夕立は死語になるのか | かのっちのブログ

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エッセイのように、散文のように

 吉田拓郎は「夏休み」という歌の最後にこう伝えている。「ひまわり 夕立 セミの声」と。ひまわりは今もある。セミの声もある。だけど、夕立がなくなりつつある気がする。

 子どものころ、夏のあっつい日の午後、東の空にどんどん立ち込める入道雲。入道雲が広がって、頭の上までやってくるとザーッと雨が降り出す。夕立である。お母さんたちは急いで洗濯物を取り込み、子どもたちは雨に打たれながらはしゃいでいる。暑い夏のひと時のシャワーになる。はしゃいでいるのは、この雨がすぐに止むことを知っているから。

 夕立は町にとってのちょっとした打ち水。一瞬の涼しさを運んできてくれる。もちろん、夕立が去った後には、また暑さが戻ってくることはわかっている。大人も、子どもたちも。だけど、夕立が来るのを楽しみにしていたような気がする。

 ここのところ猛烈に熱い日が続いている。だけど、夕立はない。「ひまわり 夕立 セミの声」