なんで組んだんだろう | かのっちのブログ

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エッセイのように、散文のように

 先日、大相撲初場所が稀勢の里の優勝で幕を下ろした。そして、日本人の横綱誕生に湧いた。ハラハラ、ドキドキしていたけれども、千秋楽の一番は強さが本物になったことを裏付けるようなシーンになったと感じた。この間、帰宅の車の中で、大相撲の放送を聴いていると「あ~あっ、あの時な・・・」思うことがあった。
 
 山形県というか、東北では子どものころ相撲が盛んに行われていた。青森などから相撲取りが多く輩出したこともあるし、山形では柏戸の出身ということもあり、盛り上がることもあった。
 当然、私の長崎小学校でも一年のある時期に全校上げての相撲大会が執り行われていた。この時期、体育時間は毎回のように相撲になる。グラウンドにたくさんの円が描かれて、即席の土俵が姿を現す。もちろん、土俵もある。当時の小学校には屋根のついた土俵があった。それもほとんどの小学校に設置されていたように記憶している。これも相撲が東北地方で盛んだったことを示しているだろう。
 全校あげて相撲大会に向って相撲がとられる。1年生から6年生まで。もちろん、男子も女子もである。この相撲大会のメインイベントは、6年生によるメイン土俵での取り組みになる。前頭から横綱まで決められ、横綱は土俵入りも行った。町の一大イベントにもなっていたように思う。
 土俵で取る子どもの決め方。各クラスとも体育の時に赤組と白組に分かれていた。当時は3クラスあり、各クラスの赤組と白組から先生方によって選ばれていたように思う。私は個人的に相撲を見ることは好きであった。しかし、取ることになるとあまり積極的ではなく、怪我しそうなので引いていたように思う。この思いとは反対に、当時、からだも大きめだったこともあり、西の大関に抜擢された。正直、あまりうれしくなかった。「なんで俺なの・・・」とも思っていた。
 取り組みが決まると、毎回体育の時間で対戦することになる東の大関。彼はどちらかと言うとやんちゃで、腕っ節も強かった。からだは細身ではあるが、組むといつも振り回されて投げられていたように思う。勝った記憶があまりない。ちなみに、東の横綱はからだが大きく、威圧感があった。しかし、動きは鈍かった。私の方の西の横綱はからだは丸っこく、動きは素早かった。そのため、この横綱の対戦は甲乙つけがたいものであった。大関戦はどうも・・・・・。
 さて相撲大会。1年生から6年生までの取り組みが、グラウンドのラインの土俵でとり行われたあと、メインの土俵でとり行われる。天気は良かったという記憶がある。まわしを締めた6年生の東西力士の土俵入り。東西横綱の土俵入り。土俵の周りには1年生から6年生までの子どもが囲み、家族の方々もいたと思います。屋台なども出ていたのかもしれません。そうした町の一大イベントで、多くの目線の先に私たちがいたことになります。ある意味ではかっこいいと思います。下級生はあこがれたのかもしれません。しかし、私の中では憂鬱な時間だったようにも覚えています。
 さて、取り組みが続いて、いよいよ大関の登場。練習ではあまり勝った記憶がありませんでしたが、やるしかありません。行司の「見張って見張って・・・はっけよい!」の声に合わせて立ち上がります。大相撲ですと力士たちの呼吸で立ち上がりますが、小学生のころは行司の「はっけよい」のかけ声に合わせて立ち上がりました。立ち上がってすぐに、「組んじゃった」となったわけです。組んでしまうとお互いに胸が合い、投げの応酬になります。そこはこらえたように思いますが、やはり振り回される。振り回されながら投げられるという内容です。そして、敗れました。「あ~あ、やっぱりな」という感覚が忘れられません。今思うと、「どうして組んじゃったんだろう」、「どうしてあの時、突っ張らなかったんだろう」、「どうしてあの時、回ろうとしなかったんだろう」と大相撲の取り組みをラジオで聞きながら思ってしまいます。「そしたらきっと・・・・・」 遠い遠い相撲大会です。
 長崎小学校は私が通っていたころの校舎が一度改築されて新しくなっています。それも20年ぐらい前の話でしょうか。それでも相撲場は残っています。山形に帰ったときは、小学校の近くに親戚があるので、必ず小学校を見つめます。私のころと変わった風景を。するとグラウンドの端に相撲場は小さくたたずんでいます。もちろん、屋根もついています。ですが、土俵には青シートがかけられていて、「今も使っているんだろうか」と考えるような姿です。すこし淋しさを感じる姿。学校をあげての相撲大会。苦い思い出の相撲大会。今も続いていてくれるとうれしいなあと思う。子どもたちが相撲を取る姿もとんと見なくなった。