今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -62ページ目

今日という日【12月7日】

■クリスマスツリーの日

1886年12月7日。

この日、横浜で外国人船員のためにクリスマスツリーが飾られたことに由来。

クリスマスツリーの原型は、北欧に住んでいた古代ゲルマン民族の「ユール」という冬至の祭で使われていた樅の木。冬でも葉を枯らさずにいる樅は生命の象徴とされていた。こうした「祭りごとを行う際に樅の木を飾る」という行為はドイツにも伝わり、キリスト教の普及と共にキリスト教との混淆が起こった。そして、1419年にドイツのフライブルクで、パン職人の信心会が聖霊救貧院にツリーを飾った。この記録が、クリスマスツリークリスマスに飾る行為の最初とされている。1600年代には、ドイツ各地で記録が残されている。ベルリンには1800年頃にツリーが伝わっている。イギリスへは、ヴィクトリア女王を通じて伝わった。夫のアルバートがドイツ出身であったため、彼のためにクリスマスツリーに飾って見せたところから。アメリカ合衆国で最初のツリーは、ドイツ移民によって1746年に飾られた。アメリカで導入された当時は、アメリカ建国当初からいたイギリス系清教徒のアメリカ人から、「クリスマスツリーは異教の文化だ」と断じられて、反発されたこともあった。

日本では1860年、プロイセン王国の使節オイレンブルクが公館に初めて飾った。1874年には「原 胤昭(はら たねあき)」により築地大学(現:明治学院)で行われたクリスマスパーティーに、日本初のサンタクロースとともに登場している。1885年に横浜で開業した明治屋が、1900年に東京銀座へ進出すると、銀座のクリスマス飾りは広く行われるようになり、同じころには、神戸でクリスマス用品の生産が始まった。日本のクリスマス行事は、1928年の朝日新聞紙上で、「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれるほど定着していた。太平洋戦争中は影を潜めるが、戦後すぐに復活、1948年には東京駅などのクリスマスツリーが、(当時は国営鉄道であったため)宗教活動ではないかと問題にされ、運輸省が「季節的な装飾のひとつで宗教活動ではない」と釈明するひと悶着もあった。現代の日本においては季節的な装飾として定着している。

今日という日【12月6日】

■モントリオール理工科大学虐殺事件

1989年12月6日。

この日、カナダケベック州モントリオールのモントリオール理工科大学で虐殺事件が起きた。犯人は「マルク・レピーヌ(Marc Lépine)」という25歳の男性で、半自動ライフルと狩猟用ナイフを用いて28人を銃撃、うち14人を殺害(いずれも女性)、14人に怪我を負わせた後、自殺した。

「マルク・レピーヌ」は大学の教室に入り、男子学生と女子学生に分けた後、フェミニズムに反対していることを告げ、部屋にいた9人の女性を銃撃(うち6人は死亡)。その後「マルク・レピーヌ」は、廊下からカフェテリアへ、そして別の教室へ移動しながら女性ばかりを銃撃。14人の女性を殺害、4人の男性と10人の女性に怪我を負わせた。その20分後、「マルク・レピーヌ」は銃によって自殺した。
「マルク・レピーヌ」はフランス系カナダ人の母親とアルジェリア人の父親の間に生まれ、子供の頃から父親に肉体的な虐待を受けるとともに、徹底した女性蔑視の思想を植え付けられた。彼のノートには政治的な動機と、フェミニズムによって自分の人生が台無しになったことが書かれていた。また、ノートには、レピーヌがフェミニストだと考え、殺したいと願ったと思われるケベックに住む19人の女性の名前が表になっていた。

この事件は、多くのフェミニストの団体や、公的機関はこの事件を、反フェミニストが行った女性に対する社会的な暴力の代表例だとした。その結果、事件の起こった日は「女性への暴力を記憶し、それに対して立ち上がる国民記念日」とされた。

警察はこの事件において、犯人が大量殺人を行うことができるほどの時間を与えてしまったことを厳しく非難された。最初に現場に駆け付けた警官たちが建物の周りに非常線を張ってその前で待機している間、7人の女性が次々に殺された。これを受けた警察は、2006年の「ドーソン・カレッジ銃乱射事件」の際に緊急対応機関と連携してきぱきとした仲裁を行ったため、犠牲者は女性1人だけだった。

今日という日【12月5日】

■負の世界遺産

1996年12月5日。

原爆ドーム」の名で知られる「広島平和記念碑」が、この日、ユネスコの世界遺産文化遺産)に登録された。

元は広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑(被爆建造物)であり、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、特に負の世界遺産と呼ばれている。

1945年8月6日午前8時15分17秒、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾を投下した。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約580メートルの地点で炸裂した。
原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達した。0.8秒後には前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風(参考として、気温30℃時の音速は秒速349メートル)が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされた。このため建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。原爆投下時に建物内で勤務していた職員ら約30人は、爆発に伴う大量放射線被曝や熱線、爆風により全員即死したと推定されている。

広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まった。その中で鉄枠のドーム形が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる1951年頃にはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていた。
原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、1960年代に入ると、年を追って風化が進み、危険であるという意見が起こった。一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発になった。広島市当局は当初、「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべきである」などの理由で原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まっていたが、流れを変えたのは1人の女子高校生、「楮山(かじやま) ヒロ子」の日記であった。彼女は1歳のときに被爆し、15年後の1960年、「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」等と書き遺し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病のため16歳で亡くなった。この日記を読み感銘を受けた平和運動家の「河本 一郎」が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年に広島市議会は永久保存することを決議した。翌年保存工事が完成し、その後風化を防ぐため定期的に補修工事をうけながら、現在まで保存されている。市民の募金と広島市の公費により1989年に行われた2回目の大補修以降、3年に1度の割合で健全度調査が行われ、2009年に6回目の調査が行われている。広島市単体での保存・管理が続いていたが、被爆50年にあたる1995年に国の史跡に指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産文化遺産)への登録が決定された。