんたは女王の座から引きずり下ろされる……)
(ウチの中条玲にな……!)
男は紫煙をくゆらせるタバコをまるでそこに映る彼女に捧げるように、二本の指で持ち上げると、周囲には聞こえぬ程度の小声で、そっと囁いた。
(謹んで、御祝辞申し上げます。日、没するところの女王陛下に――)
「メリークリスマス!」
男はタバコを地面のアスファルトに落とすと、革靴の底で踏み消した。
「スマイル・フォー・ミー」創作ノート
特別編 少女A
(了)
ending 中森明菜『少女A』
○【期間限定特別企画】のこと
まず始めに、こういう云い方はまことにおこがましい限りですが、日頃ご愛顧いただいているみなさまへのクリスマスプレゼントして、この作品を期間限定で発表させていただきます。
本来の発表順序とは異なりますので、近いうちに一旦取り下げる予定です。本来の発表順に則るタイミングに至れば、再度アップいたします。
○杉村星奈のこと
モデル松田聖子+若干の中森明菜要素の混合キャラ。だから、名前も「星奈」。それが「本編」の主人公・沢合素直にとりまるで勝ち目のない強力過ぎるライバルとしての、彼女の当初の設定でした。
○本作のヒロインのこと
でも、出てきてしまいました。やっぱり書いているうちに、こういうことは変わってくるものです。
杉村星奈にとり素直は、実力=人気+セールスで及ばないだけでなく、哲学=人としての生き方がまるで異なり、ライバルとしては噛み合いません。ガチッとギアがハマるような、実力でも、なにより己れの哲学において相通じる、同じタイプのライバルを出現させてあげたくなった、描きたくなりました。
彼女が『「スマイル・フォー・ミー」創作ノート』の「第三極」として本編で活躍するかとなると、それはないと思います。なぜなら81年の『紅白歌まつり』が、本編のほぼほぼクライマックスだからです。彼女のデビューはそのあと。そこから星奈と彼女がどのような、公私に渡る壮絶な鍔迫り合いを演じるかは、みなさまのご想像におまかせする領域です。『SLAM DUNK』(井上雄彦)における、森重寛みたいなキャラですね。さらにワタシの好きな『あさひなぐ』(こざき亜衣)に喩えるなら、主人公・沢合素直が東島旭なら、杉村星奈は宮路真春。本作ヒロインはまさに、真春に対する戸井田奈歩に相当するでしょう。
(追記)
しれっと名前を変更しました。一度発表したキャラの名前を変更するのは、ほめられたことではありません。何卒、御寛恕いただきたく。沢合、杉村ときて、S音で始まる姓に執着し過ぎました。初稿の「鈴森」姓よりも、こちらはずっとしっくり来ます。漢字で(ほぼ)左右対称なのもいい。
○本編伏線のこと
アナウンサーがインタビューで質問した「あんなこと」とはなんなのか? それは創作者としての秘中の秘です。発表のその時まで(いつになることやら……)お待ちください。ワタシはドキュメンタリーを書く気はなく(そもそも、その資格がありません)、あくまでもある史実をモデルにしたフィクションを書いています。当然、史実よりも「盛り」ます。そうでなくては、現実のドラマに太刀打ちはできません。現実の河合奈保子さんが体験した事実よりも、さらに過酷な試練が沢合素直ちゃんには待ち構えています。
○多摩市カナメさんからのリクエストのこと
今回はendingをお送りしましたので、奈保子日記のいつものアレは割愛します。
○『「スマイル・フォー・ミー」創作ノート』本編のこと
本編はこちらです。こちらもどうぞ、よろしくお願いいたします。早よ、続き書けよ。
2024.12.24 初出 【期間限定特別企画】として公開
2024.12.27 一部変更